都倉栄二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

都倉 栄二(とくら えいじ、1915年大正4年)1月27日[1] - 2000年平成12年)7月4日)は、日本の外交官イスラエルハンガリースウェーデンアイスランド大使を務めた。イスラエル大使時代にテルアビブ空港乱射事件に遭遇。息子に作曲家都倉俊一。孫に女優都倉伶奈Jリーガー都倉賢

略歴[編集]

神奈川県出身[1][2]。旧制東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、ロシア文学に惹かれて東京外国語学校(現東京外国語大学露語科に進む。

1934年外務省入省。外務書記生となる[1][2]

ハイデルベルク大学留学、在ドイツ日本大使館勤務を経て、1936年、在ウラジオストク日本領事館に勤務。1941年10月、高等文官試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。第二次大戦中はドイツフィンランドでソ連情勢の分析に携わる。1945年1月、在満洲国日本大使館に赴任。特命全権大使の陸軍大将山田乙三の秘書官となる。満洲国瓦解に伴いソ連軍に連行され、シベリア抑留を経験。1947年に引き揚げて外務省に復帰。ソ連通として日ソ国交正常化交渉に参加。

1955年、在ドイツ大使館二等書記官、同年同一等書記官[2]1959年、欧亜局東欧課長[2]1964年、官房国際資料部外務参事官、同年在ベルリン総領事[2]

1967年、内閣調査室次長。1970年特命全権大使としてイスラエルに赴任。1972年ロッド空港事件では涙を流しながらイスラエル国民への謝罪文を読み上げ、日本とイスラエルの断交を回避した。この時期から胃潰瘍を患う。1973年、駐ハンガリー大使に転任。ハンガリーでは長男俊一の結婚式を盛大に行う。

スウェーデンアイスランド特命全権大使を経て、1978年、外務省を退官。1979年、妻・久子に先立たれて一人暮らしとなる。1985年、勲二等旭日重光章を受章[3]。財団法人世界の動き社理事長、社団法人国際交流サービス協会会長。1997年、外務省の外郭団体の仕事で出かけたアイスランドで転んで鎖骨を骨折。晩年は入退院を繰り返し、2000年で死去した。ロッド空港事件後洗礼を受け、東京府中のカトリック墓地に眠る。

家族・親族[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『産経日本紳士年鑑 第3版』と183頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『日本官界名鑑 第21版』と735頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月26日閲覧。
  3. ^ 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.417
  4. ^ 平和的撤退 都倉亮ブログ、2011年11月26日
  5. ^ a b 都倉俊一系図 近現代・系図ワールド
  6. ^ a b c 『人事興信録』40版下、都倉栄二の項
  7. ^ 現実を受け入れ、積極姿勢に。58歳からの新たな出発 | がんサポート 株式会社QLife”. 2021年7月17日閲覧。
  8. ^ プロフィール 都倉亮ブログ
  9. ^ 国歌斉唱 都倉亮ブログ、2012年4月6日
  10. ^ 都倉亮 あいさつ 都倉亮を支援する会
  11. ^ 北欧家具の「都倉インターナショナル」が破産決定受け倒産 不景気.com 2010年5月20日
  12. ^ 中咽頭がん、会社清算……。それでも、「今」を生きる 現実を受け入れ、積極姿勢に。58歳からの新たな出発がんサポート、2013年12月
  13. ^ レイニー先生さんのプロフィールページ”. profile.ameba.jp. 2022年4月20日閲覧。
  14. ^ 国際交流から得た地域づくり 開発こうほう、2004年4月

参考文献[編集]

  • 『産経日本紳士年鑑 第3版』産経新聞年鑑局、1962年。
  • 『日本官界名鑑 第21版』日本官界情報社、1969年。
  • 都倉栄二 『外交官の決断』(講談社1995年