項燕

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項燕

大将軍
出生 不詳
死去 負芻5年(前223年
主君 負芻→(昌平君
項梁項伯
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項 燕(こう えん、Xiàng Yān、生年不詳 - 紀元前223年)は、中国の戦国時代末期の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。楚の将軍項彬の子。西楚の覇王項羽とそのいとこ項荘の祖父にして、項梁項伯の父。の武将李信を大破したが、まもなく後の秦が楚を滅ぼした戦争の中、兵は敗れ、戦死または自決した。

生涯[編集]

史記』項羽本紀の記載によると、項氏は代々楚の武将として働き、項という邑に封ぜられた。これが項姓の祖先である[1]

負芻3年(紀元前225年)、秦の李信が20万の大軍を率いて楚に進攻したが、項燕はこれを破り、秦軍はほとんど全軍が覆没した[2]

負芻4年(紀元前224年)、秦の王翦が今度は60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となったが、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君(秦で呂不韋の補佐をしていた)を楚王として擁立して反抗した[3]

負芻5年(紀元前223年)、王翦は楚軍を追撃し、昌平君と項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡した(『史記』秦始皇本紀による[4]。『史記』楚世家では項燕の死後に負芻が捕虜となっている[5])。

脚注[編集]

  1. ^ ウィキソース出典 司馬遷『『史記』項羽本紀』。ウィキソースより閲覧。"項氏世世為楚將,封於項,故姓項氏。"。 
  2. ^ ウィキソース出典 司馬遷『『史記』白起王翦列傳』。ウィキソースより閲覧。"遂使李信及蒙恬將二十萬南伐荊。王翦言不用,因謝病,歸老於頻陽。李信攻平與,蒙恬攻寢,大破荊軍。信又攻鄢郢,破之,於是引兵而西,與蒙恬會城父。荊人因隨之,三日三夜不頓舍,大破李信軍,入兩壁,殺七都尉,秦軍走。"。 
  3. ^ ウィキソース出典 司馬遷『『史記』秦始皇本紀』。ウィキソースより閲覧。"二十三年,秦王復召王翦,彊起之,使將擊荊。取陳以南至平輿,虜荊王。秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王,反秦於淮南。"。 
  4. ^ ウィキソース出典 司馬遷『『史記』秦始皇本紀』。ウィキソースより閲覧。"二十四年,王翦、蒙武攻荊,破荊軍,昌平君死,項燕遂自殺。"。 
  5. ^ ウィキソース出典 司馬遷『『史記』楚世家』。ウィキソースより閲覧。"(王負芻)四年,秦將王翦破我軍於蘄,而殺將軍項燕。五年,秦將王翦、蒙武遂破楚國,虜楚王負芻,滅楚名為[楚]郡云。"。 

関連項目[編集]