銭座町停留場
銭座町停留場 | |
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南より望む | |
ぜんざまち Zenza-machi | |
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所在地 | 長崎県長崎市目覚町1番3号先 |
駅番号 | 24 |
所属事業者 | 長崎電気軌道 |
所属路線 | 本線(■1号系統・□2号系統・■3号系統) |
キロ程 |
3.7km(住吉起点) 赤迫から3.9 km |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面2線 |
乗降人員 -統計年度- |
900人/日 -2015年- |
開業年月日 | 1915年(大正4年)11月16日 |
銭座町停留場(ぜんざまちていりゅうじょう、銭座町電停)は、長崎県長崎市目覚町にある長崎電気軌道本線の路面電車停留場である。駅番号は24。1号系統、2号系統、3号系統が停車する。
歴史[編集]
当停留場は1915年(大正4年)井樋の口停留場(いびのくちていりゅうじょう)として開設された[1]。長崎電気軌道の路線開業と同日のことである[2]。当時の停留場は現在の宝町公園の西側付近(北緯32度45分38.6秒 東経129度51分55.5秒 / 北緯32.760722度 東経129.865417度)にあり、路線は当停留場から長崎駅前に向かって公園を迂回し、長崎本線と並走する経路をとっていた[3][4]。現在長崎駅前方面に向かって、長崎本線に沿って直線で伸びる脇道がその路線跡である[3][4]。
その後停留場は1956年(昭和31年)に宝町公園前に移設、1966年(昭和41年)には銭座町へ改称した[4]。かつては停留場に横断歩道橋が接続していたが1995年(平成7年)に撤去、このとき停留場は公園前から茂里町寄りに100メートル移設された[5]。
年表[編集]
- 1915年(大正4年)11月16日:井樋の口停留場として現在の宝町公園西側に設置[1][3]。
- 1956年(昭和31年)1月:宝町公園前に移設[4]。
- 1966年(昭和41年)9月20日:銭座町停留場へ改称[1]。
- 1971年(昭和46年):歩道橋が架設され、停留場へも繋がるようになる。
- 1995年(平成7年)2月9日:歩道橋を撤去、茂里町寄りに100メートル移設[1][5]。
- 2000年(平成12年)4月11日:停留場を改築[6]。
構造[編集]
停留場は併用軌道区間にあり、道路上にホームが設けられる[7][8]。ホームは2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み向かい合って配置される(相対式ホーム)[7][8]。線路の東側にあるのが長崎駅前方面行きのホーム、西側にあるのが赤迫方面行きのホーム[8]。横断歩道橋が1995年に撤去されてから、停留場には横断歩道が接続する[5][9]。
利用状況[編集]
長崎電軌の調査によると1日の乗降客数は以下の通り。おもに周辺地域の住民が使用する[9]。
周辺[編集]
複合商業施設のみらい長崎ココウォークや、長崎ブリックホールが近い[11]。付近を並走する長崎本線沿いには三菱重工業長崎造船所幸町工場がある[9][11]。
停留場名の「銭座町」は、当地に銭貨の鋳造所(銭座)が置かれていたことに由来する[11]。ただし停留場の所在地は目覚町である[10]。
- ダイハツ長崎本社
- 宝町公園
隣の停留場[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 浅井建爾『難読・誤読駅名の事典』東京堂出版、2013年。ISBN 978-4-490-10835-4。
- 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 12 九州沖縄、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
- 川島令三『四国・九州ライン 全線・全駅・全配線』 第5巻 長崎・佐賀エリア、講談社〈【図説】 日本の鉄道〉、2013年。ISBN 978-4-06-295161-6。
- 田栗優一『長崎「電車」が走る街今昔』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2005年。ISBN 4-533-05987-2。
- 田栗優一、宮川浩一『長崎のチンチン電車』葦書房、2000年。ISBN 4-7512-0764-4。
- 長崎電気軌道株式会社『長崎電気軌道100年史』2016年。