飯沼
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飯沼(いいぬま)は、茨城県南西部に存在していた湖沼。享保10年 (1725年) 以降の飯沼新田開発により排水され、現在は水田地帯になっている。
享保年間以前[編集]
享保年間以前の飯沼は周辺23か村入会の沼であった。しかし、寛永年間に行われた鬼怒川の開削により干上がり地が生じ、周辺の村同士での干上がり地の境界や地先の損益をめぐって多くの争論が発生するようになった[1]。
飯沼新田開発[編集]
享保の改革の一環。
南西部の台地を開削して、飯沼から菅生沼へ至る水路を開発。それによって飯沼を排水し、新田とした。しかしこの排水は不十分であったため、飯沼に流れ込む江川を飯沼の上流で分流し、飯沼東縁に東仁連川、西縁に西仁連川を開通させ、これらを飯沼の用排水路とした。しかしそれでも排水は不十分であり、水害にたびたび襲われていた。そこで、昭和の時代に、さらに別の水路を南西部の台地に開削し、もともと鬼怒川に注いでいた東仁連川をその水路に流下させ菅生沼に導く工事がなされた。広さは1,525ヘクタールでとれた作物は、約2,157トンに増えた。
脚注[編集]
- ^ “テキスト / 享保以前の飯沼廻り村々”. adeac.jp. 2023年9月5日閲覧。
参考文献[編集]
- 長命豊「飯沼新田開発 --- 江戸期農民の水との苦闘史 ---」 ふるさと文庫, 1978.