胡遵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡遵

衛将軍
出生 生年不詳
雍州安定郡臨涇県
死去 甘露元年7月5日256年8月12日
拼音 Hú Zūn
主君 曹叡曹芳曹髦
テンプレートを表示

胡 遵(こ じゅん)は、中国三国時代の武将。文武の才を併せ持ち、要地を抑えるの武官を歴任した。本貫雍州安定郡臨涇県[1]。子は胡広・胡奮胡烈・胡岐など[2]

経歴[編集]

雍州刺史などを務めた張既によって見い出された。張既が礼をもって招聘した人物は楊阜龐淯など、皆名声と地位を得たと言われる[3]

青龍元年(233年)9月、司馬懿の命を受け、謀反を起こした匈奴の大人の胡薄居姿職を撃ち破り、降伏させた[4]

青龍2年(234年)、司馬懿に従い、蜀漢諸葛亮の第五次北伐を迎撃した(五丈原の戦い[5]

景初2年(238年)、また司馬懿に従い、遼東郡公孫淵征伐に従軍。卑衍の軍を破る戦功を挙げた(遼隧の戦い[6]

嘉平4年(252年)正月、房玄齢の『晋書』世宗景帝紀は司馬師が魏の大将軍となり、善政が敷かれ人材が揃ったと称える。その中で四方を都督した人物として、諸葛誕毌丘倹王昶陳泰と共に胡遵の名が挙げられている。

同年4月、敵国皇帝孫権が崩御。征東将軍の官にあった胡遵は、王昶・毌丘倹とそれぞれに上奏文を奉り、この機を狙って呉を討伐することを請願した[7]。11月、諸葛誕らと共に東興へ侵攻し攻城戦を行ったが、険しい地勢を前に攻略は難航。軍が油断していたところに丁奉留賛らから奇襲を受け、大敗を喫した(東興の戦い[8]。魏では諸将の責を問う声も挙がったが、司馬師は自らに責があるとして、咎めなかった[9]

正元2年(255年)2月、毌丘倹の反乱に対し、敵軍の退路を断つ役目を担った[10]。反乱鎮圧後の4月には衛将軍に昇進した[11]

甘露元年7月5日256年8月12日)、衛将軍在職のまま没した[11]。なお、封爵や官位の追贈については史書に見えないが、『晋書』胡奮伝では胡遵について車騎将軍・陰密侯と記している。

息子は7人いた[1]西晋の鎮軍大将軍や尚書僕射となった胡奮のほか、胡広・胡烈・胡岐が高官に昇り、史書に名を残した[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『晋書』胡奮伝
  2. ^ a b 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 鍾会伝注『晋諸公賛』
  3. ^ 『三国志』魏書 張既伝
  4. ^ 『三国志』魏書 明帝紀
  5. ^ 『晋書』高祖宣帝紀
  6. ^ 『三国志』魏書 公孫度伝付 公孫淵伝
  7. ^ 『三国志』魏書 傅嘏伝注『戦略』
  8. ^ 『三国志』呉書 諸葛恪
  9. ^ 『三国志』魏書 斉王紀注『漢晋春秋』
  10. ^ 『晋書』世宗景帝紀
  11. ^ a b 『三国志』魏書 高貴郷公紀