青木太一郎

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青木 太一郎
あおき たいちろう
生年月日 (1938-07-02) 1938年7月2日(85歳)[1]
出生地 日本の旗 日本 新潟県西蒲原郡黒埼村
(現・新潟市西区
出身校 東京農業大学[1][2]
前職 黒埼町長、新潟県議会議員
所属政党自由民主党[3]無所属[3]→無所属の会(インデペンデントクラブ)[4][3]→)無所属[5][6]
称号 旭日中綬章

選挙区 (西蒲原選挙区→新潟市選挙区[7][8][3]→)西区選挙区[9]
当選回数 7回
在任期間 1995年4月12日 - 2023年4月29日
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青木 太一郎(あおき たいちろう、1938年昭和13年〉7月2日 - )は、新潟県新潟市西区出身の政治家新潟県立新潟南高等学校卒業[1]東京農業大学修了[1][2]新潟県議会議員(7期)、黒埼町長(1期)[1]、黒埼町議会議員を歴任した。勲等は旭日中綬章

概要[編集]

新潟県立新潟南高等学校を卒業後、家業の農業に従事する傍ら、村の青年団に入り、後に団長を務める[10]:7-20,65-681958年(昭和33年)に東京農業大学農学部通信制修了[1][2]1971年(昭和46年)から黒埼町議会議員を務め、3期目途中で辞任し、1981年(昭和56年)に行われた黒埼町長選に出馬。当時の浅妻茂一郎町長に挑んだが、落選[11]。4年後の町長選では同じ顔合わせになり、7443票を集めて当選する[1]

1985年(昭和60年)2月[1]から1989年(平成元年)2月[12]まで、黒埼町長を務める。

1987年(昭和62年)、黒埼町の町議会選挙で当選したばかりの町議26人のうちの過半数の14人が県議選にからむ公職選挙法違反(被買収)の疑いで逮捕され、町議会が開会できない状況になった。捕まった14人は、改選前までは大型店進出をめぐっての青木町長のリベート疑惑を、百条委員会を設けて追求していた立場だった[13][14]。それまでは黒埼町長が自民党武田武夫県議会議員(かつて黒埼村村長を三期務めた[15])の後援会長を務めるのが慣例だったが、これを青木町長が拒否したことで、不利な状況を挽回しようとした武田派の前町議の一人が14人の町議に現金をばらまいたとされている[14]

1989年(平成元年)の町長選に再戦を目指して立候補。再び浅妻茂一郎との一騎打ちになったが敗れ、再戦はならなかった[16]

1989年(平成元年)の参議院議員比例代表選挙では、スポーツ平和党の候補として、名簿番号順ではアントニオ猪木、青次賢太朗に続く第3位として立候補した(落選)[17]

東京佐川急便事件では、黒埼町長時代に、金子清新潟県知事(当時副知事)を佐川急便佐川清会長と東京佐川急便の渡辺広康社長に引き合わせるなど、金子氏と佐川側とのパイプ役を果たしていたことから、東京地検特捜部より家宅捜索および事情聴取を受けている[18][12]。新潟県が観光PR拠点設立のために黒埼町に設立した第三セクターの「新潟ふるさと村」について、開業後数年間について大幅な赤字が予想されたため、資金援助を佐川グループに依頼するために、青木氏が橋渡しをしたとされる[19]。青木氏によれば、1988年(昭和63年)1月に君健男新潟県知事から頼まれて、京都の佐川清会長宅を訪れ依頼し、会長から「地元のためになるなら協力する」と返事をもらい、3月には、金子清新潟県副知事と再び佐川会長宅に挨拶に行っている[19]

1995年(平成7年)から県議会議員へ転身し、現在も、新潟市西区選挙区選出の県議会議員を務めており、黒埼地区を地盤としている。2001年(平成13年)には、松川キヌヨ佐藤浩雄と共に「無所属の会」(インデペンデントクラブ)という会派を結成している[4]。2003年(平成15年)の県議選では、地盤だった黒埼町が新潟市に編入合併され、西蒲原選挙区から新潟市選挙区に変わったことにより、選挙区を替えている[3]。その際には、「西蒲からの出馬の要請も強くあったが、親の介護の問題もあり、黒埼を離れられない。次は新潟市から出たい。」と後援会に説明している[7]。さらに、2007年(平成19年)の県議選では、新潟市の政令市移行に伴って、新潟市全体で1選挙区だったものが5分割され、西区選挙区から立候補となった。その際には「生まれ育った古里をこよなく愛す」と声を張り上げてアピールをした[9]。また、この選挙の後に、「無所属の会」を離脱している[5][注釈 1]。2019年(平成31年)の統一地方選では、支持者の高齢化が懸念されていたが議席を守った[6]

2019年(令和元年)には、県議在職25年の県政功労者として新潟県知事表彰を受けている[21]

2023年(令和5年)の県議選には、不出馬。県議を引退した。翌2024年、旭日中綬章受章[22]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ その後、「無所属の会」は県議会で会派として認められなくなり[20]、所属していた議員は無所属となっている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 町を二分した選挙戦終わる」(PDF)『広報くろさき』第257号、黒埼町、1985年2月1日、2頁。 
  2. ^ a b c 東京農業大学校友 国会議員、道・県議会議員、市町村長 (敬称略、令和3年4月21日現在)” (PDF). 東京農業大学校友会. 2021年8月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e 「合併で選挙区替える唯一の県議(転機の自治 03統一選)/新潟」『朝日新聞』、2003年2月15日、朝刊 新潟1版、27面。
  4. ^ a b 「松川キヌヨ議員ら「無所属の会」結成 県議会/新潟」『朝日新聞』、2001年3月31日、朝刊 新潟1版、31面。「県議会無所属の松川キヌヨ議員ら三人が三十日、新会派「無所属の会」を結成し、高橋正議長に届け出た。メンバーは代表の松川県議のほか、青木太一郎、佐藤浩雄両県議。」
  5. ^ a b 「「無所属の会」問題 県会会派と認めず 自民が主張、議長裁定」『新潟日報』、2007年4月25日、4総-10版、4面。「無所属の会は、改選前に所属していた青木太一郎氏が離脱したため、松川キヌヨ氏、佐藤浩雄氏の2人。」
  6. ^ a b 「特集/[2019統一地方選]県議選戦いの跡」『新潟日報』、2019年4月9日、朝刊 特集2-10版、5面。
  7. ^ a b 「来春県議選 西蒲から新潟市区へ 青木太一郎氏が表明」『新潟日報』、2002年4月27日、朝刊 自治-12版、4面。
  8. ^ 「[2002年新・県政地図 動き始めた県議たち]2 県都決戦(上)」『新潟日報』、2002年7月25日、朝刊 自治-10版、4面。
  9. ^ a b 「[県議選・激戦区ルポ](中)西区 「我こそ地元」強調(連載)=新潟」『読売新聞』、2007年4月4日、東京朝刊 新潟北版、31面。
  10. ^ 新潟日報社 編『若い農民』未來社、1961年4月30日。 
  11. ^ 厳しい“目”住民の審判下る」(PDF)『広報くろさき』第177号、黒埼町、1981年2月10日、1頁。 
  12. ^ a b 「青木前黒崎町長、佐川献金で強制捜査-戸惑う地元、「捜査の手どこまで」。」『日本経済新聞』、1992年9月19日、朝刊、31面。
  13. ^ 「開かずの町議会 新潟の地方選、26人中14人逮捕(写87)」『朝日新聞』、1987年5月13日、夕刊 1総版、1面。
  14. ^ a b 「選挙民の意識改革こそ 新潟県の黒埼町に観る町政刷新へ望まれるもの(解説)」『読売新聞』、1987年5月20日、東京朝刊 解説版、9面。
  15. ^ 謹んで追悼の意を表します 武田武夫氏死去」(PDF)『広報くろさき』第434号、黒埼町、1999年11月1日、6-7頁。 
  16. ^ 浅妻氏が当選 現職青木氏に二千百余票の差 町長選投票率87.6% 補選は内藤氏」(PDF)『広報くろさき』第305号、黒埼町、1989年2月1日、1頁。 
  17. ^ 「参院比例代表選の立候補者一覧」『読売新聞』、1989年7月6日、東京朝刊 朝特A版、15面。
  18. ^ 「佐川献金疑惑「新潟ルート」強制捜査 前黒埼町長宅を捜索 2億円の行方知る?」『読売新聞』、1992年9月19日、東京朝刊 社会版、27面。
  19. ^ a b 「佐川急便グループ、新潟県出資会社に10億円 無利息・無担保で融資」『朝日新聞』、1992年1月31日、朝刊 1社版、31面。
  20. ^ 「「無所属の会」会派と認めず 数の力で自民攻勢 委員長人事にも影響」『新潟日報』、2007年4月26日、4総-10版、4面。「自民は各党会派代表者会議で、同じ要綱にある「基本的政策の一致する議員で結成」との条項に無所属の会が反すると主張。防衛や教育に関する意見書などで賛否が割れた2人を会派とみなさないよう求め、議長裁定で決まった。公明党も含め出席議員の約3分の2が賛同した、事実上の多数決だった。」
  21. ^ 「19年度知事表彰 42人、6団体に」『新潟日報』、2019年11月2日、朝刊 4総-10版、4面。
  22. ^ 『官報』号外第106号、令和6年4月30日

外部リンク[編集]