韋煥章

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韋煥章
『朝日新聞』1942年4月20日
プロフィール
出生: 1892年光緒18年)[1][2][3]
死去: 不詳
中華人民共和国の旗 中国遼寧省撫順市
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府遼陽州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 韋煥章
簡体字 韦焕章
拼音 Wéi Huànzhāng
ラテン字 Wei Huan-chang
和名表記: い かんしょう
発音転記: ウェイ フアンジャン
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韋 煥章(い かんしょう。1892年 - 没年不明)は中華民国満州国の政治家。秀実。満州国では外交部大臣などをつとめた要人である。

事績[編集]

1909年宣統元年)、遼陽師範学校を卒業。以後、遼陽第一民立小学校長、奉天省教育庁第一科科長、同庁代理庁長を歴任した[2][1]

1931年民国20年)の満州事変(九・一八事変)後から、満州国建国工作に参加し、奉天教育事務籌備処処長に任ぜられた。翌年に満州国が正式に成立した後に、奉天省教育庁庁長に就任している[2][1]1937年康徳4年)7月1日、哈爾浜特別市市長に任命される[4]。翌1938年(康徳5年)2月10日、浜江省省長となり[5]、同年7月、修好経済使節団団長として「防共諸邦」を歴訪した[6]

1940年(康徳7年)5月16日、韋煥章は外務局長官に任ぜられる[7]1942年(康徳9年)4月20日、外務局が外交部に戻り、韋はそのまま大臣に留任したものの[8]、わずか5か月後の9月28日に大規模な大臣の入れ替えで辞任、参議府参議に転じた[9]1944年(康徳11年)1月17日に恩賞局が新設されると韋が総裁を兼任することになる[10]1945年(康徳12年)3月、奉天省省長に任命された[11]

満州国が滅亡した直後、韋煥章は張景恵に、蔣介石と連合して自立すべき旨を進言した[12]。しかし、まもなく2人ともソ連軍に逮捕され、シベリアで収監された。1950年、他の満州国要人たちと共に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監される。没年は不明だが、そのまま収監中に病没した[3]

[編集]

  1. ^ a b c 徐主編(2007)、1071頁。
  2. ^ a b c 尾崎監修(1940)、3頁
  3. ^ a b 王ほか主編(1996)、224頁。
  4. ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日。
  5. ^ 「満州国人事異動」『東京朝日新聞』昭和13年(1938年)2月11日夕刊。
  6. ^ 尾崎監修(1940)、3頁。「防共諸邦」とはドイツやイタリアのことと思われる。
  7. ^ 「東人西人 満州国外交の支柱 韋外務局長官」『朝日新聞』昭和15年(1940年)9月14日。
  8. ^ 「満州国に外交部」『朝日新聞』昭和17年(1942年)4月20日。
  9. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面。
  10. ^ 「満州国恩賞局総裁」『朝日新聞』昭和19年(1944年)1月18日夕刊。
  11. ^ 劉ほか編(1995)、1189頁。
  12. ^ 哈爾濱地情網。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7-80507-413-5 
  • 「韋煥章」哈爾濱地情網(ハルビン市人民政府地方志弁公室ホームページ)(※現在リンク切れ)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  満州国
先代
施履本
浜江省長
1938年2月 - 1940年7月
次代
于鏡濤
先代
蔡運升
外務局長官
1940年5月 - 1942年4月
次代
(外交大臣に改組)
先代
(外務局長官から改組)
外交大臣
1942年4月 - 9月
次代
李紹庚
先代
于鏡濤
奉天省長
1945年3月 - 8月
次代
(廃止)