皇居遷都提唱運動

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皇居遷都 提唱運動(こうきょせんと ていしょううんどう)は、戦後南朝正統の皇胤であると主張した愛知県豊川市三浦芳聖が、三浦独自の哲学である地文学(串呂・串呂哲学・神風串呂)の解釈に基づき、東京都千代田区皇居の位置が国家の象徴たる天皇の住居として相応しくないとして、皇居遷都を提唱し、1955年(昭和30年)1月から1959年(昭和34年)6月まで、文書により政府当局者や国会議員らに呼びかけた運動のこと。

概要[編集]

皇居遷都提唱運動は、1955年(昭和30年)1月より開始され、1959年(昭和34年)6月の皇居造営審議会の答申に基づき新宮殿の造営地が、千代田区の皇居内に決定されるまでの足掛け5年間に、三浦が私財を投じて、衆参両院議員全員に9回、皇居造営審議会長大野伴睦へ9回、政府及び宮内庁に各69回にわたって進言書を送り続けた運動である。

運動の発端[編集]

三浦が主張する「国の象徴たる天皇の皇居の位置が神風串呂地文の上より見て極めて不適格」とする皇居の串呂の解明は、1940年(昭和15年)7月に起きた三宅島雄山の爆発があったときに始まるという。

このとき三浦は、たまたま軽井沢の近衛家の別荘で近衛文麿から東洋平和の方策について意見を求められ面会中であったと主張している。軽井沢に配られた「三宅島雄山爆発の号外新聞」を見て「大戦の勃発を直感し」、近衛に「皇居遷都」を進言し、断固として否定されたという。

参考文献[編集]

  • 三浦芳聖『皇居遷都提唱理由書(第5版)』(三浦芳聖、1958年)
  • 三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(神風串呂講究所、1970年)
  • 三浦芳聖『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(神風串呂講究所、1955年〜1971年)
  • 玉川信明編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年)172頁
  • 豊嶋泰國「『私を即位させてほしい』とする妄想と衝撃」『歴代天皇全史〜万世一系を彩る君臨の血脈』(歴史群像シリーズ、学習研究社、2003年)178頁
  • 『天皇家歴史大事典』(別冊歴史読本新人物往来社、2000年)215頁
  • 保阪正康『天皇が19人いた』(角川文庫、2001年)14頁

関連項目[編集]