高田忠周

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高田 忠周(たかだ ただちか、文久元年5月9日1861年6月16日[1] - 昭和21年(1946年10月24日)は、日本の書家、説文学者、漢学者である。名は忠周、字は士信、竹山・未央學人と号した。『古籀篇』により、帝国学士院賞を受賞。『五體字類』の監修者として広く知られる。

経歴[編集]

文久元年(1861年)現在の東京都新宿区牛込に生まれる。はじめ書家を志し、明治2年(1869年)8歳にして、高斎単山の門に入って書を学び、村田直景島崎酔山植村蘆洲に漢学などの指導を受け、17歳にして両国薬研堀に書塾を開く。明治17年(1884年)、勝海舟のすすめにより内閣印刷局(朝陽閣)に奉職し、明治大正、昭和にわたり紙幣金銀貨公債等の文字を担当する。内閣印刷局漢字主任となり、内閣印刷局の蔵書を整理し、説文学の研究に励んだ。説文六書の学を研究し、三代よりに至る古文字の読法及び書写法を独修、後に説文学[2]の大家となった。

明治34年(1901年)、『朝陽閣字鑑』を著わした。これは大正10年(1921年)、補正され『補正朝陽閣字鑑』36巻が刊行された。また『漢字詳解』6巻を著わし、『古籀篇』(首巻1巻、本文100巻、補遺2巻、転注仮借説1巻、篆文索引6巻、隷文索引2巻、学古発凡6巻、すべて117巻。明治18年(1885年)起稿、大正7年(1918年)完成、大正11年(1922年)刊行)を著わすにおよんで、大正8年(1919年)、帝国学士院賞を受賞。三井財閥三菱財閥が出資者、政府が発行者となり、皇室へ献上された。国内外の大学や公立図書館、海外は中国(当時支那)をはじめ欧米各国の大学図書館へ寄贈され、大絶賛を博した。十体の書体を自在に書き分けたという書家としてだけでなく、漢文漢詩南画等を研修し、高い評価を得ていたが、漢字の研究に最も尽力し、「学界の巨人」と呼ばれ、中国の研究者達を驚嘆させ、後世にも大きな影響を与えた。泰東書道院学術顧問、大東文化大学名誉教授。 昭和天皇より「高田忠周(竹山)は国宝、我が国唯一の説文学者」と称された。説文学における東洋の泰斗である。

昭和21年(1946年)10月、東京都世田谷区成城の自邸において歿す。

主な編著書[編集]

  • 『五体千字文』(奎文堂、1880年)
  • 『小学必携習字問答』(1887年)
  • 『朝陽閣字鑒』三十巻(吉川弘文館、1902年-1903年) - 明治天皇天覧
  • 『漢字詳解』(西東書房、1909年-1912年)
  • 五體字類』(西東書房、1916年)
  • 『補正朝陽字鑑』(竹山先生著書刊行会、1923年-1925年)
  • 古籀篇』百巻(古籀篇刊行会、1925年) - 帝国学士院賞受賞
  • 『漢字の起原と支那古代の文化』(大阪毎日新聞社、1928年)
  • 『大系漢字明解』(冨山房、1936年)
  • 『十体字範』前後篇(興文館、1940年)

未刊の稿本に『克鼎釈文初藁』、『説文講疏』170巻、『段注弁疑』103巻、『説文要義』42巻、『字学淵源』25巻などがある。17歳より86歳の間に著書は三百巻に及ぶ。

記念碑・墓碑銘・作品所蔵先[編集]

記念碑・墓碑銘
作品所蔵先

関連人物[編集]

高田忠周(竹山)著書刊行会後援者

脚注[編集]

  1. ^ 学界の巨人竹山高田忠周先生』(文学倶楽府、1919年)1頁
  2. ^ 漢字の起源を研究する学問。

参考文献[編集]

後援会による出版物、略寿歴より出典。