鶴澤鶴太郎

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鶴澤 鶴太郎(つるさわ つるたろう)は、義太夫節三味線方の名跡

初代[編集]

初代鶴澤鶴太郎 ⇒ 二代目鶴澤叶

二代目鶴澤叶参照

二代目[編集]

鶴澤鶴五郎 ⇒ 二代目鶴澤鶴太郎[1]

二代目鶴澤叶の門弟。本名田中卯三郎。通称黒鶴[1]。安政5年(1858年)生まれ[1]

慶応3年(1867年)2月稲荷社内東芝居『木下蔭狭間合戦』で初出座[2]。師匠二代目叶は父六代目染太夫の「竹中砦の段 切」を太夫付で引いている[2]

以降も稲荷境内の文楽の芝居に師に従い出座[2]。明治6年(1873年)4月松島文楽座で鶴五郎改二代目鶴澤鶴太郎を襲名[3]

『義太夫年表明治篇』は「鶴五郎改メ鶴澤徳太郎」とするが、鶴太郎の誤りである[2]

明治19年(1886年)5月御霊文楽座が最後の舞台となり[3]、同年8月29日没[1]。享年29歳[1]。戒名一雲院鶴遊信士[3]。墓所は大阪市北区東寺町宝珠院[3]

師二代目叶よりも早い死を迎えた。養子にして門弟に三代目鶴澤清六(三代目鶴太郎・三代目叶)[3]

三代目[編集]

初代鶴澤福太郎 ⇒ 三代目鶴澤鶴太郎 ⇒ 三代目鶴澤叶 ⇒ 三代目鶴澤清六

三代目鶴澤清六参照

四代目[編集]

二代目鶴澤鶴五郎 ⇒ 四代目鶴澤鶴太郎 ⇒ 四代目鶴澤叶二代目鶴澤清八

二代目鶴澤清八参照

五代目[編集]

二代目鶴澤福太郎 ⇒ 五代目鶴澤鶴太郎

本名:田中永太郎。明治43年(1910年)2月28日生まれ。三代目鶴澤清六の長男[4]

父三代目清六が大正11年(1922年)1月19日に没したため、同年、六代目鶴澤友治郎に入門し、父の本名にして幼名の福太郎を二代目として名乗る[4]

大正12年(1923年)2月御霊文楽座『伊賀越道行双六』「沼津里の段」で師六代目友治郎が津太夫を弾き、その胡弓を勤めている[4]。しかし、番付の三味線欄に福太郎の名はない[4]

大正13年(1924年)新京極文楽座『伽羅先代萩』「堤伐の段」で琴を弾いている[4]。大正15年(1926年)3月御霊文楽座の番付より三味線欄に鶴澤福太郎が確認できる[4]

昭和改元後も、若手会では役が付くものの、本公演ではツレ弾きや胡弓や琴での出演が多い[5]。昭和9年(1934年)3月四ツ橋文楽座にて二代目福太郎改五代目鶴澤鶴太郎を襲名[5]。近松門左衛門作『曽我五人兄弟』「大磯酒宴の段」の2枚目を弾いた。シンは師匠六代目友治郎。3枚目が父三代目清六の門弟四代目叶(二代目清八)、4枚目が義兄芳之助(五代目弥三郎)と一家一門による襲名披露となった[5]。『義太夫年表昭和篇』で確認できる最後の出座は、昭和11年(1936年)9月四ツ橋文楽座『関取千両幟』「猪名川内の段」の胡弓。以降の出座や没年等は不詳。昭和45年(1970年)刊行の『義太夫年表大正篇』の人物索引の解説には「既に歿」とある[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 二代目鶴澤鶴太郎”. www.ongyoku.com. 2022年3月14日閲覧。
  2. ^ a b c d 『義太夫年表 近世篇 第三巻下〈嘉永~慶応〉』八木書店、1982年6月23日。 
  3. ^ a b c d e 義太夫年表(明治篇). 義太夫年表刊行会. (1956-5-11) 
  4. ^ a b c d e f g 財団法人文楽協会『義太夫年表 大正篇』. 「義太夫年表」(大正篇)刊行会. (1970-1-15) 
  5. ^ a b c 『義太夫年表 昭和篇 第一巻』和泉書院、2012年4月1日。