瑞応麒麟図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『明人画麒麟沈度頌軸』台湾国立故宮博物院[1]
瑞応麒麟図
繁体字 瑞應麒麟圖
簡体字 瑞应麒麟图
発音記号
標準中国語
漢語拼音ruìyìng qílín tú

瑞応麒麟図[2]』(ずいおうきりんず)は、中国明代永楽12年(1414年)に描かれた絵画[1]1405年に始まった鄭和の航海をきっかけに、インド東部のベンガル地方から贈られてきた、当時未知の生物キリン)を写生したもの。職貢図の一つ[3]

明人画麒麟沈度頌軸[1]』『榜葛剌進麒麟図[2]』などとも呼ばれる。オリジナルは台湾国立故宮博物院に収蔵されている。それとは別に、複数の模写が伝わっている。

概要[編集]

ベンガル地方(現在のバングラデシュおよびインド東部の西ベンガル州)にあたる国「榜葛剌国」(バングラこく、拼音: bǎnggélàguó)からやって来た朝貢使節の人間と、その贈り物である当時未知の生物(キリン)が描かれている[4]。同国の朝貢は、6年前の1408年から始まっていた[1]

題名にある「瑞応」は「瑞兆」「瑞祥」と同義。「麒麟」は瑞獣の一種で、太平の世に現れるという伝説の生物。つまり、外国から来た未知の生物が、太平の世に現れる「麒麟」と同定されている。そのような同定をするということは、当時の皇帝永楽帝の治世を絶賛することに等しい[5]

絵画は、当時の宮廷画家無名)によって描かれた[1]。その絵画の上部には、当時の宮廷書家翰林院官僚沈度中国語版[6] による文章が添えられている。文章の内容は、『瑞応麒麟頌』と題された頌詞であり[1]、序文として「永楽12年に榜葛剌国に麒麟が出た」という旨が記されている[7]

同じ出来事は『明史』成祖本紀などにも記されている[1][8]。同書ではさらに、ケニア沿岸のマリンディ(麻林)などからも「麒麟」が進貢されたとしている[9]。また、鄭和艦隊の報告書にあたる書物『瀛涯勝覧』では、アラビア半島南端のアデン(阿丹国)をはじめとして[10]、各地に「麒麟」がいたとされる[11]

その背景として、当時のインド洋では、アラブ人[8]東アフリカソマリ人によって盛んに海上交易が行われていた(ソマリアの海事史)。その中で、マムルーク朝からベンガル・スルターン朝にキリンが贈られ、そのキリンが1414年にベンガル・スルターン朝から中国に贈られたと推定される[12]

後世の中国の学者たちは、この生物が「麒麟」ではないことを理解していたが[13]、日本においては、江戸時代蘭学者桂川国瑞大槻玄沢森島中良らが「麒麟」と同定した後[14]明治時代博物学者田中芳男らが訳語制定のなかで「麒麟」を訳案として持ち出し、最終的に「麒麟」が採用された[15]。詳細は湯城 2008を参照。

模写[編集]

『麒麟図』フィラデルフィア美術館
『榜葛剌進麒麟図』北京中国国家博物館[2]

後世の模写として以下がある。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 四方来朝─職貢図特別展_展示作品解説”. 国立故宮博物院 (2020年1月1日~3月25日). 2020年6月20日閲覧。
  2. ^ a b c 張 2009, p. 42.
  3. ^ 国立故宮博物院 (2020年1月1日). “四方来朝─職貢図特別展”. 国立故宮博物院. 2023年6月20日閲覧。
  4. ^ ただし、明代より前に書かれた『続博物誌』や『諸蕃志』に、キリンを指すと思われる動物の記述が既にある。(ベルトルト・ラウファー著、福屋正修訳『キリン伝来考』博品社、1992年、48頁)
  5. ^ 湯城 2008, p. 71.
  6. ^ 筆に千秋の業あり-書道の発展_展示作品解説”. 国立故宮博物院 (2013年10月8日). 2020年6月20日閲覧。
  7. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:瑞應麒麟頌序
  8. ^ a b 張 2009, p. 39.
  9. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:明史/卷7
  10. ^ 湯城 2008, p. 72.
  11. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:瀛涯勝覽
  12. ^ 張 2009, p. 39(陳國棟の見解).
  13. ^ 湯城 2008, p. 73.
  14. ^ 湯城 2008, p. 72-76.
  15. ^ 湯城 2008, p. 78-82.

参考文献[編集]

関連項目[編集]