藤原義雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 義雅(ふじわら の よしまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族藤原南家春宮少進・藤原貞雅の子。官位従五位下周防守

経歴[編集]

円融朝にて右近衛将監冷泉院判官代を務める。天元4年(981年)12月末に周防守に任ぜられるが、そのため天元5年(982年)2月になって、この年をもって初年度として取り扱うよう申請を行っている[1]。のち、時期は不詳ながら、因幡守も務めている。

約20年後となる一条朝でも周防守に再任される。任期満了後の長保4年(1002年)何らかの問題によって義雅に対する不与解由状が提出されるが、その不与解由状に添えられた文書における周防介・日置有光の自署の誤記が参議藤原行成によって指摘されている[2][3]

官歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『小右記』天元5年2月25日条
  2. ^ 山口県 2001, p. 341.
  3. ^ a b 『権記』長保4年2月19日条
  4. ^ a b 『尊卑分脈』

参考文献[編集]

  • 宮崎康充編『国司補任 第三 第四』続群書類従完成会、1990年
  • 『山口県史: 史料編. 古代 - 第 1 巻』山口県、2001年