矯龍丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

矯龍丸[1]開拓使付属船[2]

「矯龍丸」は、明治4年に開拓使次官黒田清隆ホーレス・ケプロンに建造を依頼した2隻の船の内の一隻(もう一隻は「玄武丸」)である[3]。発注時の船名は「樺太丸」であった[2]。2隻の建造はケプロンから依頼を受けたニューヨーク市教育長のベーカーによりニューヨーク、ブルックリンのペイロン社に発注され[4]、明治5年に完成したが[5]、代金支払いが遅れたため日本への回航も遅れた[6]。「矯龍丸」が日本に着いたのは1873年6月と思われる[7]

『函館海運史』205ページによれは総トン数332トン、長さ120尺、幅24尺、100馬力、同247ページではトン数374.0、馬力100。『日本郵船船舶100年史』によれは木製スクリュー船で374GT、100/400HP、8ノット、垂線間長41・2m、幅6.89m、深さ5.07mである[8]。船長127尺[9]という数字もある。日本への回航後、大砲1門、予砲1門が備えられた[10]。後、クルップ砲1門が追加されている[11]

1873年12月、「矯龍丸」の定繋港が夏季択捉、冬季品海(品川)と定められた[7]。 1875年2月3日に「稲川丸」に代わって函館・青森間の航路に就航したが、3月29日に「矯龍丸」に代わって「稲川丸」が戻った[12]。5月、「矯龍丸」は前年12月に単冠湾で難破した帆船「スノードロップ」の乗組員救助に派遣された[13]。8月9日には軍艦「第一丁卯」が択捉島で座礁し、「矯龍丸」が派遣されて乗員を救助した[14]。1876年1月、「玄武丸」が特命全権弁理大臣に任命された黒田を乗せて朝鮮へ向かい、「矯龍丸」は他4隻と共にそれに随伴した[15]

「矯龍丸」の船長は最初はアメリカ人エヴァーソンであったが、1875年にはドイツ人ブルーンに代わった[5]。ブルーンは元は「玄武丸」の一等航海士であった人物である[16]。1877年には蛯子末次郎が船長となった[5]

開拓使廃止後は北海道運輸所属となり、その後合併に伴い共同運輸、次いで日本郵船所属となる[17][18]。1897年、函館の石垣隈太郎に売却[8]。1912年12月14日、かもめ島灯台沖で座礁し、沈没した[8]

脚注[編集]

  1. ^ 「明治維新時の横浜-江戸(東京)通船の消長」119ページには「「矯龍」を「ケプロン」と読む」とある。『日本郵船船舶100年史』60ページでは「KYORYU MARU」となっている。
  2. ^ a b 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」68ページ
  3. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」68-69ページ
  4. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」69ページ
  5. ^ a b c 「函館市史」通説編2 4編7章1節2-2(2023年5月12日閲覧)
  6. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」69-70ページ
  7. ^ a b 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」70ページ
  8. ^ a b c 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』60ページ
  9. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」79ページ
  10. ^ 『函館海運史』205ページ
  11. ^ 『函館海運史』231ページ
  12. ^ 『函館海運史』207ページ
  13. ^ 『函館海運史』209ページ
  14. ^ 『函館海運史』217ページ
  15. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」74-75ページ
  16. ^ 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」76ページ
  17. ^ 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』15、60ページ。宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる」69ページ
  18. ^ 『日本郵船株式會社五十年史』42ページには、共同運輸は創立時に、北海道運輸が政府より借用していた「矯龍丸」他を改めて貸し下げられた、とある。

参考文献[編集]

  • 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
  • 齊藤虎之介(編)『函館海運史』函館市、1958年
  • 日本郵船株式會社『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
  • 松永秀夫「明治維新時の横浜-江戸(東京)通船の消長 「稲川丸」「シティー・オヴ・ヱド」「弘明丸」の三船を中心に」海事史研究 第五〇号、82-119ページ
  • 宮城辰夫「玄武丸、矯龍丸の航跡をたどる 日露・日朝国際条約にかかわった開拓使付属船」海事史研究 第五二号、68-81ページ