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近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月3日[1])は、日本のアマチュア野球選手。愛知県出身。ポジションは捕手。
来歴・人物[編集]
愛知商業(現・愛知県立愛知商業高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(内訳は春1回〔1935年〕。夏1回〔1935年〕。)出場した大会でどちらもベスト4まで進出し[2]、自身は1935年春の大会で優秀選手賞を受賞した[1]
。
愛知商業卒業後、1936年に慶應義塾大学に進学。六大学野球でも活躍し、1939年秋季リーグで高木正雄とバッテリーを組み、慶大の13季ぶりの優勝の立役者となった[1][3]。
しかし慶大を卒業後応召され、終戦12日前の1945年8月3日にフィリピンルソン島イフガオ州キャンガンにて、胸部貫通銃創により戦死した[1]。享年29。
東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[4]。
- ^ a b c d 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ) ※近藤鉄己の項がある。
- ^ ★甲子園の人気校★(愛知県)愛知県商業学校/愛知商業高校/瑞陵高校/愛知商業高校(高校野球記録帳と高校野球画像(写真館)のページ)
- ^ 戦歴(慶應義塾体育会野球部のHP)
- ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)