長井利隆
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文安2年(1445年) |
死没 | 永正12年(1515年)[1] |
別名 | 藤原利隆、斎藤利隆 |
戒名 | 清康宗所 |
墓所 | 汾陽寺 |
主君 | 土岐成頼→土岐政房→土岐頼芸 |
氏族 | 美濃斎藤氏、長井氏 |
父母 | 長井利安 |
兄弟 | 日護房 |
子 | 長井長弘、氏家行隆室、日根野九郎左衛門尉室 |
長井 利隆(ながいとしたか) / 斎藤 利隆(さいとう としたか、生没年不明)は、戦国時代の武将。父は斎藤利安[1]。法名は清康宗所[2]。娘に氏家直元の母(氏家行隆室)。子は長井長弘[1]。
経歴[編集]
初め竹ヶ鼻城主(文明10年(1478年)頃 - 明応5年(1496年))だったが、万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』によると、守護代・斎藤利親が戦死したことにより、その跡を継いだ利親の子・利良が幼少のため、長井藤左衛門尉長弘とともに補佐した。『美濃明細記』によると、土岐政房・土岐政頼・土岐頼芸の執権であったという。明応6年(1497年)、利良後見のため、竹ヶ鼻城から加納城に移ったといわれる。永正13年(1516年)2月、京都妙覚寺の日善上人の法弟であった弟ともいわれる日護房(南陽房)を美濃に招き、美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職とした。土岐政房の後継を巡る家督争いでは土岐頼芸方に付いた。その後、頼芸が川手城から大桑城に拠点を移したことにともない、川手城に城代として置かれた[2]。永正12年(1515年)に死去。享年71[1]または天正2年(1530年)に死去[3]。墓所は汾陽寺[2]。
書状[編集]
瑞林寺文書によれば「藤原利隆」の名で永正8年(1511年)3月、美濃加茂市にある瑞林寺の保護のために禁制[4][5]。『汾陽寺文書』によれば「斎藤利隆」の名で永正2年(1505年)7月19日、『八幡神社文書』によれば「長井利隆」の名で永正5年(1508年)6月、関市の武芸八幡宮に禁制[6][5]。
斎藤道三の父[編集]
- 『江濃記』では、斎藤家の家臣には長井藤左衛門(長弘)と長井豊後守がいる。豊後守は山城国西之岡の浪人で長井藤左衛門に仕官し、数々の合戦で戦功を上げて斎藤氏に仕える。斎藤家が断絶すると藤左衛門とともに領地を分けた。藤左衛門と豊後守は不和になり、豊後守が死去するとその子山城守利政が家督を継ぎ、後に斎藤姓を名乗ったとある。この長井豊後守が利隆であるとすると、「六角承禎書写」にある斎藤義龍の祖父とされる長井新左衛門尉(道三の父)と同一人物の可能性も考えられる。
- 『美濃国雑事記』の「長井系図」でも長井道利は利隆の子で、更に道利は斎藤道三の弟とされる。
- 『美濃明細記』では、長井利隆は豊後守であり、長井道利の父で、斎藤道三の義父とされる。
- なお、『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長井道利は、長弘の子とされる。
登場するテレビドラマ[編集]
参考文献[編集]
- 黒川真道編『美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記』 出版:国史研究会 1915年
- 『美濃明細記』
- 『岐阜市史』
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 美濃加茂市指定文化財に指定されている。