鮑泉

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鮑 泉(ほう せん、生年不詳 - 551年)は、南朝梁軍人政治家は潤岳。本貫東海郡郯県鮑宏の兄。

経歴[編集]

鮑機の子として生まれた。史書に広く通じ、文筆の才能があった。湘東王蕭繹(のちの元帝)に仕えて抜擢され、信州刺史に累進した。太清3年(549年)、元帝の命を受けて湘州の河東王蕭誉を討った。長沙に到着すると、連城を造って蕭誉を圧迫した。蕭誉は鮑泉の陣に攻め寄せたが、鮑泉は柵に拠って堅守した。蕭誉軍の疲弊を待って出撃し、大勝をおさめた。長沙城を包囲し、攻城戦は長期にわたった。元帝は鮑泉を更迭し、平南将軍王僧弁を代わりの都督として派遣してきた。王僧弁が到着すると、鮑泉は鎖で拘束され、湘州攻略の遅れを謝罪させられた。まもなく元帝は鮑泉を任にもどさせ、王僧弁の下につけて郢州攻略のため東下させた。

大宝元年(550年)、郢州が平定されると、元帝は長子の蕭方諸を郢州刺史とし、鮑泉をその下で長史として郢州の事務を代行させた。大宝2年(551年)4月、侯景は部将の宋子仙任約に精鋭の騎兵を率いて郢州を襲撃させた。蕭方諸と鮑泉は油断しきって酒宴を楽しんでいたため、抗戦のいとまもなく城は陥落した。蕭方諸と鮑泉は捕らえられて侯景のところに送られた。6月、鮑泉は虞預とともに侯景の郢州刺史の丁和に殺害され、その遺体は黄鵠磯に沈められた。

著書に『新儀』30巻があった。

伝記資料[編集]