石田祐介

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石田 祐介
JPアセット証券野球部 投手コーチ #77
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県新座市
生年月日 (1982-06-29) 1982年6月29日(41歳)
身長
体重
180 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

石田 祐介(いしだ ゆうすけ、1982年6月29日 - )は、埼玉県新座市[1]出身の元社会人野球選手(投手、右投右打)。現在はJPアセット証券野球部の投手コーチを務めている。

来歴[編集]

新座市立東野小学校3年の時野球を始め[1]、中学時は硬式野球シニアリーグ)の新座シニアに所属し、ポジションは投手と遊撃手であった[1]

淑徳高等学校では、2年時に遊撃手でレギュラーを獲得し、3年時から投手。エースとして出場した3年夏の東東京大会は4回戦で敗退し、甲子園出場経験はない[1]

東京国際大学では1年秋の東京新大学野球リーグでは新人王と最優秀投手、最優秀防御率を獲得した[1]その後怪我などもありながら、4年春は5勝をあげベストナインを獲得、4年秋は5勝をあげ、大学初のリーグ2位に貢献した。リーグ通算19勝。[要出典]

大学卒業後の2005年日産自動車に入社。当時のエース宮田仁、後にプロ入りする三橋直樹高崎健太郎青木高広などの好投手が居た為、4年目までは公式戦の登板はほとんどなく、東京ドームのマウンドに立つ事は出来なかった。

入社5年目の2009年2月に日産自動車の休部が発表され、チーム最後の1年となる。多くの投手がプロ入りし、徐々に重要な試合でのマウンドを任されるようになり、エースに成長。この年の都市対抗野球大会神奈川予選では、初戦のENEOS戦に先発し7回2失点に抑え、翌日の三菱重工横浜との第一代表決定戦では、先発し延長10回まで無失点に抑える活躍を見せた。この試合は延長16回、0-0引き分けに終わり再試合となったが、再試合と、第二代表決定戦は登板なくチームは敗れた。第三代表決定戦の東芝戦に先発。9回2失点で完投勝利して、チーム最後の都市対抗出場を決めた。[要出典]

第80回都市対抗野球大会では準決勝までの4試合全てに先発したが、準決勝でトヨタ自動車に0-1で敗れ、ベスト4に終わった。11月の第36回社会人野球日本選手権大会にも出場したが、準決勝でJR九州に敗れベスト4に終わり、この大会をもって日産自動車硬式野球部は休部となった。

2010年1月に住友金属鹿島に移籍。チームのエースとなり第81回都市対抗野球大会[1]第82回都市対抗野球大会と2年連続ベスト4に導いた。自身は日産時代から3年連続ベスト4となったが、悲願の優勝には手が届かなかった。またこの年は、中国広州で開かれたアジア競技大会の日本代表に選出され[2]モンゴル戦に先発して12人中11奪三振を記録する[3]などの活躍で、銅メダル獲得に貢献した[4]

2014年をもってチームを退部[5]。その後は社会人クラブチームの新波に一時在籍した[6]

2016年1月から、母校である東京国際大学硬式野球部の投手コーチに就任した[7]

2023年からは社会人野球チームのJPアセット証券野球部で投手コーチを務めている[8]

表彰・タイトル[編集]

日本代表キャリア[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 石田零封!“日産魂”で住金鹿島55年ぶり白星”. スポーツニッポン (2010年8月29日). 2022年2月11日閲覧。
  2. ^ 朗報!TIU同窓生から全日本選手誕生!!”. 一般社団法人「東京国際大学霞会」 (2010年10月29日). 2022年2月11日閲覧。
  3. ^ 広州アジア大会2010”. 朝日新聞社 (2010年11月16日). 2010年11月16日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 日本 銅メダル「韓国とやりたかったが…」”. スポーツニッポン (2010年11月19日). 2021年4月8日閲覧。
  5. ^ <お知らせ>2014年引退選手・練習納めについて”. 日本製鉄鹿島硬式野球部後援会 (2014年12月25日). 2022年2月11日閲覧。
  6. ^ 石田 祐介”. 社会人硬式野球チーム 新波 男子部 公式ホームページ. 2022年2月11日閲覧。
  7. ^ 【東京国際大学】硬式野球部部員・スタッフ紹介”. 東京国際大学. 2022年2月11日閲覧。
  8. ^ 監督・コーチ交代のお知らせ | JPアセット証券 野球部”. 2023年1月7日閲覧。