「メイショウサムソン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m →‎競走成績: 改行処理
タグ: 2017年版ソースエディター
(4人の利用者による、間の9版が非表示)
1行目: 1行目:
{{馬齢新}}
{{競走馬
{{競走馬
|画 = [[ファイル:Meisho_SamSon_20060528R1.jpg|250px]]
|画 = [[ファイル:Meisho_SamSon_20060528R1.jpg|300px]]
|説 = 2006年5月28日 東京競馬場
|説 = 2006年5月28日 東京競馬場
|名 = メイショウサムソン
|名 = メイショウサムソン
|英 = Meisho Samson
|英 = {{Lang|en|Meisho Samson}}<ref name="JBIS" />
|性 = [[牡馬|牡]]<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|漢 = {{lang|zh|名將森遜}}
|色 = [[鹿毛]]<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|性 = [[牡馬|牡]]
|種 = [[サラブレッド]]<ref name="JBIS" />
|色 = [[鹿毛]]
|生 = {{生年月日と馬齢|p=0|2003|3|7}}<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|種 = [[サラブレッド]]
|抹 = [[2009年]][[1月6日]]<ref name="抹消">{{Cite web |title=サムソン7日付で競走馬登録を抹消|url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20090106-447242.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>
|生 = {{生年月日と馬齢|p=0|2003|3|7}}
|父 = [[オペラハウス_(競走馬)|オペラハウス]]
|父 = [[オペラハウス_(競走馬)|オペラハウス]]<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|母 = マイヴィヴィアン
|母 = マイヴィヴィアン<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|母父 = [[ダンシングブレーヴ]]
|母父 = [[ダンシングブレーヴ]]<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|産 = [[林孝輝]]
|産 = 林孝輝<ref name="JAIRS" />
|牧 = 林孝輝<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|国 = {{JPN}}([[北海道]][[浦河町]])
|育 = 鹿屋共同育成センター([[鹿児島県]][[鹿屋市]])<ref name="育成" />
|主 = [[松本好雄]]
|国 = {{JPN}}([[北海道]][[浦河町]])<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|調 = [[瀬戸口勉]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<br />→[[高橋成忠]](栗東)
|主 = [[松本好雄]]<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|厩 = 加藤繁雄(瀬戸口厩舎)<br />→[[中田征男]](高橋厩舎)
|調 = [[瀬戸口勉]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<ref name="優駿-2011-6-81" /><br />→[[高橋成忠]](栗東)<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|績 = 27戦9勝<br />([[中央競馬]])26戦9勝<br />([[フランスの競馬|フランス]])1戦0勝
|厩 = 加藤繁雄(瀬戸口)<ref name="優駿-2011-6-76" /><br />→中田征男(高橋成)<ref name="netkeiba-引退" />
|金 = 10億6594万9000円
|助 = 辻本光雄(瀬戸口)<ref name="優駿-2006-9-28">『優駿』2006年9月号 28頁</ref><br />→丸山雅夫(高橋成)<ref name="2007-12-149">『優駿』2007年12月号 149頁</ref><br />{{0|-}}{{0}}高橋義忠(高橋成)<ref name="2007-12-149" />
|冠 = [[JRA賞最優秀3歳牡馬]](2006年)<br />[[JRA賞特別賞]](2007年)
|績 = 27戦9勝<ref name="優駿-2011-6-81" /><br />([[中央競馬]])26戦9勝<ref name="JBIS" /><br />([[フランスの競馬|仏国]])1戦0勝<ref name="JBIS" />
|金 = 10億6594万9000円<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|冠 = [[JRA賞最優秀3歳牡馬]](2006年)<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" /><br />[[JRA賞特別賞]](2007年)<ref name="JBIS" /><ref name="優駿-2011-6-81" />
|レ = [[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング|WTRR]]<br /><br />[[ワールド・サラブレッド・ランキング|WTR]]
|レ = [[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング|WTRR]]<br /><br />[[ワールド・サラブレッド・ランキング|WTR]]
|レ値 = 117L(2006年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2006Rankings/2006_WorldRankings.asp |title=The 2006 World Thouroughbred Racehorse Rankings |publisher=[[国際競馬統括機関連盟|IFHA]] |accessdate=2021-09-12}}</ref><br />122IL(2007年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2007Rankings/2007_WorldRankings.asp |title=The 2007 World Thouroughbred Racehorse Rankings |publisher=IFHA |accessdate=2021-09-12}}</ref><br />118L(2008年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2008Rankings/2008_WorldRankings.asp |title=The 2008 World Thouroughbred Rankings |publisher=IFHA |accessdate=2021-09-12}}</ref>
|レ値 = 117L(2006年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2006Rankings/2006_WorldRankings.asp |title=The 2006 World Thouroughbred Racehorse Rankings |publisher=[[国際競馬統括機関連盟|IFHA]] |accessdate=2021-09-12}}</ref><br />122IL(2007年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2007Rankings/2007_WorldRankings.asp |title=The 2007 World Thouroughbred Racehorse Rankings |publisher=IFHA |accessdate=2021-09-12}}</ref><br />118L(2008年)<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/2008Rankings/2008_WorldRankings.asp |title=The 2008 World Thouroughbred Rankings |publisher=IFHA |accessdate=2021-09-12}}</ref>
27行目: 31行目:
{{MedalGI|[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]|2007年}}
{{MedalGI|[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]|2007年}}
{{MedalGI|[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]|2007年}}
{{MedalGI|[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]|2007年}}
{{MedalGII|[[スプリングステークス|スプリングS]]|2006年}}
{{MedalGII|[[スプリングステークス]]|2006年}}
{{MedalGII|[[大阪杯|産経大阪杯]]|2007年}}
{{MedalGII|[[大阪杯]]|2007年}}
}}
}}
'''メイショウサムソン'''(''{{Lang-en-short|Meisho Samson}} [[中国語|香]]:{{Lang|zh|名將森遜}}''、[[2003年]][[3月7日]] - )は、日本の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。[[2006年]]の[[二冠馬|クラック二冠]]([[皐月賞]]、[[東京優駿]])、[[2007年]]の[[天皇賞]]、春秋連続優勝の{{GI}}競走4勝を含む、[[重賞]]6勝を記録。引退後は、種牡馬として[[デンコウアンジュ]]や[[フロンテアクイーン]]を出している
'''メイショウサムソン'''(欧字名:{{Lang|en|Meisho Samson}}、[[2003年]][[3月7日]] - )は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web |title=メイョウサムソン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760084/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-16}}</ref>


2006年の[[皐月賞]]、[[東京優駿]](日本ダービー)を優勝し、前年の[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]に続く史上21頭目の春の[[二冠馬|クラシック二冠]]を達成。[[小倉競馬場]]デビュー馬として史上初めて、東京優駿を優勝した。また2007年には、[[天皇賞]]春秋優勝。[[タマモクロス]]、[[スペシャルウィーク]]、[[テイエムオペラオー]]に次いで史上4頭目の同一年天皇賞春秋連覇を果たした。その他の勝ち鞍に、2006年の[[スプリングステークス]]({{GII}})、2007年の[[大阪杯]]({{GII}})がある。
== 競走馬時代 ==
=== デビュー前 ===
[[瀬戸口勉]]の勧めにより[[松本好雄]]が700万円で購入した。名前の「[[サムソン]]」は[[旧約聖書]]士師記に登場する怪力の持ち主として知られる士師(カリスマ的指導者)に由来する。直木賞作家の[[新橋遊吉]]が「こんな名前どうか」とオーナーの松本に書き送った中の一つにこの名前が含まれていた。


[[デンコウアンジュ]]や[[フロンテアクイーン]]、[[ルミナスウォリアー]]の父として知られる。
=== 2歳時(2005年) ===
2歳夏の[[小倉競馬場]]で鞍上[[石橋守]]でデビューするが、[[新馬|新馬戦]]はアタマ差2着に惜敗<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131488.html 【2歳新馬】(小倉5R)〜グロリアスウィーク緒戦勝ち]ラジオNIKKEI (2005.7.31). 2021年2月14日閲覧。</ref>。次の未勝利戦も3着に敗れた<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131747.html 【未勝利戦】(小倉2R)〜エイシンチャンドラがレコードV]ラジオNIKKEI (2005.8.20). 2021年2月14日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131748.html 【未勝利戦】(小倉2R)〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2005.8.20). 2021年2月14日閲覧。</ref>。9月4日、3戦目で初勝利を挙げる<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131993.html 【未勝利戦】(小倉2R)〜メイショウサムソン順当勝ち]ラジオNIKKEI (2005.9.4). 2021年2月14日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131994.html 【未勝利戦】(小倉2R)〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2005.9.4). 2021年2月14日閲覧。</ref>。


== デビューまで ==
9月18日、[[阪神競馬場]]で行われた野路菊ステークスで出走馬中最速の[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン_(単位)|ハロン]](35秒0)で勝利する<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-132225.html 【野路菊S】(阪神)〜末脚光った メイショウサムソン]ラジオNIKKEI (2005.9.18). 2021年2月14日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-132226.html 【野路菊S】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2005.9.18). 2021年2月14日閲覧。</ref>。その後は萩ステークスにも出走するが、2歳王者になる[[フサイチリシャール]]の4着に敗れる<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-132873.html 【萩S】(京都)〜フサイチリシャールが逃げ切る]ラジオNIKKEI (2005.10.29). 2021年2月14日閲覧。</ref>。さらに[[東京スポーツ杯2歳ステークス]]でもフサイチリシャールの2着に敗れる<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-133278.html 【東京スポーツ杯2歳S】(東京)〜フサイチリシャールがレコードで出世レースを快勝]ラジオNIKKEI (2005.11.19). 2021年2月14日閲覧。</ref>。その後、中京2歳ステークスを1分47秒5のレコードで快勝して2歳時を終えた<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-133801.html 【中京2歳S】(中京)〜メイショウサムソン、レコードV]ラジオNIKKEI (2005.12.17). 2021年2月14日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-133802.html 【中京2歳S】(中京)〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2005.12.17). 2021年2月14日閲覧。</ref>。


=== 3歳時(2006年) ===
=== 誕生までの経緯 ===
マイヴィヴィアンは、1997年に[[北海道]][[静内町]]で生産された、父[[ダンシングブレーヴ]]、母父サンプリンスの牝馬である<ref>{{Cite web |title=マイヴィヴィアン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000315251/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。牝系は、1907年[[小岩井農場の基礎輸入牝馬]]20頭のうちの1頭、フロリースカップから日本で拡がった「明治から続く在来牝系<ref>『優駿』2006年7月号 159頁</ref>」([[吉沢譲治]])であり、曾祖母(マイヴィヴィアンの三代母)は、1959年の[[天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]を優勝した[[ガーネツト|ガーネット]]であった。2000年、[[美浦トレーニングセンター]]の[[清水利章]]厩舎からデビューし、10戦全敗最高3着で引退<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|マイヴィヴィアン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000315251/record/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-16}}</ref>。翌2001年から生まれ故郷で繁殖牝馬となり、初年度は[[フジキセキ]]と交配し[[流産]]となっていた<ref name="優駿-2011-6-75">『優駿』2011年6月号 75頁</ref>。
3歳になり[[きさらぎ賞]]から始動するが、芝の状態が良いと石橋守が考えた大外へコースを取った結果[[ドリームパスポート]]の2着に敗れる<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-134616.html 【きさらぎ賞】(京都)〜ドリームパスポートが勝利しクラシックへ名乗り出た]ラジオNIKKEI (2006.2.12). 2021年3月24日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-134617.html 【きさらぎ賞】(京都)〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2006.2.12). 2021年3月24日閲覧。</ref>。レース後、勝ち馬に乗っていた[[安藤勝己]]は「どこを通ってもいっしょだった」とコメントしており、石橋は「勝ち馬に併せる競馬をするべきだった、馬体を併せれば・・・」とメイショウサムソンの持ち味を引き出すことが出来なかったことは言っていた。


2002年は、既に産駒[[テイエムオペラオー]]が活躍していた[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]と交配。受胎している状態で、静内から浦河町の林孝輝牧場に移動した<ref name="優駿-2006-6-20" />。2003年3月7日、林孝輝牧場にて初仔となる[[鹿毛]]の[[牡馬]](後のメイショウサムソン)が誕生する。
続いて出走した皐月賞[[トライアル競走|トライアル]]の[[スプリングステークス]]では既に後塵を拝していたフサイチリシャール、ドリームパスポートが1、2番人気に支持され、メイショウサムソンは4番人気にとどまる。しかし、直線では一足早く抜け出すと相次いで追い込んできた2頭を頭を伸ばして抑えこみ、[[重賞]]初制覇を飾った<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-135127.html 【スプリングS】(中山)〜さぁ皐月賞へメイショウサムソン]ラジオNIKKEI (2006.3.19). 2021年3月24日閲覧。</ref>。レース後、2着のフサイチリシャールに騎乗していた[[福永祐一]]は「相手が強かったです」とコメントしている<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-135128.html 【スプリングS】(中山)〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2006.3.19). 2021年3月24日閲覧。</ref>。


=== 幼駒時代 ===
これで皐月賞の優先出走権を獲得して本番に挑むが、単勝馬券は6番人気の穴馬扱いであった。しかし、レースでは落ち着きを見せて5番手で折り合いをつけると、第4コーナーでは3番手に上がり他の人気馬よりも再び早く抜け出す。今度は直線で前走ほどの接戦にはならず、内ラチ沿いを猛追してきたドリームパスポートを抑えこみ、クラシックの栄冠を手に入れた<ref>{{Cite web|url=http://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/satsuki/result/satsuki2006.html|title=第66回 皐月賞|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2015-07-12}}</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-135544.html 【皐月賞(GI)】(中山)〜人馬一体! 石橋守騎手 メイショウサムソンでGI 初制覇]ラジオNIKKEI (2006.4.16). 2021年3月24日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-135545.html 【皐月賞】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2006.4.16). 2021年3月24日閲覧。</ref>。石橋にとっては騎手生活22年目での[[競馬の競走格付け|GI]]初制覇であり<ref>[http://www5.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/samson/news/20080822_66197.html 石橋守22年目初G1「騎手になって良かった」/皐月賞]nikkansports.com (2006.4.16). 2021年3月24日閲覧。</ref>、瀬戸口にとっては[[ネオユニヴァース]]に続く2回目の皐月賞制覇、そして定年を翌年に控えてのクラシック制覇となった。

===== 入厩先決定までの経緯 =====
[[ファイル:Tsutomu-Setoguchi20100710.jpg|サムネイル|188x188ピクセル|[[瀬戸口勉]](2010年)]]
「マイヴィヴィアンの初仔」は1歳秋まで牧場で過ごし、怪我無く順調に育った<ref name="優駿-2006-6-20" /><ref name="優駿-2007-12-51" />。小さいころから体が大きく、同期の仔と相撲を取っても負けなかったという<ref name="優駿-2007-12-51">『優駿』2007年12月号 51頁</ref>。当初は、1歳夏のサマーセールに上場させて、売却する予定であった<ref name="優駿-2006-6-20" />。しかし直前に林が、浦河の生産者グループに参加。グループメンバーの[[三嶋牧場]]が音頭を取り、「マイヴィヴィアンの初仔」など4、5頭を束ねて、栗東トレーニングセンター所属の調教師[[瀬戸口勉]]に披露する機会を得た<ref name="優駿-2011-6-75" /><ref name="名馬堂々-77">『Number PLUS 名馬堂々。』77頁</ref>。瀬戸口は、その4、5頭から「マイヴィヴィアンの初仔」を選り抜き、瀬戸口厩舎の管理馬となることが内定した<ref name="優駿-2006-6-20" />。林と瀬戸口はそれまで面識がなく、林の生産馬が瀬戸口厩舎の管理馬となるのは初めてのことだった<ref>『優駿』2006年6月号 21頁</ref>。瀬戸口は、1975年に厩舎を開業して以来、[[オグリキャップ]]や[[ネオユニヴァース]]などを管理してきたが、70歳となる2007年2月が定年、厩舎解散が目前に迫っていた。そのため2003年産、すなわち2006年に3歳となる馬が管理できる最後の世代であった<ref name="優駿-2011-6-75" />。瀬戸口は、この「マイヴィヴィアンの初仔」のオーナーを探し始めた。

===== オーナー決定までの経緯 =====
[[ファイル:Yoshio-Matsumoto20101010.jpg|サムネイル|209x209ピクセル|[[松本好雄]](2010年)]]
オーナーを探す瀬戸口は「メイショウ」の冠名を用いる馬主、松本好雄に接近した。松本は、阪神馬主協会に属しており、主に栗東の調教師に多数の所有馬を預ける大馬主である。松本は、馬主業はあくまで趣味と捉え、効率性を求めていなかった<ref name="優駿-2006-6-14" />。1991年、馬主歴28年目にして{{GI}}タイトルを初めて掴んだ宝塚記念([[メイショウドトウ]])直後の祝勝会で「人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる<ref name="優駿-2006-6-12">『優駿』2006年6月号 12頁</ref>。」と述べているように、調教師、騎手、牧場などとのつながりを重視する馬主であった。そのため、勝率が高く値段も高い大手牧場の生産馬ではなく、縁こそあるが勝率が低く値段も安い日高地方の牧場生産馬を積極的に購入。さらにそれらの馬を厩舎の成績関係なしに、振り分けていた<ref name="名馬2-290">『名馬を読む2』290頁</ref>。また松本は、馬を見る能力はないと自認しており、馬の購入や騎手の選択、レース選択などあらゆる判断を調教師に委ねていた<ref name="優駿-2006-6-14">『優駿』2006年6月号 14頁</ref>。このように、口出しせず、ただ馬資源のみを供給する馬主として、栗東の競馬関係者から感謝され「メイショウさん」という愛称で親しまれていた<ref name="名馬2-290" />。
[[ファイル:Owner Matsumoto Yoshio.svg|サムネイル|151x151ピクセル|松本「メイショウ」の[[勝負服 (競馬)|勝負服]]]]
瀬戸口は、調教師最後のクラシックを狙える馬が用意できなかったことや<ref name="優駿-2006-6-14" />、「最後の世代に社長(松本)の馬がいないのは寂しい<ref name="名馬堂々-77" />」と理由付けして、松本に購入を依頼する。さらに「まだ売れ残っている中から買ってほしい<ref name="優駿-2006-6-14" />」と連絡し、松本を説得した。瀬戸口にとって「まだ売れ残っている」馬は「マイヴィヴィアンの初仔」の他に3頭存在していた。瀬戸口は生涯最後の「メイショウ」を選ぶべく、候補4頭から2頭、2頭から1頭と絞り、何とか1頭を選択。その1頭が、「マイヴィヴィアンの初仔」であった<ref name="優駿-2006-6-14" />。松本は700万円で購入する<ref name="日刊-凱旋門賞">{{Cite web |title=メイショウサムソン 凱旋門賞特集 : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/samson/top-samson.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-17}}</ref>。「マイヴィヴィアンの初仔」には、冠名「メイショウ」に「怪力の人」を意味する「サムソン」を組み合わせた「'''メイショウサムソン'''」という競走馬名が与えられた<ref name="JAIRS">{{Cite web |url=https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=25126429179 |title=血統書サービス「メイショウサムソン」 |accessdate=2022-2-17 |publisher=ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220217051218/https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?hid=25126429179 |archivedate=2022-2-17}}</ref>。

メイショウサムソンは、瀬戸口の生まれ故郷である鹿児島県鹿屋市の鹿屋共同育成センターにて育成が施された<ref>{{Cite web |title=瀬戸口勉氏が死去 81歳 調教師時代オグリなどを手掛ける |url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20171110/etc17111010450003-n1.html |website=サンスポZBAT!競馬 |date=2017-11-10 |accessdate=2022-02-17 |language=ja-JP}}</ref><ref name="育成">{{Cite web |title=九州産馬に注目を! - 浅野靖典 {{!}} 競馬コラム |url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=20113 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-17 |language=ja}}</ref>。騎乗技術に長けた騎手経験者ではなく、就業3年目の若手が担当できてしまうほどの大人しい性格だったという<ref>{{Cite web |url=http://www.b-t-c.or.jp/btc_p200/p200_04_6.html |title=鹿屋育成センター(鹿児島県鹿屋市)崎山喬之(宮崎第6期生) |accessdate=2022-2-17 |publisher=BTC |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308061213/http://www.b-t-c.or.jp/btc_p200/p200_04_6.html |archivedate=2012-3-8}}</ref>。
== 競走馬時代 ==


=== 2歳(2005年) ===
1番人気で迎えた[[第73回東京優駿]]は稍重の馬場の中、道中は先行集団につけ直線で逃げ粘る[[アドマイヤメイン]]をクビ差で差しきり、2分27秒9のタイムで優勝した<ref>[https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=1824411&year=2017&month=05&day=26 メイショウサムソン2冠「感無量」石橋守/G1復刻]日刊スポーツ (2017.5.26). 2021年3月24日閲覧。</ref>。前年の[[ディープインパクト_(競走馬)|ディープインパクト]]に続き、この時点における[[二冠馬]]となった。なお、小倉競馬場デビュー馬の東京優駿制覇はこれが史上初のことであった<ref>{{Cite news|author=有吉正徳|url=http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015070274791.html|title=小倉デビューのダービー馬第1号になったメイショウサムソン|newspaper=朝日新聞|date=2015-07-02|accessdate=2015-07-12}}</ref>。
[[ファイル:Ishibashi and Iida Retirement ceremony (1) IMG 1333 20130224.JPG|サムネイル|193x193ピクセル|[[石橋守]](2013年)]]
夏に鹿児島から、[[小倉競馬場]]に移動。7月31日の新馬戦(芝1800メートル)に[[石橋守]]が騎乗しデビューを果たす。当初騎手は、瀬戸口厩舎の主戦である[[福永祐一]]が予定されていた<ref name="東スポ-石橋連載7" />。しかし、デビュー前週の水曜日に福永が、新潟競馬場での騎乗{{efn|同日の関屋記念({{GIII}})、[[サイドワインダー (競走馬)|サイドワインダー]]に騎乗のため<ref name="東スポ-石橋連載7" />。}}を選択。急遽代役を探してまず[[武豊]]に依頼するも、他厩舎の先約があって断られ、石橋にお鉢が回ったという経緯が存在する<ref name="東スポ-石橋連載7" /><ref>『優駿』2006年10月号 44頁</ref>(詳細は、[[メイショウサムソン#石橋守]]を参照。)。4番人気の支持でアタマ差の2着<ref>{{Cite web |title=【2歳新馬】(小倉5R)〜グロリアスウィーク緒戦勝ち|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131488.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。その後も代役石橋が続投し、同じ小倉芝1800メートルの未勝利戦を走り続けた。8月20日は2馬身半差の3着<ref>{{Cite web |title=【未勝利戦】(小倉2R)〜エイシンチャンドラがレコードV|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131747.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。9月4日は、好位から抜け出し2馬身半差をつけて入線、3戦目で初勝利を挙げた<ref>{{Cite web |title=【未勝利戦】(小倉2R)〜メイショウサムソン順当勝ち|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-131993.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。


栗東に戻り9月18日、阪神競馬場の野路菊ステークス(OP)を半馬身差で勝利し連勝<ref>{{Cite web |title=【野路菊S】(阪神)〜末脚光った メイショウサムソン|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-132225.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。続く萩ステークス(OP)、重賞初挑戦となる[[東京スポーツ杯2歳ステークス]]({{GIII}})は、福永騎乗の[[フサイチリシャール]]にいずれも敗北した。着差5馬身以上の4着、2馬身半の2着となる<ref>{{Cite web |title=【萩S】(京都)〜フサイチリシャールが逃げ切る|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-132873.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=【東京スポーツ杯2歳S】(東京)〜フサイチリシャールがレコードで出世レースを快勝|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-133278.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。12月17日の[[中京2歳ステークス]](OP)は、[[別定戦]]のため、他よりも2キログラム多い57キログラムの[[負担重量]]が課された<ref name="優駿-2011-6-76" />。早めに抜け出して1番人気トップオブツヨシに2馬身差をつけて入線。57キログラムながら、2歳コースレコードを更新するタイムで3勝目を挙げた<ref>{{Cite web |title=【中京2歳S】(中京)〜メイショウサムソン、レコードV|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-133801.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-17}}</ref>。
夏は放牧に出されず厩舎で過ごした。秋の初戦に[[神戸新聞杯]]に出走した。最後の直線では勝負根性を見せ並んでいた2頭を交わし先頭に立ったものの、最後は大外から一気に追い込んできたドリームパスポートに交わされ2着となった<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-137672.html 【神戸新聞杯(GII)】(中京)〜メイショウサムソン敗れ、ドリームパスポートが雪辱]ラジオNIKKEI (2006.9.24). 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-137673.html 【神戸新聞杯】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2006.9.24). 2021年4月10日閲覧。</ref>。


=== 3歳(2006年) ===
前年のディープインパクトに続く2年連続の[[三冠 (競馬)|三冠]]制覇を期待され[[菊花賞]]では1番人気に支持されたが、最後の直線で逃げるアドマイヤメインを猛追するも届かず、さらにドリームパスポート、そしてレースを制した[[ソングオブウインド]]に差され4着に終わり、三冠制覇を逃した<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-138104.html 【菊花賞(GI)】(京都)〜Mサムソン3冠ならず、伏兵ソングオブウインド戴冠]ラジオNIKKEI (2006.10.22). 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-138105.html 【菊花賞】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2006.10.22). 2021年4月10日閲覧。</ref>。敗因として、レコードタイムを連発する速い馬場に対応できなかったという見方もあった。


==== 皐月賞 ====
続いての[[ジャパンカップ]]ではディープインパクトとの初対決だったが、小雨が降る中で瞬発力が必要となる競馬となり6着に敗れた<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/jc/result/jc2006.html 第26回 ジャパンカップ]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。続く[[第51回有馬記念]]では他馬と触する不利もあり5着に敗れた<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/arima/result/arima2006.html 第51回 有馬記念]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。秋は春頃に見せた早めに抜け出して前で粘るという競馬ができなくなっており、先着争いに加わることが難しくなっていた。有馬記念後は放牧に出された。
2月12日、[[きさらぎ賞]]({{GIII}})で始動。1番人気の支持を背負ってスタートし先行、早めに抜け出した<ref name="優駿-きさらぎ賞" />。直線では正しく走れるように外側に持ち出したが、避けた内側を後方待機の2番人気[[ドリームパスポート]]に使われて差し切られ、半馬身差の2着<ref name="優駿-きさらぎ賞">『優駿』2006年4月号 76-77頁</ref>。石橋は馬場を読めなかったこの判断を「ボクの完全な騎乗ミス<ref>{{Cite web |title=【8】スプリングSでのサムソンの走りが「皐月賞は勝てる!」ボクを確信させた |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5201 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-17 |language=ja}}</ref>」だったと振り返っている。続いて3月19日、[[皐月賞]]の[[トライアル競走]]である[[スプリングステークス]]({{GII}})に参戦。東京スポーツ杯2歳ステークスの後に、[[朝日杯フューチュリティステークス]]を勝利したフサイチリシャールと、ドリームパスポートが1番人気、2番人気を占める一方、そのどちらにも敗れた経験を持つメイショウサムソンは、オッズ14.5倍の4番人気の支持だった<ref>{{Cite web |title=フジTVスプリングS|2006年3月19日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/200606020811/ |website=db.netkeiba.com |accessdate=2022-02-17}}</ref>。大外枠から先行し好位を確保、最終コーナー手前で先頭に並びかけた<ref name="優駿-スプリングS" />。直線では背後にいたドリームパスポートとフサイチリシャールが、それぞれメイショウサムソンの内外に分かれて追い込んできた。一時並ばれかけたが、差し返して先頭で入線<ref name="優駿-2011-6-76" />。フサイチリシャールにクビ差、ドリームパスポートにクビとハナ差をつけて重賞初勝利、皐月賞の優先出走権を獲得した<ref name="優駿-スプリングS">『優駿』2006年5月号 84-85頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=jnZ3Ysjr9RU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2006年 皐月賞({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
4月16日、皐月賞({{GI}})に出走する。トライアル競走の[[弥生賞]]優勝馬[[アドマイヤムーン]]が2.2倍の1番人気、[[若葉ステークス]]優勝馬[[フサイチジャンク]]が5.6倍の2番人気に推される一方で、スプリングステークス優勝馬のメイショウサムソンは、14.5倍の6番人気の支持<ref name="netkeiba-皐月賞" />。前走下したフサイチリシャールや、弥生賞4着の[[サクラメガワンダー]]よりも低い評価であった<ref name="netkeiba-皐月賞">{{Cite web |title=皐月賞|2006年4月16日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/200606030811/ |website=db.netkeiba.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>。


3枠5番からスタート、ミドルペースの好位を追走した<ref name="優駿-皐月賞" />。第3コーナーから2番手のフサイチリシャールが抜け出し、それを追いかけて最終コーナーを通過。直線では、石橋が右ムチで促すとフサイチリシャールを外から捕えて抜け出した<ref name="優駿-2011-6-76" />。内からドリームパスポートが脚を伸ばしてきたが、先頭を保って入線。ドリームパスポートに半馬身差をつけて{{GI}}初勝利を挙げた<ref name="優駿-皐月賞">『優駿』2006年6月号 78-79頁</ref>。石橋は、{{GI}}初勝利<ref name="優駿-皐月賞" />。瀬戸口は、2003年ネオユニヴァース以来となる皐月賞2勝目。スプリングステークス優勝馬の皐月賞優勝も同様に、ネオユニヴァース以来だった<ref name="優駿-皐月賞" />。
=== 4歳時(2007年) ===
2007年2月をもって瀬戸口が定年退職となり、[[高橋成忠]]厩舎へ転厩した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=17975 メイショウサムソン、高橋成忠厩舎に転厩へ]netkeiba.com (2007.1.4). 2021年4月10日閲覧。</ref>。放牧を終えて、転厩初戦として臨んだのは[[大阪杯]]であった。単勝1.9倍に推されると、レースでは以前のようなかかり癖を見せずに粘る[[シャドウゲイト (競走馬)|シャドウゲイト]]をねじ伏せ、東京優駿(日本ダービー)以来の勝利を挙げた<ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-140518.html 【産経大阪杯(GII)】(阪神)〜2冠馬メイショウサムソン 磐石の競馬で復活]ラジオNIKKEI (2007.4.1). 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-140519.html 【産経大阪杯】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2007.4.1). 2021年4月10日閲覧。</ref>。休み明けが弱いとされていた同馬だけに、「放牧で心身ともに成長した」と鞍上の石橋は評価した。


==== 東京優駿(日本ダービー) ====
次走の[[第135回天皇賞|第135回天皇賞(春)]]では、高速馬場や長距離レースへの適性が疑問視され、[[阪神大賞典]]を優勝した[[アイポッパー]]に次ぐ2番人気での出走となった。レースでは第4コーナーで先頭に立つと、後方から詰め寄って来たエリモエクスパイアとの叩き合いを制し、GI3勝目を挙げた<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/haruten/result/haruten2007.html 第135回 天皇賞(春)]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。レース当日は時計の出やすい高速馬場でメイショウサムソンにとって不利になるという見方がマスコミなどの間でされていたが、3分14秒1という好時計で勝利を収めてその不安を払拭した。なおこの勝ち時計は歴代の天皇賞(春)の優勝馬の中で当時2番目に速いものだった。さらに、ディープインパクトがレコードを記録した前年の同レースよりも3000mの通過タイムが速い(前年は途中でペースが落ち着いたが、このレースでは途中からペースが上がっている)ため、かなり早仕掛けであったにもかかわらず最後まで粘り切るという非常にタフなレースであった。あまりの激しいレースに、ゴール後ほとんどの馬がコーナーまで走らなかった。大阪杯の優勝馬が天皇賞(春)を制したのは[[スーパークリーク]]以来17年ぶりのことであり、三冠を達成できなかった春のクラシック二冠馬(皐月賞・東京優駿)が春の天皇賞を制したのは史上初のことであった。


5月28日、東京優駿(日本ダービー)({{GI}})に出走。単勝オッズ3.8倍の1番人気に支持された。2番人気は、皐月賞後方から差し届かず3着のフサイチジャンクで5.5倍。3番人気は、同じく差し届かず4着のアドマイヤムーンで5.9倍。以下、[[毎日杯]]、[[青葉賞]]と連勝中の[[アドマイヤメイン]]、2歳時3戦無敗の[[マルカシェンク]]などが続いていた。前日から雨が降っていたが、当日昼から雨は止み、天候は晴、馬場状態は稍重で行われた<ref name="優駿-2006-7-78">『優駿』2006年7月号 78頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=n8-OoE4VmLg&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2006年 東京優駿(日本ダービー)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
続いての[[第48回宝塚記念]]ではファン投票で1位に選出されながら2番人気で出走。レースではじっくり中盤で控え直線半ばで[[カワカミプリンセス]]をかわして先頭に立つものの、最後にメイショウサムソンをマークしていた[[アドマイヤムーン]]との叩き合いの末に交わされ2着に敗れた<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/takara/result/takara2007.html 第48回 宝塚記念]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。
1枠2番からスタート、アドマイヤメインがハナを奪って逃げる一方で、好位の内側を追走。アドマイヤメインの逃げは、前半の1000メートルを62.5秒で通過するスローペースだった<ref name="優駿-2006-7-78" />。第3コーナーから徐々に外に進路を取り、最終コーナーを4、5番手で通過した<ref name="日刊-凱旋門賞-過去レース">{{Cite web |title=メイショウサムソン 過去のレース 凱旋門賞 : nikkansports.com |url=http://www5.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/samson/news/20080822_66200.html |website=www5.nikkansports.com |accessdate=2022-02-22}}</ref>。直線では後続が伸びを欠き、先頭はメイショウサムソンとアドマイヤメインの2頭のみの争いとなった<ref name="日刊-凱旋門賞-過去レース" />。逃げ切りを図るアドマイヤメインに外から接近<ref name="優駿-2006-7-78" />。残り200メートルで並び立ち、まもなく差し切った<ref name="優駿-2006-7-78" />。アドマイヤメインが追いすがり、突き放すことはできなかったが、クビ差先着。石橋が手綱を緩める動作をしながら、先頭で入線した。{{GI}}2勝目、ダービー優勝を果たした。前年のディープインパクトに続いて、史上21頭目となる春の[[二冠馬|クラシック二冠]]を成し遂げた<ref name="NIKKEI-ダービーアラカルト">{{Cite web |title=【東京優駿】(東京)〜アラカルト|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-136090.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。石橋は、皐月賞に続いて{{GI}}2勝目でダービージョッキーと相成った。2着アドマイヤメインには[[柴田善臣]]が騎乗しており、競馬学校1期生同士のワンツーフィニッシュとなった<ref name="NIKKEI-ダービーアラカルト" />。瀬戸口は、2003年ネオユニヴァース以来となるダービー2勝目で、ネオユニヴァース以来の春のクラシック二冠達成馬だった<ref name="優駿-皐月賞" />。


アドマイヤメインが迫っているにもかかわらず、手綱を緩めてクビ差での決着となった背景には諸説あり、江面弘也によれば、「訳が分からなくなって抑えた<ref>『名馬を読む2』294頁</ref>」と語られるが、[[河村清明]]によれば石橋は冷静で「今日の展開なら(中略)前のアドマイヤメインを交わせさせすれば勝てる<ref name="優駿-2011-6-79">『優駿』2011年6月号 79頁</ref>」と考えたため流して入線したと語られており、正反対の記述が見られる{{efn|東京スポーツの連載『石橋守 守の起源』によれば「残り100メートルあたりで前を捕らえると後は必死に追ったつもりだったけど…後でVTRを見るとゴール前では無意識に手綱を緩めていた。ただ、あの時のサムソンならもう一度、並び掛けられても抜かれない自信があった<ref>{{Cite web |title=【10】1番人気で勝ったダービー。誰もいない内正面で空を見上げ感謝の気持ちを込めた |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5682 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-18 |language=ja}}</ref>。」とどっちつかずの回顧をしている。}}。(競走に関する詳細は、[[第73回東京優駿]]を参照。)
メイショウサムソンはその血統(後述)から凱旋門賞挑戦が検討されており、6月28日に[[凱旋門賞]]への挑戦が正式に決まった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=21378 メイショウサムソン、武豊騎手騎乗で凱旋門賞へ]netkeiba.com (2007.6.29). 2021年4月10日閲覧。</ref>。鞍上は[[武豊]]に乗り替わる予定となっており7月31日に高橋成忠と武豊が[[シャンティー調教場]]を下見し、8月4日に[[リチャード・ギブソン]]厩舎への滞在が決まった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22111 ウオッカ&メイショウサムソン、仏での滞在厩舎決定]netkeiba.com (2007.8.5). 2021年4月10日閲覧。</ref>。また、帯同馬には同じく高橋成忠厩舎所属の松本の所有馬で以前から調教パートナーを務めていたメイショウレッドが選ばれた<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22167 メイショウサムソンに帯同馬]netkeiba.com (2007.8.8). 2021年4月10日閲覧。</ref>。8月15日に出国[[検疫]]のために[[美浦トレーニングセンター]]に入厩し、8月22日8時15分発のJL6461便で[[成田空港]]から渡仏し、その後同調教場で調教を行い、[[前哨戦]]となる[[フォワ賞]] (G2) への出走も視野に入れていた。


==== 秋、三冠逃す ====
8月17日に当馬が[[馬インフルエンザ]]に感染していたことが明らかになったものの<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22354 メイショウサムソンも馬インフルエンザに感染]netkeiba.com (2007.8.17). 2021年4月10日閲覧。</ref>、当初陣営は出走に前向きな姿勢だった。[[フランスギャロ]]の対応次第で出走ができなくなったが、後日衛生条件をクリアすれば受け入れる態勢はあるとの報告があった。だが、翌8月18日に遠征を断念することが協議の結果明らかになり<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22372 メイショウサムソン凱旋門賞断念]netkeiba.com (2007.8.18). 2021年4月10日閲覧。</ref>、8月26日に正式に断念することを高橋が発表した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22505 メイショウサムソンの凱旋門賞回避が正式決定]netkeiba.com (2007.8.26). 2021年4月10日閲覧。</ref>。なお、馬インフルエンザは後に陰性となったがしばらく美浦に滞在し、8月31日に栗東へ帰厩した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22574 メイショウサムソン、31日に栗東へ帰厩]netkeiba.com (2007.8.29). 2021年4月10日閲覧。</ref>。
東京優駿の後は放牧に出ず、栗東の厩舎で夏を過ごした<ref name="優駿-2006-9-28" />。東京優駿直後は曳き運動に専念し、6月下旬に回復すると朝はウッドコース、午後はプールのトレーニング<ref name="優駿-2006-9-28" />。この間に馬体は大きく成長、馬体重が東京優駿時よりも20キログラム増加させている<ref name="優駿-2006-9-28" />。前年のディープインパクトが三冠を果たしていたことから、1983年、1984年[[ミスターシービー]]、[[シンボリルドルフ]]以来、22年ぶり2度目「2年連続のクラシック三冠馬誕生」が期待されていた<ref>『優駿』2006年9月号 31頁</ref>。9月24日の[[神戸新聞杯]]({{GII}})に1.6倍の1番人気の支持で始動<ref>{{Cite web |title=神戸新聞杯|2006年9月24日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/200607030611/ |website=db.netkeiba.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>。3、4番手の好位から直線に向き、前を行くフサイチリシャールや[[ソングオブウインド]]を捕えて先頭となったが、大外から追い込んだ3番人気に差し切られてクビ差2着となる<ref>{{Cite web |title=【神戸新聞杯(GII)】(中京)〜メイショウサムソン敗れ、ドリームパスポートが雪辱|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-137672.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。


続く10月22日、三冠がかかった大一番の[[菊花賞]]({{GI}})に単勝オッズ2.0倍の1番人気で出走。武豊騎乗のアドマイヤメインが大逃げを打つ中、離れた馬群の好位を追走<ref name="優駿-菊花賞">『優駿』2006年12月号 78頁</ref>。2周目の第3コーナーから追い上げ始め、アドマイヤメインを捕らえにかかった<ref name="優駿-菊花賞" />。しかし直線は伸びがなく、失速するアドマイヤメインすらかわすことができなかった。アドマイヤメインを差し切ったソングオブウインドとドリームパスポートの争いに4馬身以上離された4着<ref name="優駿-2006-12-17">『優駿』2006年12月号 17頁</ref>。三冠達成を逃し、二冠馬に留まった<ref>{{Cite web |title=【菊花賞(GI)】(京都)〜Mサムソン3冠ならず、伏兵ソングオブウインド戴冠|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-138104.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。石橋は、自らの騎乗について、折り合いもつくなど問題はなかったと振り返っている<ref name="優駿-2006-12-20" />。また瀬戸口は、体調は問題なかったと振り返っているが<ref name="優駿-2006-12-20">『優駿』2006年12月号 20頁</ref>、伸びを欠いたのは、調教を正しく行ったにもかかわらず、直前の馬体重が神戸新聞杯のそれよりも増加していたという「体つきの変化<ref name="優駿-2006-12-21" />」があったこと、レコード決着に対応できなかったことを敗因として挙げている<ref name="優駿-2006-12-21">『優駿』2006年12月号 21頁</ref>。また担当厩務員の加藤は、「神戸新聞杯までに毎週のように併せ馬をしていたし、2歳のころから同じところにずっといて精神的なストレスがあったのかもしれない<ref>{{Cite web |title=【11】しっくりこなかった秋シーズン…菊花賞4着で逃したサムソンの3冠 |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5683 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-18 |language=ja}}</ref>」と振り返っている。その後は古馬と対決、[[ジャパンカップ]]({{GI}})6着、[[有馬記念]]({{GI}})5着と連敗する<ref name="名馬を読む-295">『名馬を読む2』295頁</ref><ref>{{Cite web |title=【有馬記念(GI)】(中山)〜伏兵マツリダゴッホ 積極策でGI初制覇|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-143759.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。
秋の[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]は[[秋古馬三冠]]レースに出走することが9月13日に発表され、前哨戦を使わず緒戦となる10月28日の[[第136回天皇賞]](秋)に出走することになった。鞍上は断念された海外遠征と同様、武豊が3競走のすべてで騎乗することとなった。なお10月12日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースでは、120ポンドの評価を得て27位タイとなった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=23576 世界トップ50に日本馬は4頭]netkeiba.com (2007.10.12). 2021年4月10日閲覧。</ref>。


=== 4歳(2007年) ===
そして迎えた天皇賞(秋)では4ヶ月ぶりの実戦ながら1番人気に支持され、アドマイヤムーンや前年の覇者・[[ダイワメジャー]]らを寄せ付けずに快勝した<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/akiten/result/akiten2007.html 第136回 天皇賞(秋)]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。当日の馬場状態が稍重ながら1分58秒4という優秀なタイムを記録し、2着のアグネスアークに2馬身半差の着差をつけるなど圧勝と言える内容であった。ただ、レースではコスモバルクとエイシンデピュティが大きく斜行しアドマイヤムーンやダイワメジャーらに致命的な不利を与えてしまったこともあり、有力馬に騎乗していた騎手からは不満の声が多く聞かれた(審議の結果、エイシンデピュティは降着となった)。調教師である高橋も「外の馬が変な形になっていて、勝つには勝ったけど後味の悪い感じもします」とコメントを出している。同馬はこの勝利により勝ち抜け制度が廃止された[[1981年]]以降4頭目となる天皇賞春・秋の連覇を達成した。11月4日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースでは、天皇賞(秋)を制したことにより122ポンドの評価を得て17位タイとなり、先月より順位を上げた<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=24080 メイショウサムソンが浮上/世界ランク]netkeiba.com (2007.11.3). 2021年4月10日閲覧。</ref>。


==== 天皇賞(春) ====
次走の[[第27回ジャパンカップ]]では圧倒的な1番人気を得たが、レースではメイショウサムソンはスローペースで進むレースを後方から追走するという展開になり、逆に大方の予想では後方でレースを進めると予想されたアドマイヤムーンと[[ポップロック (競走馬)|ポップロック]]が先行するという展開となった。直線では、両2頭が内側のロスの少ないコースを通って早めに抜け出したのとは対照的に同馬は外目を回るという対象的なレース展開となったことも響き、本馬の持ち味である粘り腰を生かすレースをすることが出来ず、直線で差を詰めるものの前の2頭には粘りきられて3着と敗れた<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/jc/result/jc2007.html 第27回 ジャパンカップ]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。11月30日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースは前回と同じ122ポンドの評価を得たが、順位は18位タイとなった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=24797 世界トップ50、アドマイヤムーンは11位]netkeiba.com (2007.11.30). 2021年4月10日閲覧。</ref>。
[[ファイル:Shigetada-Takahashi20100424.jpg|サムネイル|232x232ピクセル|[[高橋成忠]]]]
有馬記念の後は、グリーンウッドファームに移動。デビュー以来初めて放牧に出された<ref name="優駿-2011-6-79" /><ref name="優駿-2007-4-154">『優駿』2007年4月号 154頁</ref>。2月末に瀬戸口の定年引退のために、厩舎が解散。松本はそれを見越して、前年末に多数の調教師を集めて、瀬戸口の後継を発表していた。松本は、厩舎開業1978年からの付き合いで、これまでメイショウエイカンや[[メイショウホムラ]]、[[メイショウバトラー]]を管理してきた栗東の[[高橋成忠]]調教師を指名する<ref name="名馬を読む-295" />。担当厩務員の加藤は、厩舎解散に伴って栗東の梅田智之厩舎に移籍しており<ref name="優駿-2007-4-154" />、新たに高橋厩舎開業1978年から所属するベテラン厩務員、中田征男が担当となった。春の目標を[[天皇賞(春)]]に据えていた高橋は、メイショウサムソンの初戦を[[阪神大賞典]]と[[大阪杯]]の二択で悩んだ結果、阪神大賞典の1週間後に行われ、長く休ませることができる大阪杯を選択する。2月28日午後に、高橋厩舎に入厩する<ref name="優駿-2007-4-154" />。


4月1日の[[大阪杯]]({{GII}})で転厩初戦を迎える。単勝オッズ1.9倍、[[コスモバルク]]や[[シャドウゲイト (競走馬)|シャドウゲイト]]の1番人気だった。スタートから中団で待機し、第3コーナーを過ぎたあたりでスパート。3番手で直線に向き、逃げるシャドウゲイトを外から捕えた。半馬身差をつけて先頭で入線<ref name="優駿-2007-6-78">『優駿』2007年6月号 78頁</ref>。10か月ぶりの勝利で重賞4勝目となった<ref>{{Cite web |title=【産経大阪杯(GII)】(阪神)〜2冠馬メイショウサムソン 磐石の競馬で復活|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-140518.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref><ref>『優駿』2007年5月号 155頁</ref>。東京優駿優勝馬の大阪杯制覇は、グレード制導入以降、1992年[[トウカイテイオー]]、2004年ネオユニヴァース以来3頭目であった<ref>『優駿』2007年6月号 79頁</ref>。
12月6日に[[第52回有馬記念]]ファン投票の最終結果で2位となる10万2560票を獲得したことが発表された<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=24937 有馬記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位]netkeiba.com (2007.12.6). 2021年4月10日閲覧。</ref>。約3000票差で[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]に1位を譲ったがこの結果に高橋成師は「[[牝馬|女の子]]には[[花]]を持たせないとね。ここでの[[写真判定]]は負けていい」といった発言をし、グランプリへの意気込みを語っていた。しかしレースではスタート直後に武が手綱をしごいても前に馬が行かず、前走以上に後方のポジションでレースを進めることになった。また向正面で既に大外を回っており、最終コーナーでもそのまま大外を通ったこともあり肩ムチを入れても直線でスピードに乗りきれないまま、経済コースとスローペースの展開を生かしきった[[マツリダゴッホ]]の8着と惨敗した<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/arima/result/arima2007.html 第52回 有馬記念]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-143759.html 【有馬記念(GI)】(中山)〜伏兵マツリダゴッホ 積極策でGI初制覇]ラジオNIKKEI (2007.12.23). 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-143760.html 【有馬記念】〜レース後のコメント]ラジオNIKKEI (2007.12.23). 2021年4月10日閲覧。</ref>。鞍上の武豊は敗因について「理由は全然わからない」とコメントし、調教師の高橋は「まさか、ウオッカをマークする形になるとはね…。展開かな。前残りで流れに変化がないレースだった。調子がまずいということもなかった。原因がよく分からない」とコメントしている。この敗北で4歳シーズンでは初めて複勝圏から外れることになった。


続いて4月29日、天皇賞(春)({{GI}})に参戦。[[ステイヤーズステークス]]と[[阪神大賞典]]を連勝中のステイヤー、[[アイポッパー]]に1番人気を譲り、4.5倍の2番人気であった<ref name="netkeiba-天皇賞春" />。以下、前年の[[メルボルンカップ]]優勝馬[[デルタブルース]]が4.6倍、[[ダイヤモンドステークス]]優勝馬[[トウカイトリック]]が続いた<ref name="netkeiba-天皇賞春">{{Cite web |title=天皇賞(春)|2007年4月29日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/200708030411/ |website=db.netkeiba.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>。
レース後の12月26日にドバイへの遠征計画を発表。[[ドバイシーマクラシック]]か[[ドバイターフ|ドバイデューティーフリー]]への予備登録を行うことを表明した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25603 ドバイSC、メイショウサムソンなどが登録]netkeiba.com (2008.1.10). 2021年4月10日閲覧。</ref><ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25602 ドバイDF、ウオッカなどが登録]netkeiba.com (2008.1.10). 2021年4月10日閲覧。</ref>。
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=yIqdP-fyfsA&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2007年 天皇賞(春)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
スタートから中団を追走<ref name="Yahoo-天皇賞春">{{Cite web |title=メイショウサムソン、ド根性Vで最強の座に 石橋守「馬の力を信じていた」=天皇賞・春 |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/200811300025-spnavi |website=スポーツナビ |accessdate=2022-02-20 |language=ja}}</ref>。2周目の第3コーナーから外に展開して追い上げに入り、最終コーナーで先頭に取り付いた<ref name="優駿-2007-6-74" />。単独先頭で迎えた直線では、内から4番人気トウカイトリック、外から11番人気エリモエクスパイアが迫り来た<ref name="優駿-2007-6-74" />。並ばれて3頭横一線となったが、そこからもう一伸びを見せて先頭を守った<ref name="優駿-2007-6-74">『優駿』2007年6月号 74頁</ref>。外のエリモエクスパイアにハナ差、内のトウカイトリックにハナ+クビ差つけて入線。1948年1着[[シーマー]]、2着カツフジ、1995年1着[[ライスシャワー]]、2着[[ステージチャンプ]]以来レース史上3例目となるハナ差での決着で、{{GI}}3勝目を挙げた<ref name="優駿-2007-6-75" />。


石橋は{{GI}}3勝目、高橋は厩舎開業30年目で{{GI}}初勝利<ref name="Yahoo-天皇賞春" />。高橋は騎手だった頃の1964年に[[ヒカルポーラ]]で、1970年に[[リキエイカン]]で天皇賞(春)を勝利しており、レース史上6人目の騎手調教師双方制覇を果たした<ref name="優駿-2007-6-75">『優駿』2007年6月号 75頁</ref>。走破タイム3分14秒1は、2005年にディープインパクトが樹立したレコード3分13秒4と0.7秒しか違わず「好タイム<ref name="優駿-2007-6-75" />」(『[[優駿]]』)と称された。
=== 5歳時(2008年) ===
2008年1月5日に2007年度の[[JRA賞]]が発表され[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]と共に[[JRA賞特別賞]]を受賞し<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25571 アドマイヤムーンが年度代表馬に]netkeiba.com (2008.1.8). 2021年4月10日閲覧。</ref>、1月16日に発表された2007年度の[[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング]]では122ポンドでポップロックと並び17位タイとなった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25719 アドマイヤムーンが世界7位にランク]netkeiba.com (2008.1.16). 2021年4月10日閲覧。</ref>。なお1月22日に締め切られた[[アジアマイルチャレンジ]]のシリーズ登録を行っている。1月29日、オーナーの松本が2008年限りで現役を引退し2009年から[[種牡馬]]として[[社台スタリオンステーション]]に繋養されることを明らかにした<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25966 メイショウサムソン、年内引退へ]netkeiba.com (2008.1.30). 2021年4月10日閲覧。</ref>。なお遠征計画を出していた[[ドバイミーティング]]には1月31日にドバイシーマクラシックへの選出馬となったことが発表されたが、2月15日に開かれた説明会で3週間の京都競馬場滞在(出国検疫5日間を含む)、航空便の[[シンガポール]]乗り継ぎなどが伝えられ、翌2月16日に京都競馬場で調教師の高橋と協議した松本が検疫や輸送などの条件が厳しいとの理由でドバイ遠征を断念することになった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=26311 メイショウサムソンがドバイ遠征断念]netkeiba.com (2008.2.17). 2021年4月10日閲覧。</ref>。それとともに当初2008年の緒戦となる予定だった[[京都記念]]への出走も取りやめ、前年同様4月6日の大阪杯から始動する。しかし、レースでは直線に入ってから後退し[[ダイワスカーレット]]の6着だった<ref>[https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20080407-345182.html サムソン見せ場なく6着/大阪杯]日刊スポーツ (2008.4.7). 2021年4月10日閲覧。</ref>。


それから6月24日、ファン投票1位で[[宝塚記念]]({{GI}})に出走。東京優駿を制した3歳牝馬[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]に次ぐ2番人気に支持される<ref name="優駿-2007-8-68" />。スタートから中団の外、ウオッカの外を追走<ref name="優駿-2007-8-68" />。直線外に持ち出し一時先頭に立つも、さらに外から追い込んだ3番人気アドマイヤムーンに並ばれた<ref>『優駿』2007年8月号 32-33頁</ref>。2頭並んでしばらく競り合ったが、アドマイヤムーンに半馬身かわされて2着となる<ref name="優駿-2007-8-68">『優駿』2007年8月号 68頁</ref>。秋は、フランスの[[凱旋門賞]]遠征が計画されたが、出国直前で[[馬インフルエンザ]]に感染。前哨戦として考えていた[[フォワ賞]]に間に合わないことを理由に、計画を断念した<ref>『優駿』2011年6月号 80頁</ref>。(詳細は、[[メイショウサムソン#凱旋門賞参戦]]を参照。)
連覇のかかった春の天皇賞では、大阪杯での凡走から調子を不安視する声も少なくなかった。レースでは直線に入ってアサクサキングスから大きく不利を受けるもアタマ差の2着に入り、レース内容も直線で一度交わされた[[アドマイヤジュピタ]]との激しい競り合いの末敗れた<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/haruten/result/haruten2008.html 第137回 天皇賞(春)]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。その後オーナーの松本より再び凱旋門賞への挑戦の趣旨が語られ、5月8日にJRAの発表で凱旋門賞の一次登録を行なったと伝えられた<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=28060 凱旋門賞にサムソンら3頭が登録]netkeiba.com (2008.5.8). 2021年4月10日閲覧。</ref>。


==== 天皇賞(秋) ====
6月12日には第49回宝塚記念ファン投票の最終結果で2位となる6万6597票を獲得したことが発表され<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=29035 宝塚記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位]netkeiba.com (2008.6.13). 2021年4月10日閲覧。</ref>、次走は宝塚記念に出走。1番人気に支持され、直線で手応えよく追い込むも、直後に直線で[[アサクサキングス]]に馬体をぶつけられ、これが響いて前を行く[[エイシンデピュティ]]をアタマ差交わせずに2着と惜敗した<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/takara/result/takara2008.html 第49回 宝塚記念]JRA公式サイト. 2021年4月10日閲覧。</ref>。鞍上の武豊はアサクサキングスから二度も不利を受けたことで「後味が悪い」とコメントした<ref>[https://www.nikkansports.com/race/news/f-rc-tp0-20080629-377866.html 武「後味悪い」2着で海外白紙/宝塚記念]日刊スポーツ (2008.6.29). 2021年4月10日閲覧。</ref>。
凱旋門賞を断念した秋は、国内に専念する。8月31日に栗東へ帰厩し調整され<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソン、31日に栗東へ帰厩 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22574 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>、10月28日の天皇賞(秋)に直行。鞍上は、ここまでデビュー戦から18戦コンビを組んだ石橋から武豊に乗り替わり参戦した(詳細は、[[メイショウサムソン#乗り替わり]])。単勝オッズ2.9倍の1番人気の支持で、宝塚記念で先着を許したアドマイヤムーンを3.8倍の2番人気に押しのけている。以下{{GI}}4勝、前年の覇者[[ダイワメジャー]]5.6倍、直近の有馬記念2着宝塚記念3着の[[ポップロック (競走馬)|ポップロック]]6.1倍で続いていた<ref>{{Cite web |title=天皇賞(秋)|2007年10月28日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/200705040911/ |website=db.netkeiba.com |accessdate=2022-02-20}}</ref>。1枠1番からスタートし、好位の内側に位置<ref name="優駿-2007-12-70" />。最終コーナーで後方勢が外に広がり追い上げる中、空いた内を突いて進出した<ref name="優駿-2007-12-70" />。直線で抜け出して突き放し、後方に2馬身半差をつけて先頭で入線した<ref name="優駿-2007-12-70">『優駿』2007年12月号 70頁</ref>。直後に[[審議 (競馬)|審議]]ランプが灯ったが、メイショウサムソンに関するものではなかった<ref name="優駿-2007-12-20">『優駿』2007年12月号 20頁</ref>{{efn|審議の対象は、共に内枠から先行した[[エイシンデピュティ]]。直線コースにて外側に斜行し、アグネスアークや[[シャドウゲイト (競走馬)|シャドウゲイト]]、[[ダイワメジャー]]、[[アドマイヤムーン]]などの走行を妨害した。事象は、メイショウサムソンの外側で起きたものであり、メイショウサムソン自身は、スムーズに抜け出すことができた。エイシンデピュティは、8位入線14着降着<ref name="優駿-2007-12-71">『優駿』2007年12月号 71頁</ref>。}}。
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=GA3CKTHPSPc&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2007年 天皇賞(秋)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}{{GI}}4勝目。1988年[[タマモクロス]]、1999年[[スペシャルウィーク]]、2000年[[テイエムオペラオー]]に次いで'''史上4頭目となる同一年天皇賞春秋連覇達成'''<ref name="優駿-2007-12-71" />。東京優駿優勝馬としては、1984年[[ミスターシービー]]、1999年スペシャルウィークに次いで史上3頭目となる天皇賞(秋)優勝であった<ref>{{Cite web |title=天皇賞・秋アラカルト(28日) |url=https://p.keibabook.co.jp/news/detail/43107 |website=競馬ブック |accessdate=2022-02-20}}</ref>。武は、天皇賞(秋)4勝目、[[天皇賞]]10勝目であり、[[保田隆芳]]の騎手史上最多勝利記録に並んだ<ref name="優駿-2007-12-71" />。
[[ファイル:Japan Cup 20071125R1.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|2007年ジャパンカップ3着(左、黄帽10番)]]
その後のメイショウサムソンは、ジャパンカップと有馬記念で1番人気に推されるも3着、8着<ref>{{Cite web |title=【有馬記念(GI)】(中山)〜伏兵マツリダゴッホ 積極策でGI初制覇 {{!}} 競馬実況web {{!}} ラジオNIKKEI |url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-143759.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-25}}</ref>ジャパンカップでは、内で抜け出したアドマイヤムーンに対して大外に展開して迫った<ref name="優駿-2008-1-70" />。タイムの差はなかったが、アタマとクビ差届かなかった<ref name="優駿-2008-1-70">『優駿』2008年1月号 70頁</ref>。この年のJRA賞では、289票中17票を集め、[[JRA賞|年度代表馬]]選考の第3位。37票を集め、[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|最優秀4歳以上牡馬]]選考の次点となり、常設された部門の受賞は逃した<ref>『優駿』2008年2月号 14-17頁</ref>。しかし。史上4頭目の天皇賞春秋連覇の実績が評価されて、牝馬として64年ぶりに東京優駿を優勝したウオッカとともに[[JRA賞特別賞|特別賞]]を受賞<ref>{{Cite web |title=JRA賞受賞馬のプロフィール〜選考の経緯|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-143859.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-21}}</ref>。2頭同時の特別賞授与は、1999年[[グラスワンダー]]とスペシャルウィーク以来8年ぶり2度目であった<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンとウオッカに特別賞|url=https://www.nikkansports.com/race/p-rc-tp0-20080109-304855.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-21}}</ref>。


=== 5歳(2008年) ===
宝塚記念後、前年に挫折した凱旋門賞の挑戦についてオーナーの松本ら関係者の間で協議の末、[[7月12日]]正式に凱旋門賞挑戦すると発表され、その後8月1日に遠征日程が発表された<ref name=":0">{{Cite web|title=メイショウサムソンの出国日程が決定 {{!}} 競馬ニュース|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=30022|website=netkeiba.com|accessdate=2020-06-14|language=ja}}</ref>。同時に帯同馬としてファンドリコンドルを引き連れることとシャンティー調教場の[[ミケル・デルザングル]] (Mikel Delzangles) 厩舎に滞在することも明らかになった<ref name=":0" />。フランス政府から「出国前14日間の隔離」を求められたため、8月5日から8月20日まで競馬非開催の[[福島競馬場]]国際厩舎で輸出検疫受け<ref name=":0" />、検疫後の8月20日に成田空港から出国し約12時間後[[シャルル・ド・ゴール空港]]へ到着した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=30357 メイショウサムソンがフランスに到着]netkeiba.com (2008.8.21). 2021年4月11日閲覧。</ref>。
1月、松本がメイショウサムソンのこの年限りでの引退を表明する<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソン、年内引退へ {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25966 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-21 |language=ja}}</ref>。有馬記念の敗戦直後には、ドバイ遠征計画が明かされたが、条件面での折り合いがつかずに断念<ref>{{Cite web |title=ドバイSC、メイショウサムソンなどが登録 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25603 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-21 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンがドバイ遠征断念 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=26311 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-21 |language=ja}}</ref>。春の目標を天皇賞(春)、秋の目標を前年叶わなかった凱旋門賞参戦に定めていた<ref name="優駿-2011-6-81">『優駿』2011年6月号 81頁</ref><ref name="日刊-大阪杯" />。[[京都記念]]を始動戦と考えていたが見送り、大阪杯で始動して6着<ref>{{Cite web |title=ドバイに7頭選出!!でも検疫問題が… - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2008/02/01/kiji/K20080201Z00001310.html |website=スポニチ Sponichi Annex |accessdate=2022-02-21 |language=ja}}</ref><ref name="日刊-大阪杯">{{Cite web |title=サムソン見せ場なく6着/大阪杯|url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20080407-345182.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-21}}</ref>。続く天皇賞(春)は、[[アドマイヤジュピタ]]と叩き合い、アタマ差敗れる2着<ref>『優駿』2008年7月号 90頁</ref>。それから宝塚記念は、[[エイシンデピュティ]]に逃げ切られ、再びアタマ差の2着<ref>『優駿』2008年8月号 100頁</ref>。


大阪杯敗退直後は、凱旋門賞参戦を一度白紙に戻していたが、{{GI}}で2着となったことで一転、遠征が決定した。前哨戦を用いず、凱旋門賞に直行し10着となる(詳細は、[[メイショウサムソン#凱旋門賞参戦]]を参照。)。帰国後、天皇賞(秋)は登録したのみ{{Efn|5日間の輸入検疫を受けるために一旦競馬学校へ入厩したが、天皇賞(秋)へ出走登録を行ったため10月14日に東京競馬場へ移動して3週間(11月4日まで)の着地検査を受けることになった。}}で回避。ジャパンカップでは石橋に乗り替わり(詳細は、[[メイショウサムソン#乗り替わり|メイショウサムソン#乗り替わり]])6着、引退レースの有馬記念は、武に戻り8着に敗退した<ref>{{Cite web |title=ラストランのサムソン8着/有馬記念|url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20081229-445101.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>。2009年1月4日、京都競馬場で引退式が行われ<ref name="netkeiba-引退">{{Cite web |title=メイショウサムソンの引退式が行われる {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33653 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-18 |language=ja}}</ref>、天皇賞(春)優勝時の6番ゼッケンに石橋、武が騎乗する姿が披露された<ref>{{Cite web |title=サムソン引退式にファン大声援|url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20090105-446887.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-22}}</ref>。1月7日付でJRAの競走馬登録を抹消される<ref name="抹消" />。
[[フランス]]到着後はシャンティー調教場に移動、フォワ賞を使わずに直行で凱旋門賞に向けての調整が行われ<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=30618 メイショウサムソンは凱旋門賞へ直行]netkeiba.com (2008.9.4). 2021年4月11日閲覧。</ref>、9月24日には日本から武豊が0泊3日の強行日程で駆けつけて1週前追い切りを行った<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=31056 メイショウサムソン、武豊騎乗で1週前追い切り]netkeiba.com (2008.9.4). 2021年4月11日閲覧。</ref>。


== 引退後 ==
そして迎えた10月5日の[[第87回凱旋門賞]]に出走し、レースはスタート直後に不利を受け、後方からレースを進めたものの最後の直線での他馬との接触もあり、[[ザルカヴァ]]に敗れて10着という結果に終わった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=31339 凱旋門賞、メイショウサムソン敗れる]netkeiba.com (2008.10.5). 2021年4月11日閲覧。</ref><ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=31340 武豊騎手「あっという間に離された」]netkeiba.com (2008.10.5). 2021年4月11日閲覧。</ref>。


=== 種牡馬時代 ===
凱旋門賞後は10月8日にファンドリコンドルと共に成田空港へ到着し<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=31386 メイショウサムソンらが帰国]netkeiba.com (2008.10.8). 2021年4月11日閲覧。</ref>、5日間の輸入検疫を受けるために一旦競馬学校へ入厩したが、天皇賞(秋)へ出走登録を行ったため10月14日に東京競馬場へ移動して3週間(11月4日まで)の着地検査を受けることになった。しかし10月29日に調整不足を理由として天皇賞(秋)を回避することが発表された<ref group="注">2006年に[[第85回凱旋門賞]]へ出走したディープインパクトも同様に帰国後天皇賞(秋)への出走登録を行ったが回避している。「滞在競馬場での着地検査中に限れば、滞在競馬場でのみ出走が許可される」という規定を利用したものである。</ref>。そして検疫終了後約3ヶ月ぶりに栗東トレーニングセンターへ帰厩した。帰厩後はジャパンカップに出走登録を行うことを表明したものの、当馬の主戦騎手である武豊が同じく主戦騎手を務めるウオッカも同競走に出走登録を行う意向だったため武がどちらに騎乗するか注目されたが11月14日に引き続き当馬に騎乗することが発表された<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=32339 ウオッカに岩田、サムソンは武豊]netkeiba.com (2008.11.15). 2021年4月11日閲覧。</ref>。しかし武はジャパンカップ1週間目前の11月23日に[[落馬]]負傷により右尺骨骨幹部を骨折し、ジャパンカップへの騎乗が不可能となった。その翌11月24日に鞍上は前年の宝塚記念以来となる石橋守が騎乗する事が発表された<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=32601 メイショウサムソン&石橋のコンビ復活]netkeiba.com (2008.11.24). 2021年4月11日閲覧。</ref>。そして11月30日の第28回ジャパンカップに出走。内ラチにピッタリ沿って直線を迎えるも全く伸びず[[スクリーンヒーロー]]の6着に敗れた<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/jc/result/jc2008.html 第28回 ジャパンカップ]JRA公式サイト. 2021年4月11日閲覧。</ref>。
引退後は、[[北海道]][[安平町]]の[[社台スタリオンステーション]]にて[[種牡馬]]となる<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンが社台SSに到着 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33748 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。社台での繋養は、松本が引退宣言とともに予告したものだった<ref name="優駿-2008-10-19">『優駿』2008年10月号 19頁</ref>。日高産馬、日高を応援する松本所有馬が社台での繋養となったのは、松本によれば「これだけの馬ですから、ほんとうは日高地区の種馬場に置きたいんです。でも日高で[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]を組もうとすると逆に生産者に経済的な負担をかけてしまう。それで、生産者の重荷にならないように<ref name="優駿-2008-10-19" />」していたという{{Efn|また松本は、メイショウサムソンがサンデーサイレンスの血が入っていないことから「たくさんいい牝馬に付けてほしい<ref name="優駿-2008-10-19" />」とも考えていた。}}<ref name="優駿-2008-10-19" />。供用初年度となる2009年から2012年までは、三桁の種付け数を誇った<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。32頭に留まった2013年を以て社台を退き、2014年からは生まれ故郷の浦河町イーストスタッドで供用された<ref name="furusato">{{Cite web |url=http://uma-furusato.com/news/detail/_id_74791 |title=メイショウサムソンがイーストスタッドに移動 |work=競走馬のふるさと案内所 |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会 |date=2013-12-03 |accessdate=2015-07-12}}</ref>。以降、再び三桁の種付け数には届くことはなかったが、2016年には浦河でピークとなる種付け数85頭を記録している<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。それ以降は、右肩下がりで減少した<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。種付け数が11頭に留まった2021年を最後に種牡馬を引退し、10月28日付で用途変更となる<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。


2012年に初年度産駒がデビュー。7月31日の[[門別競馬場]]、[[JRA2歳認定競走|JRA認定]]アタックチャレンジ2歳未勝利にてブエラ(牝、母父:[[エルコンドルパサー]])が勝利し、産駒初勝利を記録。翌2013年1月6日、イルミナティ(牝、母父:[[フジキセキ]])が産駒中央初勝利を記録した<ref>{{Cite web |title=サムソン産駒が待望JRA初勝利/新馬戦 |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20130107-1068874.html |website=nikkansports.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=メイショウサムソン産駒が初V、イルミナティが完勝/中山新馬 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=71495 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>。初年度産駒のうち、サムソンズプライド(牡、母父:エルコンドルパサー)は、2013年[[プリンシパルステークス]](OP)を勝利し、メイショウサムソンを上回るデビュー12戦目で東京優駿出走を果たした{{Efn|[[ブービー賞]]17着。}}<ref>{{Cite web |title=【16=最終回】次は調教師としてダービー制覇をメイショウサムソン産駒、武豊で… |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5689 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|サムソンズプライド|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001122817/record/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>。4年目、2013年産の[[デンコウアンジュ]](牝、母父:[[マリエンバード]])が、2015年の[[アルテミスステークス]]({{GIII}})を勝利し、産駒中央重賞初勝利を記録<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンを訪ねて~イーストスタッド {{!}} 馬産地コラム {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/column/78833.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-22}}</ref><ref>{{Cite web |title=2015年10月31日 アルテミスS G3 {{!}} 重賞ウイナーレポート {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/winner_info/83157.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-22}}</ref>。その後のデンコウアンジュは、2019年[[福島牝馬ステークス]]({{GIII}})、2020年の[[愛知杯]]({{GIII}})を勝利したほか、2017年の[[ヴィクトリアマイル]]({{GI}})にて、[[アドマイヤリード]]に次ぐ2着となった<ref>{{Cite web |title=デンコウアンジュ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001173912/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>。その他の中央重賞優勝馬に、2年目産駒の[[ルミナスウォリアー]]、4年目産駒の[[キンショーユキヒメ]]や[[フロンテアクイーン]]、アスターサムソンがいる<ref>{{Cite web |title=種牡馬情報:種牡馬成績 |メイショウサムソン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760084/sire/mainall/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>。
12月28日、最後のレースとなった有馬記念では再び武豊が手綱を取り、果敢な先行策で第4コーナーでダイワスカーレットに詰め寄ったが、直線では手ごたえがなくなり8着と敗れた<ref>[https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20081229-445101.html ラストランのサムソン8着/有馬記念]日刊スポーツ (2008.12.29). 2021年4月11日閲覧。</ref>。


=== 功労馬時代 ===
年が明けた[[2009年]][[1月4日]]に京都競馬場で引退式が行われ<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33653 メイショウサムソンの引退式が行われる]netkeiba.com (2009.1.4). 2021年4月11日閲覧。</ref>、[[1月7日]]にJRA競走馬登録を抹消した<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33688 メイショウサムソンが競走馬登録抹消]netkeiba.com (2009.1.5). 2021年4月11日閲覧。</ref>。
イーストスタッドを退いてからは認定NPO法人[[引退馬協会]]に譲渡され、日高町のひだか・ホース・フレンズで功労馬に転じる<ref name="ふるさと-種牡馬引退">{{Cite web |title=メイショウサムソンが種牡馬引退 {{!}} 馬産地ニュース {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/news/entry-58919.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-22}}</ref>。引退馬協会が行う「[[ナイスネイチャ]]・33歳のバースデードネーション」の10頭目の対象馬となった<ref name="ふるさと-種牡馬引退" />。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容、[[netkeiba.com]]の情報に基づく<ref>{{Cite web|title=メイショウサムソンの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/2003102205/|website=netkeiba.com|accessdate=2020-09-21|language=ja}}</ref>。
以下の内容、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=メイショウサムソンの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/2003102205/|website=netkeiba.com|accessdate=2020-09-21|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|メイショウサムソン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760084/record/?sort=ymd&page=1&order=A |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-16}}</ref>の情報に基づく
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
! colspan="3" |競走日
! colspan="3" |競走日
114行目: 143行目:
![[負担重量|斤量]]<br/>[kg]
![[負担重量|斤量]]<br/>[kg]
!1着馬(2着馬)
!1着馬(2着馬)
!馬体重<br/>[kg]
|-
|-
|[[2005年|2005]].
|[[2005年|2005]].
132行目: 162行目:
|54
|54
|グロリアスウィーク
|グロリアスウィーク
|498
|-
|-
|
|
150行目: 181行目:
|54
|54
|エイシンチャンドラ
|エイシンチャンドラ
|492
|-
|-
|
|
168行目: 200行目:
|54
|54
|(キングエンペラー)
|(キングエンペラー)
|496
|-
|-
|
|
186行目: 219行目:
|54
|54
|(タガノマーシャル)
|(タガノマーシャル)
|490
|-
|-
|
|
204行目: 238行目:
|56
|56
|[[フサイチリシャール]]
|[[フサイチリシャール]]
|496
|-
|-
|
|
222行目: 257行目:
|55
|55
|フサイチリシャール
|フサイチリシャール
|500
|-
|-
|
|
240行目: 276行目:
|57
|57
|(トップオブツヨシ)
|(トップオブツヨシ)
|504
|-
|-
|[[2006年|2006]].
|[[2006年|2006]].
258行目: 295行目:
|57
|57
|[[ドリームパスポート]]
|[[ドリームパスポート]]
|508
|-
|-
|
|
276行目: 314行目:
|56
|56
|(フサイチリシャール)
|(フサイチリシャール)
|508
|-
|-
|
|
294行目: 333行目:
|57
|57
|(ドリームパスポート)
|(ドリームパスポート)
|504
|-
|-
|
|
312行目: 352行目:
|57
|57
|([[アドマイヤメイン]])
|([[アドマイヤメイン]])
|502
|-
|-
|
|
330行目: 371行目:
|56
|56
|ドリームパスポート
|ドリームパスポート
|512
|-
|-
|
|
348行目: 390行目:
|57
|57
|[[ソングオブウインド]]
|[[ソングオブウインド]]
|518
|-
|-
|
|
353行目: 396行目:
|[[11月26日|26]]
|[[11月26日|26]]
|東京
|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|[[ジャパンカップ]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2400m(良)
|芝2400m(良)
366行目: 409行目:
|55
|55
|[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]
|[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]
|514
|-
|-
|
|
384行目: 428行目:
|55
|55
|ディープインパクト
|ディープインパクト
|518
|-
|-
|[[2007年|2007]].
|[[2007年|2007]].
389行目: 434行目:
|{{0}}[[4月1日|1]]
|{{0}}[[4月1日|1]]
|阪神
|阪神
|[[大阪杯|産経大阪杯]]
|[[大阪杯]]
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝2000m(良)
|芝2000m(良)
402行目: 447行目:
|59
|59
|([[シャドウゲイト (競走馬)|シャドウゲイト]])
|([[シャドウゲイト (競走馬)|シャドウゲイト]])
|518
|-
|-
|
|
420行目: 466行目:
|58
|58
|(エリモエクスパイア)
|(エリモエクスパイア)
|516
|-
|-
|
|
438行目: 485行目:
|58
|58
|[[アドマイヤムーン]]
|[[アドマイヤムーン]]
|518
|-
|-
|
|
456行目: 504行目:
|58
|58
|(アグネスアーク)
|(アグネスアーク)
|518
|-
|-
|
|
474行目: 523行目:
|57
|57
|アドマイヤムーン
|アドマイヤムーン
|518
|-
|-
|
|
492行目: 542行目:
|57
|57
|[[マツリダゴッホ]]
|[[マツリダゴッホ]]
|520
|-
|-
|[[2008年|2008]].
|[[2008年|2008]].
497行目: 548行目:
|{{0}}[[4月6日|6]]
|{{0}}[[4月6日|6]]
|阪神
|阪神
|産経大阪杯
|大阪杯
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝2000m(良)
|芝2000m(良)
510行目: 561行目:
|59
|59
|[[ダイワスカーレット]]
|[[ダイワスカーレット]]
|518
|-
|-
|
|
528行目: 580行目:
|58
|58
|[[アドマイヤジュピタ]]
|[[アドマイヤジュピタ]]
|514
|-
|-
|
|
546行目: 599行目:
|58
|58
|[[エイシンデピュティ]]
|[[エイシンデピュティ]]
|510
|-
|-
|
|
564行目: 618行目:
|59.5
|59.5
|[[ザルカヴァ|Zarkava]]
|[[ザルカヴァ|Zarkava]]
| -
|-
|-
|
|
569行目: 624行目:
|[[11月30日|30]]
|[[11月30日|30]]
|東京
|東京
|ジャパンC
|ジャパンカップ
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2400m(良)
|芝2400m(良)
582行目: 637行目:
|57
|57
|[[スクリーンヒーロー]]
|[[スクリーンヒーロー]]
|516
|-
|-
|
|
600行目: 656行目:
|57
|57
|ダイワスカーレット
|ダイワスカーレット
|520
|}
|}
* タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
* タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。


== 対戦成績 ==
== 種牡馬成績 ==
以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく<ref name="JBIS-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|メイショウサムソン |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760084/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-16}}</ref>。
*アドマイヤムーンとは5戦して、3勝2敗。その5戦の何れもメイショウサムソンとアドマイヤムーンのいずれかが1着となっている。
{| class="wikitable"
**メイショウサムソン(皐月賞、東京優駿、天皇賞秋)、アドマイヤムーン(宝塚記念、ジャパンカップ)
!種付年度
*ドリームパスポートとは14戦して、6勝8敗で負け越しているものの、レースの勝ち星という点ではメイショウサムソンが3勝と上回っている。逆にドリームパスポートはメイショウサムソンに先着し、かつ勝利したレースはきさらぎ賞と神戸新聞杯の2勝。
!種付頭数

!生産頭数
== 種牡馬時代 ==
!血統登録頭数
[[2009年]]より[[北海道]][[安平町]]の[[社台スタリオンステーション]]にて[[種牡馬]]入りした<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33748 メイショウサムソンが社台SSに到着]netkeiba.com (2009.1.9). 2021年4月11日閲覧。</ref>。初年度の種付料は250万円。サンデーサイレンスの血を持たないため、サンデーサイレンスを父に持つ牝馬に好まれている。
!出走頭数

!勝馬頭数
[[2012年]]に初年度産駒がデビュー。[[7月31日]]門別競馬第7競走[[JRA2歳認定競走|JRA認定]]アタックチャレンジ2歳未勝利でブエラが中央・地方通じての産駒初勝利をあげた。この年は新種牡馬ランキング6位になったものの、中央では30頭が73戦して未勝利に終わった。中央での産駒の初勝利は翌2013年1月6日のことだった<ref>[http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=71495 メイショウサムソン産駒が初V、イルミナティが完勝/中山新馬]</ref>。
!重賞勝馬頭数

![[アーニングインデックス|AEI]]
[[2013年]][[11月30日]]に[[イーストスタッド]]へ移動。[[2014年]]からは同地で種牡馬生活を送る<ref name="furusato">{{Cite web|url=http://uma-furusato.com/news/detail/_id_74791|title=メイショウサムソンがイーストスタッドに移動|work=競走馬のふるさと案内所|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|date=2013-12-03|accessdate=2015-07-12}}</ref>。
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
2019年度の種付料は受胎条件50万円、出生条件70万円となっている。
|-
!2009
|101
|71
|69
|60
|34
|1
|0.94
|
|-
!2010
|111
|84
|82
|73
|47
|2
|0.89
|
|-
!2011
|122
|99
|98
|89
|62
|1
|0.89
|
|-
!2012
|105
|72
|71
|59
|46
|3
|1.30
|
|-
!2013
|32
|27
|27
|26
|14
|0
|0.92
|
|-
!2014
|43
|35
|34
|31
|21
|0
|0.47
|
|-
!2015
|59
|51
|51
|44
|25
|1
|0.66
|
|-
!2016
|85
|58
|57
|50
|30
|0
|0.48
|
|-
!2017
|55
|40
|38
|33
|19
|0
|0.77
|
|-
!2018
|47
|30
|30
|19
|4
|-
|0.45
|
|-
!2019
|31
|23
|23
|0
|-
|-
|-
|
|-
!2020
|25
|13
|12
|0
|-
|-
|-
|
|-
!2021
|11
|0
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
! colspan="3" |合計
|592
|484
|302
|8
|0.92
|1.14
|}


* 情報は、2021年2月15日時点。
2021年10月28日に種牡馬引退を発表。種牡馬引退後は[[功労馬]]としてひだか・ホース・フレンズで繋養される。
* 出走頭数、勝馬頭数、重賞勝馬頭数、[[アーニングインデックス]]、[[コンパラブルインデックス]]は、[[平地競走]]に限る。


2022年から[[功労馬繋養展示事業|引退名馬繋養展示事業]]の対象馬となっている。
=== 主な産駒 ===
=== 主な産駒 ===
*2010年産
*2010年産
**サムソンズプライド([[プリンシパルステークス]])
**サムソンズプライド(牡、母父:[[エルコンドルパサー]](2013年[[プリンシパルステークス]])<ref>{{Cite web |title=サムソンズプライド|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001122817/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**キリノトップラン([[ロータスクラウン賞]])
**キリノトップラン(牡、母父:{{仮リンク|アリディード|en|Alydeed|label=Alydeed}}(2013年*[[ロータスクラウン賞]])<ref>{{Cite web |title=キリノトップラン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001121731/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
*2011年産
*2011年産
**ノゾミダイヤ([[オータムカップ (笠松競馬)|オータムカップ]]、[[岐阜金賞]]、[[東海ゴールドカップ]]、[[白銀争覇]])
**ノゾミダイヤ(牡、母父:[[バブルガムフェロー]](2014年[[オータムカップ (笠松競馬)|オータムカップ]]、[[岐阜金賞]]、[[東海ゴールドカップ]]、2015年[[白銀争覇]])<ref>{{Cite web |title=ノゾミダイヤ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001140552/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**[[ルミナスウォリアー]]([[函館記念]])<ref>[http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=124101 ルミナスウォリアーが抜け出し重賞初制覇/函館記念]netkeiba.com、2017年7月16日閲覧</ref>
**[[ルミナスウォリアー]](牡、母父:[[アグネスタキオン]](2017年[[函館記念]])<ref>{{Cite web |title=ルミナスウォリアー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001141552/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
*2012年産
*2012年産
**ランデックアロマ([[ハヤテスプリント]])
**ランデックアロマ(牝、母父:[[フレンチデピュティ]](2015年[[ハヤテスプリント]])<ref>{{Cite web |title=ランデックアロマ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001155540/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**レッドソロモン(牡、母父:[[サンデーサイレンス]](2015年[[若葉ステークス]]、2015年アンドロメダステークス)<ref>{{Cite web |title=レッドソロモン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001150144/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**レッドソロモン([[若葉ステークス]])
*2013年産
*2013年産
**[[デンコウアンジュ]]([[アルテミスステークス]]、[[福島牝馬ステークス]]、[[愛知杯]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001173912/|title=デンコウアンジュ|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-05-12}}</ref>
**[[デンコウアンジュ]](牝、母父:[[マリエンバード]](2015年[[アルテミスステークス]]、2019年[[福島牝馬ステークス]]、2020年[[愛知杯]])<ref>{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001173912/|title=デンコウアンジュ|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-05-12}}</ref>
**[[キンショーユキヒメ]](福島牝馬ステークス)<ref name=jbis>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000760084/sire/mainall/|title=種牡馬情報:種牡馬成績 |メイショウサムソン|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-05-12}}</ref>
**[[キンショーユキヒメ]](牝、母父:サンデーサイレンス(2018年福島牝馬ステークス)<ref>{{Cite web |title=キンショーユキヒメ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001170198/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**アスターサムソン([[京都ハイジャンプ]])<ref name=jbis/>
**アスターサムソン(牡→[[騸馬|騸]]、母父:サンデーサイレンス(2018年[[京都ハイジャンプ]])<ref>{{Cite web |title=アスターサムソン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001169996/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
**[[フロンテアクイーン]]([[中山牝馬ステークス]])<ref name=jbis/>
**[[フロンテアクイーン]](牝、母父:サンデーサイレンス(2019年[[中山牝馬ステークス]])<ref>{{Cite web |title=フロンテアクイーン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001167376/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
*2016年産
*2016年産
**オオエフォーチュン([[ゴールドジュニア]])<ref name=jbis/>
**オオエフォーチュン(牡、母父:[[キングカメハメハ]](2019年*[[ゴールドジュニア]])<ref>{{Cite web |title=オオエフォーチュン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001219962/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-20}}</ref>
<gallery>
ファイル:Luminous Warrior Kinko Sho 2017.jpg|[[ルミナスウォリアー]]
ファイル:Denko-Ange IMG 1235r2 20151213.JPG|[[デンコウアンジュ]]
ファイル:Kinsho Yukihime Singapore Turf Club Syo.jpg|[[キンショーユキヒメ]]
ファイル:Frontier Queen Queen Elizabeth II Cup 2018.jpg|[[フロンテアクイーン]]
</gallery>


== 血統表 ==
== 評価 ==

=== ファン投票による評価 ===
{| class="wikitable"
!年
!競走名
!票
!順位
!出否
!出典
|-
| rowspan="2" |2006年
|[[宝塚記念]]
|{{0}}2万4698票
|{{0}}9着
|回避
|<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票最終発表、1位はディープインパクト {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=14080 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>
|-
|[[有馬記念]]
|{{0}}8万{{0}}943票
|{{Color|darkgreen|{{0}}3位}}
|{{Color|black|{{0}}5着}}
|<ref>{{Cite web |title=【有馬記念】ファン投票最終結果〜1位ディープ、2位は‥‥|url=http://www.radionikkei.jp/keiba/entry-138890.html |website=www.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>
|-
| rowspan="2" |2007年
|宝塚記念
|{{0}}7万6932票
|{{Color|darkred|{{0}}1位}}
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票最終結果、メイショウサムソンが1位 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=20921 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>
|-
|有馬記念
|10万2560票
|{{Color|darkblue|{{0}}2位}}
|{{Color|black|{{0}}8着}}
|<ref>{{Cite web |title=有馬記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=24937 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>
|-
| rowspan="2" |2008年
|宝塚記念
|{{0}}6万6597票
|{{Color|darkblue|{{0}}2位}}
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|<ref>{{Cite web |title=宝塚記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=29035 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>
|-
|有馬記念
|11万3124票
|{{Color|darkgreen|{{0}}3位}}
|{{Color|black|{{0}}8着}}
|<ref>{{Cite web |title=有馬記念ファン投票、最終結果発表 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=33056 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>
|}

== 非主流の立場からのクラシック戴冠 ==
メイショウサムソンに関わる人々は、総じて3歳{{GI}}、[[クラシック (競馬)|クラシック]]で毎年のように主役を張るような立場にいなかった。調教師の瀬戸口は、定年に向けて管理馬を削減しており<ref>『名馬を読む2』292頁</ref>、騎手の石橋は{{GI}}未勝利<ref name="名馬2-293" />、担当厩務員の加藤繁雄は担当馬の重賞未勝利<ref name="日刊-皐月賞アラカルト" />。さらに日高地方並びに浦河町の牧場は、サンデーサイレンスとその産駒で社台グループの大躍進を許しており、その格差は河村清明によれば「もはや挽回が利かないほど<ref name="優駿-2011-6-75" />」だった。また、日高地方静内に繋養されていたメイショウサムソンの父オペラハウスも種付け数を大きく減少させている現状があった<ref name="JBIS-オペラハウス-種牡馬成績" />。

高額な良血馬と良血馬を掛け合わせて、最新施設でトレーニングを積む大手牧場生産馬が毎年のようにクラシックで良績を挙げている状況にあって、日高を応援する松本は、[[メイショウドトウ]]で[[宝塚記念]]({{GI}})を勝利した過去を持ちながらも、自身の持ち馬でのクラシック勝利は「特に難しい<ref name="優駿-2006-6-12" />」と考えていた。そんな状況でのメイショウサムソンの活躍は、[[柏木集保]]によれば「中小の生産牧場や、多くのオーナー、また多くのジョッキーにも、勇気を呼び覚まさせる希望の逆転快走だった<ref>『優駿』2006年7月号 16頁</ref>」と表している。

後に凱旋門賞へ挑むことになるが(後述)、松本は動機の一つとして「日高の馬のためにも世界の頂点に行ってみたいという思いもある<ref name="優駿-2007-10-45">『優駿』2007年10月号 45頁</ref>」と述べている。日高の生産馬として凱旋門賞に参戦するのは、1969年に着外の[[スピードシンボリ]]、1986年に14着の[[シリウスシンボリ]]に続く3頭目<ref name="優駿-2008-10-18">『優駿』2008年10月号 18頁</ref>。2頭は共に[[シンボリ牧場]]生産、所有であり、大規模経営を行う[[オーナーブリーダー]]による挑戦だった<ref name="優駿-2008-10-18" />。対してメイショウサムソンは、中小牧場の生産馬、個人馬主の所有。江面弘也によれば「日高の中小牧場で生まれた馬が凱旋門賞に出走するのは初めてといってもよく、日本の生産界にとっても意義のあることだ<ref name="優駿-2008-10-18" />」という。凱旋門賞の応援にあたって松本は、林とその妻、縁の深い日高の生産者10人の旅費を負担{{Efn|松本は出国前、「だいたい50人ぐらいで行こうかなと。牧場関係に社員、わたしの友人関係、瀬戸口さん、北橋さんなどわたしの馬に携わってくれていた人、それと会社のお客さんとか…<ref name="優駿-2008-10-18" />」と述べている。}}<ref name="優駿-2008-11-33">『優駿』2008年11月号 33頁</ref>。その額は「重賞の1着賞金にもなるとかならないとか<ref name="優駿-2008-11-33" />」(田中哲実)だったという。

=== 日高、浦河産馬 ===

==== 林孝輝牧場 ====
北海道浦河町の林牧場は、1956年に林喜久治が開いた家族経営の牧場である<ref name="ふるさと-2019中山牝馬S">{{Cite web |title=2019年03月09日 中山牝馬S G3 {{!}} 重賞ウイナーレポート {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/winner_info/97355.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-16}}</ref>。喜久治の子である孝輝が継承して林孝輝牧場を名乗り、メイショウサムソンが活躍する頃は、9頭から10頭の繁殖牝馬を繋養していた<ref name="ふるさと-スプリングS">{{Cite web |title=2006年03月19日 スプリングS G2 {{!}} 重賞ウイナーレポート {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/winner_info/36561.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-16}}</ref>。メイショウサムソンが出現する前までは、喜久治の代だった1984年産シーキャリアー(父:サドンソー)の、1991年[[七夕賞]]({{GIII}})勝利が最初で最後の中央競馬重賞タイトルであった<ref name="優駿-1991七夕賞" />。七夕賞優勝当時の喜久治は「おそらく私の一生涯で重賞はこれ1回きりでしょう<ref name="優駿-1991七夕賞">『優駿』1991年9月号 146頁</ref>。」と述べていた。またスプリングステークスを優勝した際の喜久治は、生産馬をクラシックに出走させることが「夢<ref name="ふるさと-スプリングS" />」だったと述べている。

メイショウサムソンが生産される2003年は、牧場にとっては仔3頭、繁殖牝馬1頭を失った年でもあった<ref>{{Cite web |title=2006年04月16日 皐月賞 GI {{!}} 重賞ウイナーレポート {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/winner_info/36690.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-16}}</ref>。そんな中、孝輝の妻の叔父から「ダンシングブレーヴの[[肌馬]]をやってみないか」と購入の誘いを持ち掛けられていた<ref name="優駿-2006-6-20">『優駿』2006年6月号 20頁</ref>。孝輝はそれを了承。叔父は、ダンシングブレーヴの繁殖牝馬を2頭所有していたが、孝輝にどちらかを選択する権利はなかった<ref name="優駿-2006-6-20" />。叔父は自ら、お腹の中にメイショウサムソンが宿るマイヴィヴィアンを選択して手放し、孝輝に売却している<ref name="優駿-2006-6-20" />。そして産まれたメイショウサムソンは、交配した叔父の牧場ではなく、林孝輝牧場に東京優駿(日本ダービー)や天皇賞のタイトルをもたらすこととなった。スプリングステークスが牧場にとって15年ぶり、孝輝にとって初めてとなる中央競馬重賞勝利。皐月賞が初{{GI}}およびクラシック初勝利である<ref name="日刊-皐月賞アラカルト" />。浦河産馬としては、皐月賞優勝は1999年[[テイエムオペラオー]]以来<ref name="日刊-皐月賞アラカルト" />。東京優駿優勝は1997年[[サニーブライアン]]以来であった<ref>{{Cite web |title=浦河産馬、9年ぶりのダービー制覇 - 田中哲実 {{!}} 競馬コラム |url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=5317 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-22 |language=ja}}</ref>。

2013年に林孝輝牧場で生産した父メイショウサムソンの仔、[[フロンテアクイーン]](父:[[サンデーサイレンス]])は、重賞2着6回の他に2019年の[[中山牝馬ステークス]]({{GIII}})を勝利<ref>{{Cite web |title=シーキャリアー |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000170158/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-16}}</ref>。中山牝馬ステークスが、牧場にとってメイショウサムソンの天皇賞(秋)以来の重賞勝利であった<ref name="ふるさと-2019中山牝馬S" />。

==== オペラハウス産駒 ====
2002年は、日本で大繁栄した種牡馬サンデーサイレンスが種付けシーズン途中で体調不良となり、種付けを中止。また体調不良から回復せず、間もなく死亡したことから、2003年産は、サンデーサイレンス産駒の実数が前年に比べて半減。並びに、サンデーサイレンス産駒にとって最後のクラシックとなっていた<ref name="優駿-2006-7-19" />。東京優駿に駒を進めたサンデーサイレンス産駒は18頭中4頭に留まったが<ref>{{Cite web |title=10R 日本ダービー|2006年5月28日(日)3回東京4日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20060528/105/10/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>、サンデーサイレンスの孫、[[スペシャルウィーク]]や[[フジキセキ]]、[[アグネスタキオン]]産駒が4頭出走。父、母父など血統表の中のどこかにサンデーサイレンスの名前がある産駒は18頭中12頭存在した<ref name="優駿-2006-7-19">『優駿』2006年7月号 19頁</ref>。そんな中、父[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]、母父[[ダンシングブレーヴ]]のメイショウサムソンは、サンデーサイレンス産駒やサンデーサイレンスの孫を押しのけて東京優駿を優勝。掲示板内はメイショウサムソン以外、サンデーサイレンス産駒とサンデーサイレンスの孫が占めていた<ref name="優駿-2006-7-19" />。

そのようなメイショウサムソンのクラシックでの活躍は、馬産地の行動に影響を与えた。日高の[[日本軽種馬協会静内種馬場]]に繋養されていたメイショウサムソンの父、オペラハウスの種付け数がV字回復していた<ref name="JBIS-オペラハウス-種牡馬成績" />。1999年は産駒テイエムオペラオーの活躍もあり、種付け数は99頭。それからメイショウサムソンが宿ることになる2003年まで種付け数は約90頭を保ち続けていたが、2004年、2005年と種付け数は27頭、28頭と大きく減少させていた<ref name="JBIS-オペラハウス-種牡馬成績" />。ところが2006年、メイショウサムソンの活躍に共鳴した生産者が、オペラハウスを選択<ref>{{Cite web |title=2006年05月28日 日本ダービー GI {{!}} 重賞ウイナーレポート {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/winner_info/36807.html |website=uma-furusato.com |accessdate=2022-02-18}}</ref>。オペラハウスの種付け数は、前年比5倍増となる157頭まで増加していた<ref name="JBIS-オペラハウス-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|オペラハウス(GB)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000339572/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。その157頭から101頭の産駒、2007年産が誕生。その中から、[[マジェスティバイオ]](日高地方[[平取町]]生産、母父:[[ヘクタープロテクター]])が2011年と2012年の[[JRA賞最優秀障害馬]]を受賞する活躍を見せた<ref>{{Cite web |title=マジェスティバイオ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001044498/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。

=== 7月小倉デビュー ===
[[ファイル:Kokura Racecourse Main Stand 20080817.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|[[小倉競馬場]]]]
2歳7月の小倉デビューから10戦に出走し、東京優駿のタイトルに到達。この当時あまり見られなかった成り上がりは「異色のダービー馬<ref name="優駿-2006-7-17">『優駿』2006年7月号 17頁</ref>」(石田敏徳)と言い表された。2歳時はクラシック出走の予感がなく7戦に出走。重賞出走は1回のみ、オープン競走を2勝する裏街道を進んでいた<ref name="優駿-2006-7-17" />。3歳になってから重賞戦線に乗り、トライアル競走を用いるなど軌道に乗り、クラシック二冠を果たした<ref name="優駿-2006-7-17" />。騎乗した石橋も、2歳11月の東京スポーツ杯2歳ステークス2着の時点では、賞金の面で「久しぶりにクラシックに乗れるな<ref name="東スポ-石橋連載7" />」と思ったのみ、クラシックを意識し始めたのは、3歳3月皐月賞トライアルのスプリングステークスで優勝してからであった<ref name="東スポ-石橋連載7" />。

小倉デビューの皐月賞優勝は、1954年[[ダイナナホウシュウ]]、1990年[[ハクタイセイ]]に続いて史上3頭目<ref name="日刊-皐月賞アラカルト" />。'''小倉デビューの東京優駿優勝は、史上初めて'''であった<ref name="優駿-2006-7-17" /><ref>{{Cite web |url=http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015070274791.html |title=小倉デビューのダービー馬第1号になったメイショウサムソン |accessdate=2022-2-23 |publisher=[[朝日新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170521012946/http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015070274791.html |archivedate=2017-5-21 |author=有吉正徳}}</ref>。また7月デビューの東京優駿優勝は、1989年[[ウィナーズサークル]]以来17年ぶり、デビュー以来二桁の出走数を持つ東京優駿優勝は、1994年[[ナリタブライアン]]以来12年ぶりだった<ref name="優駿-2006-7-17" />。

=== 石橋守 ===
メイショウサムソンがデビューした2005年、瀬戸口厩舎の主戦騎手でメイショウサムソンの主戦騎手となる予定だった福永祐一は、[[フェブラリーステークス]]、[[桜花賞]]、[[NHKマイルカップ]]、[[優駿牝馬]]、[[朝日杯フューチュリティステークス]]のJRA{{GI}}5勝、JRA年間109勝を挙げ、リーディング4位<ref name="2006年JRAリーディング" />。対して福永の代役、石橋守の2005年は、JRAで18勝のリーディング49位<ref name="2006年JRAリーディング">『優駿』2006年2月号 164頁</ref>。福永よりも10歳年上にもかかわらず、JRA{{GI}}を勝利したことがない「地味なベテラン騎手<ref name="名馬2-293">『名馬を読む2』293頁</ref>」(江面弘也)だった。
[[ファイル:Mamoru Ishibashi kyoto IMG 1131 20130210.JPG|サムネイル|218x218px|「メイショウ」と石橋(2013年)]]そんな石橋が福永の代役として選ばれたのは、夏の本拠を小倉にして瀬戸口厩舎の調教を手伝っていたほかに、瀬戸口と石橋の父がいずれも上田武司厩舎に所属していた縁にあった<ref>『優駿』2006年8月号 143頁</ref>。石橋守の小さい頃を知っている瀬戸口は、守が大人になり騎手となったにもかかわらず「あの子」と呼ぶ癖が抜けなかったほどの関係であった<ref name="優駿-2006-6-10" />。加えて、1996年に石橋を[[ゴッドスピード (競走馬)|ゴッドスピード]]の主戦騎手に据えたことがあり、[[小倉3歳ステークス]]({{GIII}})、[[府中3歳ステークス]]({{GIII}})を勝利し、1997年クラシックを共に戦った過去もあった<ref name="優駿-2006-6-10" />。
[[ファイル:Maruka Shenck 20080810P1.jpg|サムネイル|[[マルカシェンク]]]]
新馬戦だけの代役のはずが、その後も主戦騎手としてコンビを継続しているのは、同じ厩舎にメイショウサムソンを上回る評価の同期[[マルカシェンク]]がいたためである<ref name="東スポ-石橋連載7">{{Cite web |title=【7】メイショウサムソンに初めてまたがった時は〝運命的な出会い〟とは思わなかった |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5200 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-17 |language=ja}}</ref>。2歳時のマルカシェンクは厩舎主戦の福永とともに、新馬、[[デイリー杯2歳ステークス]]、[[京都2歳ステークス]]と3連勝で注目を集める一方、7戦3勝重賞未勝利のメイショウサムソンの評価はいまひとつだった<ref name="東スポ-石橋連載7" />。デビューした小倉から栗東に戻っても石橋は、メイショウサムソンから離れずにつきっきりで調教を担当<ref name="優駿-2006-6-10">『優駿』2006年6月号 10頁</ref><ref name="日刊-皐月賞">{{Cite web |title=メイショウサムソン2冠「感無量」石橋守/G1復刻|極ウマ・プレミアム |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=1824411&year=2017&month=05&day=26 |website=p.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。火曜日から金曜日まで騎乗し、悪癖矯正に取り組んでいた<ref>『優駿』2006年10月号 45頁</ref><ref name="優駿-2011-6-76">『優駿』2011年6月号 76頁</ref><ref name="日刊-皐月賞" />。

そして臨んだ皐月賞を優勝。石橋にとっては、騎手デビューから21年1か月、42度目の挑戦で初めてJRA{{GI}}タイトルを獲得<ref name="日刊-皐月賞アラカルト" />。グレード制導入後では、[[ニシノフラワー]]で1991年[[阪神3歳牝馬ステークス]]を勝利した佐藤正雄の22年8か月、[[パッシングショット]]で1990年[[マイルチャンピオンシップ]]を勝利した[[楠孝志]]の21年8か月に次いで、史上3番目に遅い、{{GI}}初勝利であった<ref name="日刊-皐月賞アラカルト">{{Cite web |url=http://www5.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/samson/news/20080822_66197.html |title=石橋守22年目初GI「騎手になって良かった」/皐月賞 |accessdate=2022‐2‐18 |publisher=[[日刊スポーツ]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210415204450/http://www5.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/samson/news/20080822_66197.html |archivedate=2021-4-15}}</ref>。皐月賞の夜の石橋は、武主催の祝勝会に参加して朝5時まで盛り上がり、翌日には[[東京駅]]でスポーツ新聞を全紙購入したという<ref>『優駿』2006年6月号 16頁</ref>。オーナーとして騎手起用について指示をしない方針の松本は、皐月賞優勝後の時点で「石橋君を替えようと思ったことですか。全く無いですね。(中略)石橋君も馬のクセを知る努力をしてくれた。いちばん嬉しいのは、私なんかよりも石橋君かもしれんなあ、と思います<ref name="優駿-2006-6-14" />」と述べている。

== 凱旋門賞参戦 ==
松本は凱旋門賞を「数あるビッグレースのうちで『自分のなかでは一番』<ref name="優駿-2008-10-16" />」と捉えており、そこに所有馬を出走させることは「馬主としての夢<ref name="優駿-2008-10-9" />」「生涯の夢<ref name="日刊-凱旋門賞" />」であるとしていた。メイショウサムソンでその凱旋門賞を意識したのは、東京優駿優勝を記念した集まりの際、社台の[[吉田照哉]]、[[吉田勝己]]兄弟から「この馬は欧州血統{{Efn|父[[オペラハウス]]は、1993年[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]などイギリス{{G1}}を3勝<ref>{{Cite web |title=オペラハウス(GB)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000339572/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>。母父[[ダンシングブレーヴ]]は、1986年[[凱旋門賞]]などフランスとイギリスの{{G1}}を4勝<ref>{{Cite web |title=ダンシングブレーヴ(USA)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000336853/ |website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-22}}</ref>。}}だから是非とも凱旋門賞に挑戦させるべきだ<ref name="Number-名馬堂々-78">『Number PLUS 名馬堂々。』78頁</ref>」と勧められたことがきっかけだったという<ref name="Number-名馬堂々-78" />。メイショウサムソンが東京優駿を優勝したその年の秋には、クラシック三冠を果たすなど11戦10勝2着1回の身で臨んだ[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が3位入線していた{{Efn|後に禁止薬物が検出されて失格。}}。松本は、ディープインパクトでも通用しなかったことで、一時凱旋門賞参戦を諦めようとも考えたが「あのディープ(インパクト)でさえ負けたんだから、(メイショウ)サムソンで負けても別にどうってことないじゃないかという思いが膨らんできたんです。むしろ気分的には楽やな(カッコ内補足加筆者)<ref name="Number-名馬堂々-78" />」と開き直りに成功している<ref name="Number-名馬堂々-78" />。中でも松本の希望は「最高の状態で、最高のジョッキーで<ref name="優駿-2007-10-45" />」凱旋門賞に臨むことだった<ref name="優駿-2007-10-45" />。

約半年後の2007年、4歳となる春、普段は方針について口出ししない松本が、高橋へ外国遠征の意向を伝えている<ref name="Number-名馬堂々-78" />。高橋は、それまで管理馬の外国遠征が実現したことはなかったが構想が持ち上がったのは、1991年秋の短距離界を沸かせた[[ケイエスミラクル]]以来であった<ref name="優駿-2007-9-94">『優駿』2007年9月号 94頁</ref>。ケイエスミラクルでは、アメリカの[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]]に参戦する可能性{{Efn|この構想は、[[タイキブリザード]]よりも4年早かった。すなわち、日本調教馬として初めてブリーダーズカップに参戦する競走馬になり得た<ref name="優駿-2007-9-31">『優駿』2007年9月号 31頁</ref>。}}があったが、1991年末の[[スプリンターズステークス]]で故障。[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となっていた<ref name="優駿-2007-9-31" />。

=== 乗り替わり ===

2007年、天皇賞(春)優勝直後の松本は「最高のジョッキー」を手配するための行動に出ている。石橋や騎手13、14人を[[京都府]][[祇園]]の料理屋に呼び、天皇賞(春)の祝勝会を催していた{{Efn|石橋の他に[[武豊]]や[[福永祐一]]、[[幸英明]]、[[四位洋文]]が出席していた。すっぽん屋だという<ref name="馬主協会">{{Cite web |title=インタビュー・コラム詳細-インタビュー・コラム一覧-|日本馬主協会連合会-JOA- |url=https://joa.gr.jp/interview/interview_detail/id=272 |website=joa.gr.jp |accessdate=2022-02-24}}</ref>。}}<ref name="馬主協会" /><ref name="東スポ-石橋連載13" />。石橋と武豊を両隣に座らせた松本は、その場で「凱旋門賞はユタカで行こうと思う<ref name="東スポ-石橋連載13" />」と宣言。デビューからメイショウサムソンの背にあり続けた石橋を降ろし、「最高のジョッキー」としてフランスでの騎乗経験が豊富な武を起用した<ref>『優駿』2007年11月号 19頁</ref>。同年の石橋は11勝のJRAリーディング70位<ref name="優駿-2008-2-162" />。対して武は156勝、6年連続[[リーディングジョッキー]]である<ref name="優駿-2008-2-162">『優駿』2008年2月号 162頁</ref>。石橋は降板宣告に「特に悔しいとも思わなかったし、ショックもなかった。自分はフランスでの騎乗経験がなかったし、ボクがオーナーでも石橋守じゃなくて武豊に手綱を委ねるだろう<ref name="東スポ-石橋連載13">{{Cite web |title=【13】天皇賞・秋で圧勝! 手綱を取ったユタカがサムソンの新たな面を引き出した |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5686 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref>。」と振り返っている。この後石橋は、降板が決まっていながら、メイショウサムソンと宝塚記念に臨み2着となっていた。当初の予定では、武はフランスのみで、帰国後は石橋に戻る予定であったという<ref name="優駿-2007-12-20" />。この交代に武はこのように述べている。
{{Quote|'''[[鈴木淑子]]''' 石橋騎手といえば武さんにとっては幼馴染のお兄さんという感じでしょう。ちょっと複雑な思いでしたか。<br/>'''[[武豊|武  豊]]''' いや、それは逆で石橋さんだったからそんな気持ちはなかったです。最初は凱旋門賞ということで話がきて、その前に宝塚記念では石橋さんが手綱を取ったわけですが、「このレースからお前が乗るべき馬だ」と言ってくれていたんです。ここから乗って凱旋門へ、と。そうそう、宝塚のあと、石橋さんの自宅で一晩飲み明かしましたよ(笑)。|『[[優駿]]』2008年1月号「【JRA3000勝達成記念 優駿ロングインタビュー】武豊 "レースが楽しい"それが僕の原動力」第2章「今も変わらない、乗ることの楽しさ」より(聞き手:[[鈴木淑子]]、構成:優駿編集部)<ref>『優駿』2008年1月号 13頁</ref>}}
[[ファイル:Ishibashi and Iida Retirement ceremony (3) IMG 1345 20130224.JPG|サムネイル|216x216ピクセル|石橋(左)と武(右)(石橋騎手引退セレモニーにて)]]
武は凱旋門賞参戦に当たり、滞在する厩舎のリストアップをするなど、これまでの経験をもとに外国遠征のない松本や高橋を導いていた<ref name="優駿-2007-9-29">『優駿』2007年9月号 29頁</ref>。ただしこの年は、メイショウサムソンが馬インフルエンザに感染したことで遠征は中止されている(後述)。国内専念では武の出番はなくなり、石橋の再登板と考えられたが、松本は、国内でも武を起用するよう厩舎側に希望し、石橋の降板と武の主戦騎手就任が決定した<ref name="優駿-2007-12-20" />。この決断は松本の友人や家族の中でも賛否両論で、特に娘には「お父さんらしくない」と言われたという<ref name="優駿-2007-12-20" />。理由について松本は「遠征先の厩舎の手配など、彼にはいろいろと世話になったから<ref name="Number-名馬堂々-78" />」「ユタカが乗るサムソンを見たい<ref name="Number-名馬堂々-78" />」の2点を挙げている。後者の理由について、石田敏徳は「自分が所有してきた馬の中でも最強といえる馬に、最高のジョッキーに乗ってもらう――。凱旋門賞に向けていったん具体化させたイメージを、彼はどうしても捨てきれなかったわけである。<ref name="Number-名馬堂々-78" />」、江面弘也は「松本の頭のなかでは最高の騎手が乗って走るメイショウサムソンの姿ができあがってしまっていて、それが脳裏に焼き付いて離れなかった。<ref name="優駿-2007-12-20" />」と表している。武を迎えたメイショウサムソンは、天皇賞(秋)を優勝した。観戦していた石橋は「憎らしいまでに鮮やかに勝ってしまうあたりさすがと思った(中略)新たな面を引き出してくれた。<ref name="東スポ-石橋連載13" />」と評している。[[ファイル:Ishibashi and Iida Retirement ceremony (7) IMG 1357 20130224.JPG|サムネイル|224x224ピクセル|松本(中央下)と石橋(右下)(2013年石橋騎手引退セレモニーにて)]]
その後石橋は2008年、凱旋門賞遠征から戻って来た直後の11月30日のジャパンカップの鞍上として、1年5か月ぶりの再会を果たしている<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンは石橋守騎手でジャパンCへ |url=https://p.keibabook.co.jp/news/detail/46481 |website=競馬ブック |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref name="東スポ-石橋連載14">{{Cite web |title=【14】JCで1年5か月ぶりのサムソンの背中に感慨…ファンの大声援にも胸が熱くなった |url=https://tospo-keiba.jp/ishibashi/5687 |website=東スポ競馬 |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。これは武が23日に落馬し右[[尺骨]][[骨幹]]部を骨折、騎乗不能となったための代役であった<ref>{{Cite web |title=直線の伸びがなあ…サムソン6着/JC - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2008/11/30/kiji/K20081130Z00000510.html |website=スポニチ Sponichi Annex |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。松本は、石橋に自ら電話をかけて騎乗を依頼していた<ref>『名馬を読む2』298頁</ref>。乗り替わりが報じられた当初は、骨折ゆえに引退レース有馬記念には間に合わないとされていたが<ref>{{Cite web |title=サムソンJCは石橋守、有馬記念も有力 - 競馬ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20081125-433182.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-24}}</ref>、武は骨折から27日目に戦線に復帰し、武ととも引退レースに臨んでいた<ref>{{Cite web |title=武20日復帰へ11・23骨折から驚異の回復力 - 競馬ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20081210-438613.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-24}}</ref>。石橋は「凱旋門賞挑戦プランに端を発した乗り替わりに関してボクはまったくわだかまりがなかったから、松本オーナーは再指名してくれたんだと思う<ref name="東スポ-石橋連載14" />。」と語っている。これらの松本の采配で松本と石橋の関係が、悪化するということはなかった<ref name="東スポ-石橋連載14" />。2013年に石橋が騎手を引退して調教師に転身しているが、2019年8月発行『名馬を読む2』の江面弘也によれば「石橋厩舎に誰よりも多くの馬を預けている馬主<ref name="名馬2-299">『名馬を読む2』299頁</ref>」は松本であった<ref name="名馬2-299" />。

=== 2007年(断念) ===

==== 計画 ====
松本は高橋に対し、天皇賞(春)出走前にこのレースを勝利したら凱旋門賞に臨むと告知<ref name="優駿-2007-9-94" />。そして、天皇賞(春)を勝利後に改めて凱旋門賞挑戦を広く宣言している。遠征は、8月15日に検疫を行い22日に出国、9月16日の[[フォワ賞]]({{G2}})を経て、10月7日の本番に挑むという予定が立てられていた<ref>『優駿』2007年9月号 28頁</ref>。高橋は凱旋門賞を「あくまでも勝つことが前提の遠征<ref name="優駿-2007-9-31">『優駿』2007年9月号 31頁</ref>」、フォワ賞を「調教の一環<ref name="優駿-2007-9-31" />」と捉えていた。

この年は、東京優駿を優勝したウオッカも凱旋門賞遠征を表明しており、2頭で輸送される予定であった<ref name="優駿-2007-9-29" />。遠征に先立って、高橋はウオッカの調教師[[角居勝彦]]とともにフランスに向かい下見を実施<ref name="優駿-2007-9-29" />。滞在する厩舎は、2002年凱旋門賞挑戦の[[マンハッタンカフェ]]が滞在した[[リチャード・ギブソン]]厩舎とし、角居も同じ選択をしていた<ref name="優駿-2007-9-29" />。ところが8月8日、相方のウオッカが蹄球炎を発症したために調整が遅れる見通しとなり、遠征を断念<ref>{{Cite web |title=ウオッカ、凱旋門賞を断念 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22166 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref>。凱旋門賞はメイショウサムソン1頭だけの参戦となったが、検疫や輸送を独りでこなすことは不可能だと高橋は考えていた<ref name="優駿-2007-9-29" />。そこでウオッカ代わりの[[帯同馬]]として、同じ高橋厩舎所属松本所有の3歳牝馬、未勝利のメイショウレッド(父:[[メイショウオウドウ]])を起用した<ref name="優駿-2007-9-29" /><ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンに帯同馬 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22167 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-23 |language=ja}}</ref>。2頭は[[成田国際空港]]からチャーター便で出国する予定だったため、8月15日に美浦トレーニングセンターの検疫厩舎に移動した<ref name="優駿-2007-10-44">『優駿』2007年10月号 44頁</ref>。

==== 馬インフルエンザ感染 ====
検疫厩舎に入った当日、JRAの[[美浦トレーニングセンター|美浦]]および[[栗東トレーニングセンター]]にて、1971年以来36年ぶりとなる[[馬インフルエンザ]]の感染が確認される<ref name="優駿-2007-10-44" /><ref name="日刊-馬インフル">{{Cite web |title=競馬コラム「Legacy 〜語り継ぐ平成の競馬〜」|極ウマ・プレミアム |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/guide/column/article.zpl?topic_id=10096 |accessdate=2022-02-24 |language=ja |author=山田準・岡本光男 |publisher=日刊スポーツ}}</ref>。すぐに馬の移動規制が敷かれて全頭検査が行われたが感染は拡大、その週の競馬が中止となるほどだった<ref name="日刊-馬インフル" />。一方メイショウサムソンは、あくまでも出国を目指しており、感染が確認された美浦や栗東を回避し、[[福島競馬場]]や[[中京競馬場]]で検疫をこなすことも検討されていた<ref name="優駿-2007-11-18">『優駿』2007年11月号 18頁</ref>。しかし8月16日に帯同馬のメイショウレッドの感染が判明<ref name="優駿-2007-11-18" />。さらにその翌17日にメイショウサムソン自身の感染が判明してしまった<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソンも馬インフルエンザに感染 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22354 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。ただし感染したといえど、無症状で体調、食欲ともに良好。陰性になるのを待ち、再び検疫期間をとれば出国は可能だったという<ref name="優駿-2007-11-18" />。日程的には、前哨戦のフォワ賞出走こそ諦めなければならなかったが、凱旋門賞出走自体は可能であり、フランス競馬を統括する[[フランスギャロ]]もそれを歓迎していた<ref name="優駿-2007-10-45" />。しかし8月19日、高橋が遠征を断念を発表<ref>{{Cite web |title=メイショウサムソン凱旋門賞断念 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=22372 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。31日にJRAから正式発表がなされている<ref name="優駿-2007-10-44" />。

=== 2008年(10着) ===
この年の遠征計画は、前年に断念した直後に始まっている。松本は「凱旋門賞を来年の最高の目標<ref>『優駿』2008年1月号 22頁</ref>」としていた。高橋は天皇賞(秋)優勝直後に、凱旋門賞勝利のために半年間ヨーロッパに滞在させる必要があると考えており<ref name="優駿-2007-12-20" />、ドバイからヨーロッパに渡って[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]を使い、凱旋門賞に臨むという計画まで具体化させていたという<ref name="優駿-2008-10-8">『優駿』2008年10月号 8頁</ref>。ただしこの外国を転戦する計画は、松本の耳には届けておらず、松本はとにかく凱旋門賞の出走を要求するのみだった<ref name="優駿-2008-10-8" /><ref name="優駿-2008-10-16">『優駿』2008年10月号 16頁</ref>。ドバイ遠征は、前年の馬インフルエンザの影響から、検疫が厳しくなったことも影響して断念<ref name="優駿-2008-10-9" />。始動戦の大阪杯6着、続く天皇賞(春)は松本が「さわやかな敗戦<ref name="優駿-2008-10-18" />」と称する2着。この時の巻き返しから松本は、高橋に対して「負けても強かったから、凱旋門賞の登録だけはしておこう<ref name="優駿-2008-10-9">『優駿』2008年10月号 9頁</ref>」と話していた。高橋はこの2着を「凱旋門賞に踏みとどまった2着<ref name="優駿-2008-10-9" />」だと表している。

その後、宝塚記念2着を経て改めて凱旋門賞の遠征が発表されている。帯同馬は、高橋厩舎との付き合いが深く、松本にとっては阪神馬主協会の先輩にあたる水戸富雄の所有馬、高橋厩舎の2勝馬ファンドリコンドル(父:[[エルコンドルパサー]])が起用された<ref name="優駿-2008-10-18" />。7月は栗東の厩舎で調整されたが、猛暑だったために夏負けし体調が芳しくなかった<ref name="優駿-2008-10-10">『優駿』2008年10月号 10頁</ref>。ヨーロッパへ入るにあたっては、イギリスで滞在してフランスに向かう方法と、フランスに直接に入る選択肢があり、国際通の調教師[[藤沢和雄]]や[[森秀行]]からイギリス経由が薦められていたという<ref name="優駿-2008-10-11">『優駿』2008年10月号 11頁</ref>。検疫期間がフランス2週間に対し、イギリスは5日で済むなどの利点があったが、高橋は直接フランスに入ることを選択している<ref name="優駿-2008-10-10" />。日本からイギリス、イギリスからフランスという二度の輸送を嫌ったこと、たまたまロンドン行きが欠航したためだという<ref name="優駿-2008-10-11" />。検疫は福島競馬場で行われた<ref>{{Cite web |title=サムソン福島入厩、凱旋門賞へ出国検疫 - 競馬ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20080806-392310.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref>。期間中、福島がたまたま涼しく、体調が回復していた<ref name="優駿-2008-10-11" />。8月20日、成田国際空港から[[日本航空]]6461便で出国している<ref>{{Cite web |title=サムソン仏に到着、初空輸もスムーズ - 競馬ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20080821-399264.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref>。フランスでは、[[シャンティイ調教場]]の[[ミケル・デルザングル]]厩舎に滞在。当地で厩舎未開業のフランス調教師[[小林智]]のサポートを受けており、小林の助言で、フランス製蹄鉄を使用していた{{Efn|フランス製蹄鉄の使用は、2006年の[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]、2004年の[[タップダンスシチー]]でも行われていなかった<ref name="日刊-蹄鉄" />。}}<ref name="日刊-蹄鉄">{{Cite web |title=サムソンにフランス製蹄鉄/凱旋門賞 - 凱旋門賞ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/news/p-rc-tp0-20081003-415164.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref>。10月5日、迎えた凱旋門賞は直線伸びず10着に敗退する<ref>{{Cite web |title=サムソン苦しい競馬で10着/凱旋門賞 - 凱旋門賞ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/horseracing/arc/2008/news/p-rc-tp0-20081006-416241.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref>。3歳牝馬[[ザルカヴァ]]が無敗の7連勝、{{G1}}競走5勝目<ref>『優駿』2008年11月号 27頁</ref>。デズモンド・ストーンハム(訳:奥岡幹浩)は、メイショウサムソンについて「序盤にペースが落ちついてしまったことが、彼にとっては厳しい流れとなった(中略)見せ場を作れなかった日本のエースだが、それでも着差をみれば先頭のザルカヴァから僅か6馬身差でしかない<ref name="優駿-2008-11-33" />。」と述べている。4日に[[ダニエルウィルデンシュタイン賞]]({{G2}})で6着となったファンドリコンドルとともに帰国し、10月8日に成田国際空港に到着<ref>{{Cite web |title=サムソン帯同のコンドル6着/仏G2 - 競馬ニュース : nikkansports.com |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20081006-416242.html |website=www.nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref><ref>{{Cite web |title=メイショウサムソン帰国|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-156694.html |website=keiba.radionikkei.jp |accessdate=2022-02-25}}</ref>。秋はジャパンカップ、有馬記念に出走し、競走馬を引退している。

== その他のエピソード ==

=== ウオッカ ===
{{Main|ウオッカ (競走馬)#中田陽之}}
== 血統 ==
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
{{競走馬血統表
|name = メイショウサムソン
|name = メイショウサムソン
664行目: 985行目:
|mfff = '''Northern Dancer'''
|mfff = '''Northern Dancer'''
|mffm = Goofed
|mffm = Goofed
|mfmf = [[ドローン (競走馬)|Drone]]
|mfmf = Drone
|mfmm = Olmac
|mfmm = Olmac
|mmff = [[プリンスリーギフト|Princely Gift]]
|mmff = [[プリンスリーギフト|Princely Gift]]
687行目: 1,008行目:
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==

* 江面弘也「メイショウサムソン 『メイショウさん』の夢」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
* 『[[Sports Graphic Number]]』([[文藝春秋]])
** 2007年10月11日号
*** 石田敏徳「メイショウサムソン 義理人情と凱旋門。」
**** 同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
**** 同内容Web版あり『[https://number.bunshun.jp/articles/-/12131 Sports Graphic Number Web]』、2007年10月18日。
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1991年9月号
*** 白石俊「【今月の記録室】第27回七夕賞({{GIII}}) シーキャリアー」
** 2006年2月号
*** 「【2005年中央競馬ランキング】騎手成績」
** 2006年4月号
*** 「【重賞プレイバック】第46回きさらぎ賞({{GIII}}) ドリームパスポート」
** 2006年5月号
*** 「【重賞プレイバック】第55回スプリングステークス({{GII}}) メイショウサムソン」
** 2006年6月号
*** [[津田照之]]「【第73回日本ダービー熱戦の行方・クローズアップ】メイショウサムソン 石橋"まもる"から"せめる"への転機」
*** 黒須田守「【第73回日本ダービー熱戦の行方・優駿インタビュー】松本好雄オーナー 人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる」
*** 優駿編集部「【第73回日本ダービー熱戦の行方・杉本清の競馬談義 特別編】ゲスト石橋守騎手」
*** 増田英樹「【第73回日本ダービー熱戦の行方・優駿たちの故郷を訪ねて】林孝輝牧場 人と人との繋がりに恵まれて」
**2006年7月号
***[[柏木集保]]([[日刊競馬]])「【日本ダービークロス・レビュー】総論」
***[[石田敏徳]]「【日本ダービー クロス・レビュー】ローテーション」
***[[吉沢譲治]]「【日本ダービー クロス・レビュー】血統・生産①」
***辻一郎(サラブレッド血統センター)「【日本ダービー クロス・レビュー】血統・生産②」
***「【重賞プレイバック】第73回東京優駿({{GI}}) メイショウサムソン」
***吉沢譲治「【ライターズオピニオン】メイショウサムソンが二冠を制覇」
**2006年8月号
***石田敏徳「【ノンフィクション・ストーリー】実直な騎手人生が産んだ必然の出会い~石橋守が咲かせた22年目の大輪~」
***岡本光男(日刊スポーツ関西)「【トレセン・リポート栗東】暑さ対策は万全。栗東で夏を越す二冠馬メイショウサムソン」
**2006年9月号
***岡本光男「【『三冠』の秋がやってくる!】栗東トレセンで夏を過ごすメイショウサムソンを直撃!」
**2006年10月号
***優駿編集部(片山良三)「【三冠挑戦特別企画】河内洋調教師×石橋守騎手」
**2006年12月号
***石田敏徳「【第67回菊花賞詳報・レース回顧】夢破れた王者と急成長を見せた新王者」
***岡本光男(日刊スポーツ関西)「【第67回菊花賞詳報・敗因分析】メイショウサムソン 淀の菊、かく戦えり」
**2007年4月号
***岡本光男(日刊スポーツ関西)「【トレセン・リポート栗東】瀬戸口勉師の引退にともなって、メイショウサムソンが高橋成忠厩舎へ移籍」
**2007年5月号
***阿部珠樹「【ライターズオピニオン】メイショウサムソンがダービー以来の勝利」
**2007年6月号
***[[井上オークス]]「【クローズアップ】メイショウサムソン 二冠馬を包み込む素晴らしき絆」
***「【重賞プレイバック】第135回天皇賞(春)({{GI}}) メイショウサムソン」
***「【重賞プレイバック】第51回大阪杯({{GII}}) メイショウサムソン」
**2007年8月号
***小泉大尊「【Point of View】メイショウサムソン、ウオッカが凱旋門賞出走へ!」
***石田敏徳「【第48回宝塚記念 有力馬の敗因リポートPart1】メイショウサムソン&ウオッカ」
**2007年9月号
***江面弘也「【メイショウサムソン凱旋門賞への道 2007】高橋成忠調教師インタビュー 勝つことが前提のフランス遠征」
***優駿編集部「【杉本清の競馬談義 268】ゲスト高橋成忠調教師」
**2007年10月号
***江面弘也「メイショウサムソン 凱旋門賞への出走を断念」
**2007年11月号
***江面弘也「【秋の{{GI}}の主役たちと逆転を狙う挑戦者たち】メイショウサムソン」
**2007年12月号
***江面弘也「【クローズアップ】メイショウサムソン 来年の大きな目標へ向けて 踏み出した初めの一歩」
***増田英樹「【優駿たちの故郷を訪ねて】林孝輝牧場 ただ信念を貫いて」
***「【重賞プレイバック】第136回天皇賞(秋)({{GI}}) メイショウサムソン」
***野村英俊(東京中日スポーツ)「【ベテラン記者の注取材ノート】第10回」
**2008年1月号
***優駿編集部(聞き手:[[鈴木淑子]])「【JRA3000勝達成記念 優駿ロングインタビュー】武豊 "レースが楽しい"それが僕の原動力」
**2008年10月号
***江面弘也「【第87回凱旋門賞直前情報 ドキュメント】"チームサムソン" 期待と苦悩の果てに辿り着いた夢舞台」
***江面弘也「【第87回凱旋門賞直前情報 インタビュー】松本好雄オーナー 馬主歴35年の集大成」
**2008年11月号
***江面弘也「【第87回凱旋門賞詳報 レース回顧】周囲を魅了し続ける フランスの"天才少女"」
***江面弘也「【第87回凱旋門賞詳報 チームサムソン】濃密な2か月間」
***デズモンド・ストーンハム({{Lang|en|International Racing Bureau Limited}}、訳:奥岡幹浩)「【第87回凱旋門賞詳報 特別寄稿】実に収穫の多いイベントとなった第87回凱旋門賞」
***田中哲実「【第87回凱旋門賞詳報 特別寄稿】オーナーとの縁が深いサムソンの故郷浦河では、深夜にもかかわらず、皆その晴れ姿を見守っていた。」
**2011年6月号
***[[河村清明]]「【優駿激闘譜】メイショウサムソン 競馬を愛する人たちに支えられた幸せな馬」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=2003102205|yahoo=2003102205|jbis=0000760084|racingpost=656371}}
{{競走馬成績|netkeiba=2003102205|yahoo=2003102205|jbis=0000760084|racingpost=656371}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000760084|メイショウサムソン}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000760084|メイショウサムソン}}


{{Navboxes|title=表彰・GI勝ち鞍
{{Navboxes|title=表彰・GI勝ち鞍
|list1=
|list1=
</span>
{{JRA賞最優秀3歳牡馬}}
{{JRA賞最優秀3歳牡馬}}
{{JRA賞特別賞}}
{{JRA賞特別賞}}

2022年2月25日 (金) 12:58時点における版

メイショウサムソン
2006年5月28日 東京競馬場
欧字表記 Meisho Samson[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1][2]
毛色 鹿毛[1][2]
生誕 2003年3月7日(21歳)[1][2]
抹消日 2009年1月6日[3]
オペラハウス[1][2]
マイヴィヴィアン[1][2]
母の父 ダンシングブレーヴ[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1][2]
生産者 林孝輝[4]
生産牧場 林孝輝[1][2]
育成 鹿屋共同育成センター(鹿児島県鹿屋市[5]
馬主 松本好雄[1][2]
調教師 瀬戸口勉栗東[2]
高橋成忠(栗東)[1][2]
調教助手 辻本光雄(瀬戸口)[6]
→丸山雅夫(高橋成)[7]
-0高橋義忠(高橋成)[7]
厩務員 加藤繁雄(瀬戸口)[8]
→中田征男(高橋成)[9]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬(2006年)[1][2]
JRA賞特別賞(2007年)[1][2]
生涯成績 27戦9勝[2]
中央競馬)26戦9勝[1]
仏国)1戦0勝[1]
獲得賞金 10億6594万9000円[1][2]
WTRR

WTR
117L(2006年)[10]
122IL(2007年)[11]
118L(2008年)[12]
勝ち鞍
GI 皐月賞 2006年
GI 東京優駿 2006年
GI 天皇賞(春) 2007年
GI 天皇賞(秋) 2007年
GII スプリングステークス 2006年
GII 大阪杯 2007年
テンプレートを表示

メイショウサムソン(欧字名:Meisho Samson2003年3月7日 - )は、日本競走馬種牡馬[1]

2006年の皐月賞東京優駿(日本ダービー)を優勝し、前年のディープインパクトに続く史上21頭目の春のクラシック二冠を達成。小倉競馬場デビュー馬として史上初めて、東京優駿を優勝した。また2007年には、天皇賞春秋優勝。タマモクロススペシャルウィークテイエムオペラオーに次いで史上4頭目の同一年天皇賞春秋連覇を果たした。その他の勝ち鞍に、2006年のスプリングステークスGII)、2007年の大阪杯GII)がある。

デンコウアンジュフロンテアクイーンルミナスウォリアーの父として知られる。

デビューまで

誕生までの経緯

マイヴィヴィアンは、1997年に北海道静内町で生産された、父ダンシングブレーヴ、母父サンプリンスの牝馬である[13]。牝系は、1907年小岩井農場の基礎輸入牝馬20頭のうちの1頭、フロリースカップから日本で拡がった「明治から続く在来牝系[14]」(吉沢譲治)であり、曾祖母(マイヴィヴィアンの三代母)は、1959年の天皇賞(秋)有馬記念を優勝したガーネットであった。2000年、美浦トレーニングセンター清水利章厩舎からデビューし、10戦全敗最高3着で引退[15]。翌2001年から生まれ故郷で繁殖牝馬となり、初年度はフジキセキと交配し流産となっていた[16]

2002年は、既に産駒テイエムオペラオーが活躍していたオペラハウスと交配。受胎している状態で、静内から浦河町の林孝輝牧場に移動した[17]。2003年3月7日、林孝輝牧場にて初仔となる鹿毛牡馬(後のメイショウサムソン)が誕生する。

幼駒時代

入厩先決定までの経緯
瀬戸口勉(2010年)

「マイヴィヴィアンの初仔」は1歳秋まで牧場で過ごし、怪我無く順調に育った[17][18]。小さいころから体が大きく、同期の仔と相撲を取っても負けなかったという[18]。当初は、1歳夏のサマーセールに上場させて、売却する予定であった[17]。しかし直前に林が、浦河の生産者グループに参加。グループメンバーの三嶋牧場が音頭を取り、「マイヴィヴィアンの初仔」など4、5頭を束ねて、栗東トレーニングセンター所属の調教師瀬戸口勉に披露する機会を得た[16][19]。瀬戸口は、その4、5頭から「マイヴィヴィアンの初仔」を選り抜き、瀬戸口厩舎の管理馬となることが内定した[17]。林と瀬戸口はそれまで面識がなく、林の生産馬が瀬戸口厩舎の管理馬となるのは初めてのことだった[20]。瀬戸口は、1975年に厩舎を開業して以来、オグリキャップネオユニヴァースなどを管理してきたが、70歳となる2007年2月が定年、厩舎解散が目前に迫っていた。そのため2003年産、すなわち2006年に3歳となる馬が管理できる最後の世代であった[16]。瀬戸口は、この「マイヴィヴィアンの初仔」のオーナーを探し始めた。

オーナー決定までの経緯
松本好雄(2010年)

オーナーを探す瀬戸口は「メイショウ」の冠名を用いる馬主、松本好雄に接近した。松本は、阪神馬主協会に属しており、主に栗東の調教師に多数の所有馬を預ける大馬主である。松本は、馬主業はあくまで趣味と捉え、効率性を求めていなかった[21]。1991年、馬主歴28年目にしてGIタイトルを初めて掴んだ宝塚記念(メイショウドトウ)直後の祝勝会で「人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる[22]。」と述べているように、調教師、騎手、牧場などとのつながりを重視する馬主であった。そのため、勝率が高く値段も高い大手牧場の生産馬ではなく、縁こそあるが勝率が低く値段も安い日高地方の牧場生産馬を積極的に購入。さらにそれらの馬を厩舎の成績関係なしに、振り分けていた[23]。また松本は、馬を見る能力はないと自認しており、馬の購入や騎手の選択、レース選択などあらゆる判断を調教師に委ねていた[21]。このように、口出しせず、ただ馬資源のみを供給する馬主として、栗東の競馬関係者から感謝され「メイショウさん」という愛称で親しまれていた[23]

松本「メイショウ」の勝負服

瀬戸口は、調教師最後のクラシックを狙える馬が用意できなかったことや[21]、「最後の世代に社長(松本)の馬がいないのは寂しい[19]」と理由付けして、松本に購入を依頼する。さらに「まだ売れ残っている中から買ってほしい[21]」と連絡し、松本を説得した。瀬戸口にとって「まだ売れ残っている」馬は「マイヴィヴィアンの初仔」の他に3頭存在していた。瀬戸口は生涯最後の「メイショウ」を選ぶべく、候補4頭から2頭、2頭から1頭と絞り、何とか1頭を選択。その1頭が、「マイヴィヴィアンの初仔」であった[21]。松本は700万円で購入する[24]。「マイヴィヴィアンの初仔」には、冠名「メイショウ」に「怪力の人」を意味する「サムソン」を組み合わせた「メイショウサムソン」という競走馬名が与えられた[4]

メイショウサムソンは、瀬戸口の生まれ故郷である鹿児島県鹿屋市の鹿屋共同育成センターにて育成が施された[25][5]。騎乗技術に長けた騎手経験者ではなく、就業3年目の若手が担当できてしまうほどの大人しい性格だったという[26]

競走馬時代

2歳(2005年)

石橋守(2013年)

夏に鹿児島から、小倉競馬場に移動。7月31日の新馬戦(芝1800メートル)に石橋守が騎乗しデビューを果たす。当初騎手は、瀬戸口厩舎の主戦である福永祐一が予定されていた[27]。しかし、デビュー前週の水曜日に福永が、新潟競馬場での騎乗[注釈 1]を選択。急遽代役を探してまず武豊に依頼するも、他厩舎の先約があって断られ、石橋にお鉢が回ったという経緯が存在する[27][28](詳細は、メイショウサムソン#石橋守を参照。)。4番人気の支持でアタマ差の2着[29]。その後も代役石橋が続投し、同じ小倉芝1800メートルの未勝利戦を走り続けた。8月20日は2馬身半差の3着[30]。9月4日は、好位から抜け出し2馬身半差をつけて入線、3戦目で初勝利を挙げた[31]

栗東に戻り9月18日、阪神競馬場の野路菊ステークス(OP)を半馬身差で勝利し連勝[32]。続く萩ステークス(OP)、重賞初挑戦となる東京スポーツ杯2歳ステークスGIII)は、福永騎乗のフサイチリシャールにいずれも敗北した。着差5馬身以上の4着、2馬身半の2着となる[33][34]。12月17日の中京2歳ステークス(OP)は、別定戦のため、他よりも2キログラム多い57キログラムの負担重量が課された[8]。早めに抜け出して1番人気トップオブツヨシに2馬身差をつけて入線。57キログラムながら、2歳コースレコードを更新するタイムで3勝目を挙げた[35]

3歳(2006年)

皐月賞

2月12日、きさらぎ賞GIII)で始動。1番人気の支持を背負ってスタートし先行、早めに抜け出した[36]。直線では正しく走れるように外側に持ち出したが、避けた内側を後方待機の2番人気ドリームパスポートに使われて差し切られ、半馬身差の2着[36]。石橋は馬場を読めなかったこの判断を「ボクの完全な騎乗ミス[37]」だったと振り返っている。続いて3月19日、皐月賞トライアル競走であるスプリングステークスGII)に参戦。東京スポーツ杯2歳ステークスの後に、朝日杯フューチュリティステークスを勝利したフサイチリシャールと、ドリームパスポートが1番人気、2番人気を占める一方、そのどちらにも敗れた経験を持つメイショウサムソンは、オッズ14.5倍の4番人気の支持だった[38]。大外枠から先行し好位を確保、最終コーナー手前で先頭に並びかけた[39]。直線では背後にいたドリームパスポートとフサイチリシャールが、それぞれメイショウサムソンの内外に分かれて追い込んできた。一時並ばれかけたが、差し返して先頭で入線[8]。フサイチリシャールにクビ差、ドリームパスポートにクビとハナ差をつけて重賞初勝利、皐月賞の優先出走権を獲得した[39]

映像外部リンク
2006年 皐月賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4月16日、皐月賞(GI)に出走する。トライアル競走の弥生賞優勝馬アドマイヤムーンが2.2倍の1番人気、若葉ステークス優勝馬フサイチジャンクが5.6倍の2番人気に推される一方で、スプリングステークス優勝馬のメイショウサムソンは、14.5倍の6番人気の支持[40]。前走下したフサイチリシャールや、弥生賞4着のサクラメガワンダーよりも低い評価であった[40]

3枠5番からスタート、ミドルペースの好位を追走した[41]。第3コーナーから2番手のフサイチリシャールが抜け出し、それを追いかけて最終コーナーを通過。直線では、石橋が右ムチで促すとフサイチリシャールを外から捕えて抜け出した[8]。内からドリームパスポートが脚を伸ばしてきたが、先頭を保って入線。ドリームパスポートに半馬身差をつけてGI初勝利を挙げた[41]。石橋は、GI初勝利[41]。瀬戸口は、2003年ネオユニヴァース以来となる皐月賞2勝目。スプリングステークス優勝馬の皐月賞優勝も同様に、ネオユニヴァース以来だった[41]

東京優駿(日本ダービー)

5月28日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に出走。単勝オッズ3.8倍の1番人気に支持された。2番人気は、皐月賞後方から差し届かず3着のフサイチジャンクで5.5倍。3番人気は、同じく差し届かず4着のアドマイヤムーンで5.9倍。以下、毎日杯青葉賞と連勝中のアドマイヤメイン、2歳時3戦無敗のマルカシェンクなどが続いていた。前日から雨が降っていたが、当日昼から雨は止み、天候は晴、馬場状態は稍重で行われた[42]

映像外部リンク
2006年 東京優駿(日本ダービー)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

1枠2番からスタート、アドマイヤメインがハナを奪って逃げる一方で、好位の内側を追走。アドマイヤメインの逃げは、前半の1000メートルを62.5秒で通過するスローペースだった[42]。第3コーナーから徐々に外に進路を取り、最終コーナーを4、5番手で通過した[43]。直線では後続が伸びを欠き、先頭はメイショウサムソンとアドマイヤメインの2頭のみの争いとなった[43]。逃げ切りを図るアドマイヤメインに外から接近[42]。残り200メートルで並び立ち、まもなく差し切った[42]。アドマイヤメインが追いすがり、突き放すことはできなかったが、クビ差先着。石橋が手綱を緩める動作をしながら、先頭で入線した。GI2勝目、ダービー優勝を果たした。前年のディープインパクトに続いて、史上21頭目となる春のクラシック二冠を成し遂げた[44]。石橋は、皐月賞に続いてGI2勝目でダービージョッキーと相成った。2着アドマイヤメインには柴田善臣が騎乗しており、競馬学校1期生同士のワンツーフィニッシュとなった[44]。瀬戸口は、2003年ネオユニヴァース以来となるダービー2勝目で、ネオユニヴァース以来の春のクラシック二冠達成馬だった[41]

アドマイヤメインが迫っているにもかかわらず、手綱を緩めてクビ差での決着となった背景には諸説あり、江面弘也によれば、「訳が分からなくなって抑えた[45]」と語られるが、河村清明によれば石橋は冷静で「今日の展開なら(中略)前のアドマイヤメインを交わせさせすれば勝てる[46]」と考えたため流して入線したと語られており、正反対の記述が見られる[注釈 2]。(競走に関する詳細は、第73回東京優駿を参照。)

秋、三冠逃す

東京優駿の後は放牧に出ず、栗東の厩舎で夏を過ごした[6]。東京優駿直後は曳き運動に専念し、6月下旬に回復すると朝はウッドコース、午後はプールのトレーニング[6]。この間に馬体は大きく成長、馬体重が東京優駿時よりも20キログラム増加させている[6]。前年のディープインパクトが三冠を果たしていたことから、1983年、1984年ミスターシービーシンボリルドルフ以来、22年ぶり2度目「2年連続のクラシック三冠馬誕生」が期待されていた[48]。9月24日の神戸新聞杯GII)に1.6倍の1番人気の支持で始動[49]。3、4番手の好位から直線に向き、前を行くフサイチリシャールやソングオブウインドを捕えて先頭となったが、大外から追い込んだ3番人気に差し切られてクビ差2着となる[50]

続く10月22日、三冠がかかった大一番の菊花賞GI)に単勝オッズ2.0倍の1番人気で出走。武豊騎乗のアドマイヤメインが大逃げを打つ中、離れた馬群の好位を追走[51]。2周目の第3コーナーから追い上げ始め、アドマイヤメインを捕らえにかかった[51]。しかし直線は伸びがなく、失速するアドマイヤメインすらかわすことができなかった。アドマイヤメインを差し切ったソングオブウインドとドリームパスポートの争いに4馬身以上離された4着[52]。三冠達成を逃し、二冠馬に留まった[53]。石橋は、自らの騎乗について、折り合いもつくなど問題はなかったと振り返っている[54]。また瀬戸口は、体調は問題なかったと振り返っているが[54]、伸びを欠いたのは、調教を正しく行ったにもかかわらず、直前の馬体重が神戸新聞杯のそれよりも増加していたという「体つきの変化[55]」があったこと、レコード決着に対応できなかったことを敗因として挙げている[55]。また担当厩務員の加藤は、「神戸新聞杯までに毎週のように併せ馬をしていたし、2歳のころから同じところにずっといて精神的なストレスがあったのかもしれない[56]」と振り返っている。その後は古馬と対決、ジャパンカップGI)6着、有馬記念GI)5着と連敗する[57][58]

4歳(2007年)

天皇賞(春)

高橋成忠

有馬記念の後は、グリーンウッドファームに移動。デビュー以来初めて放牧に出された[46][59]。2月末に瀬戸口の定年引退のために、厩舎が解散。松本はそれを見越して、前年末に多数の調教師を集めて、瀬戸口の後継を発表していた。松本は、厩舎開業1978年からの付き合いで、これまでメイショウエイカンやメイショウホムラメイショウバトラーを管理してきた栗東の高橋成忠調教師を指名する[57]。担当厩務員の加藤は、厩舎解散に伴って栗東の梅田智之厩舎に移籍しており[59]、新たに高橋厩舎開業1978年から所属するベテラン厩務員、中田征男が担当となった。春の目標を天皇賞(春)に据えていた高橋は、メイショウサムソンの初戦を阪神大賞典大阪杯の二択で悩んだ結果、阪神大賞典の1週間後に行われ、長く休ませることができる大阪杯を選択する。2月28日午後に、高橋厩舎に入厩する[59]

4月1日の大阪杯GII)で転厩初戦を迎える。単勝オッズ1.9倍、コスモバルクシャドウゲイトの1番人気だった。スタートから中団で待機し、第3コーナーを過ぎたあたりでスパート。3番手で直線に向き、逃げるシャドウゲイトを外から捕えた。半馬身差をつけて先頭で入線[60]。10か月ぶりの勝利で重賞4勝目となった[61][62]。東京優駿優勝馬の大阪杯制覇は、グレード制導入以降、1992年トウカイテイオー、2004年ネオユニヴァース以来3頭目であった[63]

続いて4月29日、天皇賞(春)(GI)に参戦。ステイヤーズステークス阪神大賞典を連勝中のステイヤー、アイポッパーに1番人気を譲り、4.5倍の2番人気であった[64]。以下、前年のメルボルンカップ優勝馬デルタブルースが4.6倍、ダイヤモンドステークス優勝馬トウカイトリックが続いた[64]

映像外部リンク
2007年 天皇賞(春)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから中団を追走[65]。2周目の第3コーナーから外に展開して追い上げに入り、最終コーナーで先頭に取り付いた[66]。単独先頭で迎えた直線では、内から4番人気トウカイトリック、外から11番人気エリモエクスパイアが迫り来た[66]。並ばれて3頭横一線となったが、そこからもう一伸びを見せて先頭を守った[66]。外のエリモエクスパイアにハナ差、内のトウカイトリックにハナ+クビ差つけて入線。1948年1着シーマー、2着カツフジ、1995年1着ライスシャワー、2着ステージチャンプ以来レース史上3例目となるハナ差での決着で、GI3勝目を挙げた[67]

石橋はGI3勝目、高橋は厩舎開業30年目でGI初勝利[65]。高橋は騎手だった頃の1964年にヒカルポーラで、1970年にリキエイカンで天皇賞(春)を勝利しており、レース史上6人目の騎手調教師双方制覇を果たした[67]。走破タイム3分14秒1は、2005年にディープインパクトが樹立したレコード3分13秒4と0.7秒しか違わず「好タイム[67]」(『優駿』)と称された。

それから6月24日、ファン投票1位で宝塚記念GI)に出走。東京優駿を制した3歳牝馬ウオッカに次ぐ2番人気に支持される[68]。スタートから中団の外、ウオッカの外を追走[68]。直線外に持ち出し一時先頭に立つも、さらに外から追い込んだ3番人気アドマイヤムーンに並ばれた[69]。2頭並んでしばらく競り合ったが、アドマイヤムーンに半馬身かわされて2着となる[68]。秋は、フランスの凱旋門賞遠征が計画されたが、出国直前で馬インフルエンザに感染。前哨戦として考えていたフォワ賞に間に合わないことを理由に、計画を断念した[70]。(詳細は、メイショウサムソン#凱旋門賞参戦を参照。)

天皇賞(秋)

凱旋門賞を断念した秋は、国内に専念する。8月31日に栗東へ帰厩し調整され[71]、10月28日の天皇賞(秋)に直行。鞍上は、ここまでデビュー戦から18戦コンビを組んだ石橋から武豊に乗り替わり参戦した(詳細は、メイショウサムソン#乗り替わり)。単勝オッズ2.9倍の1番人気の支持で、宝塚記念で先着を許したアドマイヤムーンを3.8倍の2番人気に押しのけている。以下GI4勝、前年の覇者ダイワメジャー5.6倍、直近の有馬記念2着宝塚記念3着のポップロック6.1倍で続いていた[72]。1枠1番からスタートし、好位の内側に位置[73]。最終コーナーで後方勢が外に広がり追い上げる中、空いた内を突いて進出した[73]。直線で抜け出して突き放し、後方に2馬身半差をつけて先頭で入線した[73]。直後に審議ランプが灯ったが、メイショウサムソンに関するものではなかった[74][注釈 3]

映像外部リンク
2007年 天皇賞(秋)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

GI4勝目。1988年タマモクロス、1999年スペシャルウィーク、2000年テイエムオペラオーに次いで史上4頭目となる同一年天皇賞春秋連覇達成[75]。東京優駿優勝馬としては、1984年ミスターシービー、1999年スペシャルウィークに次いで史上3頭目となる天皇賞(秋)優勝であった[76]。武は、天皇賞(秋)4勝目、天皇賞10勝目であり、保田隆芳の騎手史上最多勝利記録に並んだ[75]

2007年ジャパンカップ3着(左、黄帽10番)

その後のメイショウサムソンは、ジャパンカップと有馬記念で1番人気に推されるも3着、8着[77]ジャパンカップでは、内で抜け出したアドマイヤムーンに対して大外に展開して迫った[78]。タイムの差はなかったが、アタマとクビ差届かなかった[78]。この年のJRA賞では、289票中17票を集め、年度代表馬選考の第3位。37票を集め、最優秀4歳以上牡馬選考の次点となり、常設された部門の受賞は逃した[79]。しかし。史上4頭目の天皇賞春秋連覇の実績が評価されて、牝馬として64年ぶりに東京優駿を優勝したウオッカとともに特別賞を受賞[80]。2頭同時の特別賞授与は、1999年グラスワンダーとスペシャルウィーク以来8年ぶり2度目であった[81]

5歳(2008年)

1月、松本がメイショウサムソンのこの年限りでの引退を表明する[82]。有馬記念の敗戦直後には、ドバイ遠征計画が明かされたが、条件面での折り合いがつかずに断念[83][84]。春の目標を天皇賞(春)、秋の目標を前年叶わなかった凱旋門賞参戦に定めていた[2][85]京都記念を始動戦と考えていたが見送り、大阪杯で始動して6着[86][85]。続く天皇賞(春)は、アドマイヤジュピタと叩き合い、アタマ差敗れる2着[87]。それから宝塚記念は、エイシンデピュティに逃げ切られ、再びアタマ差の2着[88]

大阪杯敗退直後は、凱旋門賞参戦を一度白紙に戻していたが、GIで2着となったことで一転、遠征が決定した。前哨戦を用いず、凱旋門賞に直行し10着となる(詳細は、メイショウサムソン#凱旋門賞参戦を参照。)。帰国後、天皇賞(秋)は登録したのみ[注釈 4]で回避。ジャパンカップでは石橋に乗り替わり(詳細は、メイショウサムソン#乗り替わり)6着、引退レースの有馬記念は、武に戻り8着に敗退した[89]。2009年1月4日、京都競馬場で引退式が行われ[9]、天皇賞(春)優勝時の6番ゼッケンに石橋、武が騎乗する姿が披露された[90]。1月7日付でJRAの競走馬登録を抹消される[3]

引退後

種牡馬時代

引退後は、北海道安平町社台スタリオンステーションにて種牡馬となる[91]。社台での繋養は、松本が引退宣言とともに予告したものだった[92]。日高産馬、日高を応援する松本所有馬が社台での繋養となったのは、松本によれば「これだけの馬ですから、ほんとうは日高地区の種馬場に置きたいんです。でも日高でシンジケートを組もうとすると逆に生産者に経済的な負担をかけてしまう。それで、生産者の重荷にならないように[92]」していたという[注釈 5][92]。供用初年度となる2009年から2012年までは、三桁の種付け数を誇った[93]。32頭に留まった2013年を以て社台を退き、2014年からは生まれ故郷の浦河町イーストスタッドで供用された[94]。以降、再び三桁の種付け数には届くことはなかったが、2016年には浦河でピークとなる種付け数85頭を記録している[93]。それ以降は、右肩下がりで減少した[93]。種付け数が11頭に留まった2021年を最後に種牡馬を引退し、10月28日付で用途変更となる[93]

2012年に初年度産駒がデビュー。7月31日の門別競馬場JRA認定アタックチャレンジ2歳未勝利にてブエラ(牝、母父:エルコンドルパサー)が勝利し、産駒初勝利を記録。翌2013年1月6日、イルミナティ(牝、母父:フジキセキ)が産駒中央初勝利を記録した[95][96]。初年度産駒のうち、サムソンズプライド(牡、母父:エルコンドルパサー)は、2013年プリンシパルステークス(OP)を勝利し、メイショウサムソンを上回るデビュー12戦目で東京優駿出走を果たした[注釈 6][97][98]。4年目、2013年産のデンコウアンジュ(牝、母父:マリエンバード)が、2015年のアルテミスステークスGIII)を勝利し、産駒中央重賞初勝利を記録[99][100]。その後のデンコウアンジュは、2019年福島牝馬ステークスGIII)、2020年の愛知杯GIII)を勝利したほか、2017年のヴィクトリアマイルGI)にて、アドマイヤリードに次ぐ2着となった[101]。その他の中央重賞優勝馬に、2年目産駒のルミナスウォリアー、4年目産駒のキンショーユキヒメフロンテアクイーン、アスターサムソンがいる[102]

功労馬時代

イーストスタッドを退いてからは認定NPO法人引退馬協会に譲渡され、日高町のひだか・ホース・フレンズで功労馬に転じる[103]。引退馬協会が行う「ナイスネイチャ・33歳のバースデードネーション」の10頭目の対象馬となった[103]

競走成績

以下の内容、netkeiba.com[104]およびJBISサーチ[105]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離馬場


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
2005. 07. 31 小倉 2歳新馬 芝1800m(稍) 12 4 4 14.0(4人) 02着 01:53.5 (35.3) -0.0 石橋守 54 グロリアスウィーク 498
08. 20 小倉 2歳未勝利 芝1800m(良) 9 8 8 04.3(2人) 03着 01:48.3 (35.7) -0.4 石橋守 54 エイシンチャンドラ 492
09. 04 小倉 2歳未勝利 芝1800m(良) 14 6 10 02.2(1人) 01着 01:50.5 (35.5) -0.4 石橋守 54 (キングエンペラー) 496
09. 18 阪神 野路菊S OP 芝1600m(良) 11 8 11 03.1(1人) 01着 01:36.0 (35.0) -0.1 石橋守 54 (タガノマーシャル) 490
10. 29 京都 萩S OP 芝1800m(重) 8 7 7 03.4(2人) 04着 01:50.0 (34.8) -0.9 石橋守 56 フサイチリシャール 496
11. 19 東京 東スポ杯2歳S GIII 芝1800m(良) 11 6 6 18.7(5人) 02着 01:47.3 (33.8) -0.4 石橋守 55 フサイチリシャール 500
12. 17 中京 中京2歳S OP 芝1800m(良) 10 7 8 03.0(2人) 01着 R1:47.5 (34.9) -0.3 石橋守 57 (トップオブツヨシ) 504
2006. 02. 12 京都 きさらぎ賞 GIII 芝1800m(良) 12 6 7 03.4(1人) 02着 01:47.5 (35.0) -0.1 石橋守 57 ドリームパスポート 508
03. 19 中山 スプリングS GII 芝1800m(良) 16 8 16 14.5(4人) 01着 01:48.9 (36.2) -0.0 石橋守 56 (フサイチリシャール) 508
04. 16 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 3 5 14.5(6人) 01着 01:59.9 (35.1) -0.1 石橋守 57 (ドリームパスポート) 504
05. 28 東京 東京優駿 GI 芝2400m(稍) 18 1 2 03.8(1人) 01着 02:27.9 (35.1) -0.1 石橋守 57 アドマイヤメイン 502
09. 24 中京 神戸新聞杯 GII 芝2000m(良) 16 1 2 01.6(1人) 02着 01:58.1 (35.0) -0.0 石橋守 56 ドリームパスポート 512
10. 22 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 6 12 02.0(1人) 04着 03:03.4 (34.9) -0.7 石橋守 57 ソングオブウインド 518
11. 26 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 11 8 11 16.0(4人) 06着 02:25.9 (34.5) -0.8 石橋守 55 ディープインパクト 514
12. 24 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 14 5 8 21.4(4人) 05着 02:32.7 (35.4) -0.8 石橋守 55 ディープインパクト 518
2007. 04. 01 阪神 大阪杯 GII 芝2000m(良) 11 3 3 01.9(1人) 01着 02:01.4 (34.4) -0.1 石橋守 59 シャドウゲイト 518
04. 29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 16 3 6 04.5(2人) 01着 03.14.1 (34.7) -0.0 石橋守 58 (エリモエクスパイア) 516
06. 24 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(稍) 18 8 17 04.2(2人) 02着 02.12.5 (36.6) -0.1 石橋守 58 アドマイヤムーン 518
10. 28 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(稍) 16 1 1 02.9(1人) 01着 01.58.4 (34.6) -0.4 武豊 58 (アグネスアーク) 518
11. 25 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 18 5 10 01.8(1人) 03着 02.24.7 (33.9) -0.0 武豊 57 アドマイヤムーン 518
12. 23 中山 有馬記念 GI 芝2500m(稍) 15 1 1 02.4(1人) 08着 02.35.2 (37.2) -1.6 武豊 57 マツリダゴッホ 520
2008. 04. 06 阪神 大阪杯 GII 芝2000m(良) 11 6 7 03.4(2人) 06着 01.59.2 (35.0) -0.5 武豊 59 ダイワスカーレット 518
05. 04 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 14 5 8 04.8(2人) 02着 03.15.1 (34.9) -0.0 武豊 58 アドマイヤジュピタ 514
06. 29 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(重) 14 2 2 02.1(1人) 02着 02.15.3 (36.9) -0.0 武豊 58 エイシンデピュティ 510
10. 05 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m(良) 16 5 5 10着 武豊 59.5 Zarkava -
11. 30 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 17 1 2 06.5(3人) 06着 02.26.0 (34.4) -0.5 石橋守 57 スクリーンヒーロー 516
12. 28 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 14 6 9 08.4(4人) 08着 02:32.5 (37.3) -1.0 武豊 57 ダイワスカーレット 520
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

種牡馬成績

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[93]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
2009 101 71 69 60 34 1 0.94
2010 111 84 82 73 47 2 0.89
2011 122 99 98 89 62 1 0.89
2012 105 72 71 59 46 3 1.30
2013 32 27 27 26 14 0 0.92
2014 43 35 34 31 21 0 0.47
2015 59 51 51 44 25 1 0.66
2016 85 58 57 50 30 0 0.48
2017 55 40 38 33 19 0 0.77
2018 47 30 30 19 4 0.45
2019 31 23 23 0
2020 25 13 12 0
2021 11 0 0 0
合計 592 484 302 8 0.92 1.14

主な産駒

評価

ファン投票による評価

競走名 順位 出否 出典
2006年 宝塚記念 02万4698票 09着 回避 [117]
有馬記念 08万0943票 03位 05着 [118]
2007年 宝塚記念 07万6932票 01位 02着 [119]
有馬記念 10万2560票 02位 08着 [120]
2008年 宝塚記念 06万6597票 02位 02着 [121]
有馬記念 11万3124票 03位 08着 [122]

非主流の立場からのクラシック戴冠

メイショウサムソンに関わる人々は、総じて3歳GIクラシックで毎年のように主役を張るような立場にいなかった。調教師の瀬戸口は、定年に向けて管理馬を削減しており[123]、騎手の石橋はGI未勝利[124]、担当厩務員の加藤繁雄は担当馬の重賞未勝利[125]。さらに日高地方並びに浦河町の牧場は、サンデーサイレンスとその産駒で社台グループの大躍進を許しており、その格差は河村清明によれば「もはや挽回が利かないほど[16]」だった。また、日高地方静内に繋養されていたメイショウサムソンの父オペラハウスも種付け数を大きく減少させている現状があった[126]

高額な良血馬と良血馬を掛け合わせて、最新施設でトレーニングを積む大手牧場生産馬が毎年のようにクラシックで良績を挙げている状況にあって、日高を応援する松本は、メイショウドトウ宝塚記念GI)を勝利した過去を持ちながらも、自身の持ち馬でのクラシック勝利は「特に難しい[22]」と考えていた。そんな状況でのメイショウサムソンの活躍は、柏木集保によれば「中小の生産牧場や、多くのオーナー、また多くのジョッキーにも、勇気を呼び覚まさせる希望の逆転快走だった[127]」と表している。

後に凱旋門賞へ挑むことになるが(後述)、松本は動機の一つとして「日高の馬のためにも世界の頂点に行ってみたいという思いもある[128]」と述べている。日高の生産馬として凱旋門賞に参戦するのは、1969年に着外のスピードシンボリ、1986年に14着のシリウスシンボリに続く3頭目[129]。2頭は共にシンボリ牧場生産、所有であり、大規模経営を行うオーナーブリーダーによる挑戦だった[129]。対してメイショウサムソンは、中小牧場の生産馬、個人馬主の所有。江面弘也によれば「日高の中小牧場で生まれた馬が凱旋門賞に出走するのは初めてといってもよく、日本の生産界にとっても意義のあることだ[129]」という。凱旋門賞の応援にあたって松本は、林とその妻、縁の深い日高の生産者10人の旅費を負担[注釈 7][130]。その額は「重賞の1着賞金にもなるとかならないとか[130]」(田中哲実)だったという。

日高、浦河産馬

林孝輝牧場

北海道浦河町の林牧場は、1956年に林喜久治が開いた家族経営の牧場である[131]。喜久治の子である孝輝が継承して林孝輝牧場を名乗り、メイショウサムソンが活躍する頃は、9頭から10頭の繁殖牝馬を繋養していた[132]。メイショウサムソンが出現する前までは、喜久治の代だった1984年産シーキャリアー(父:サドンソー)の、1991年七夕賞GIII)勝利が最初で最後の中央競馬重賞タイトルであった[133]。七夕賞優勝当時の喜久治は「おそらく私の一生涯で重賞はこれ1回きりでしょう[133]。」と述べていた。またスプリングステークスを優勝した際の喜久治は、生産馬をクラシックに出走させることが「夢[132]」だったと述べている。

メイショウサムソンが生産される2003年は、牧場にとっては仔3頭、繁殖牝馬1頭を失った年でもあった[134]。そんな中、孝輝の妻の叔父から「ダンシングブレーヴの肌馬をやってみないか」と購入の誘いを持ち掛けられていた[17]。孝輝はそれを了承。叔父は、ダンシングブレーヴの繁殖牝馬を2頭所有していたが、孝輝にどちらかを選択する権利はなかった[17]。叔父は自ら、お腹の中にメイショウサムソンが宿るマイヴィヴィアンを選択して手放し、孝輝に売却している[17]。そして産まれたメイショウサムソンは、交配した叔父の牧場ではなく、林孝輝牧場に東京優駿(日本ダービー)や天皇賞のタイトルをもたらすこととなった。スプリングステークスが牧場にとって15年ぶり、孝輝にとって初めてとなる中央競馬重賞勝利。皐月賞が初GIおよびクラシック初勝利である[125]。浦河産馬としては、皐月賞優勝は1999年テイエムオペラオー以来[125]。東京優駿優勝は1997年サニーブライアン以来であった[135]

2013年に林孝輝牧場で生産した父メイショウサムソンの仔、フロンテアクイーン(父:サンデーサイレンス)は、重賞2着6回の他に2019年の中山牝馬ステークスGIII)を勝利[136]。中山牝馬ステークスが、牧場にとってメイショウサムソンの天皇賞(秋)以来の重賞勝利であった[131]

オペラハウス産駒

2002年は、日本で大繁栄した種牡馬サンデーサイレンスが種付けシーズン途中で体調不良となり、種付けを中止。また体調不良から回復せず、間もなく死亡したことから、2003年産は、サンデーサイレンス産駒の実数が前年に比べて半減。並びに、サンデーサイレンス産駒にとって最後のクラシックとなっていた[137]。東京優駿に駒を進めたサンデーサイレンス産駒は18頭中4頭に留まったが[138]、サンデーサイレンスの孫、スペシャルウィークフジキセキアグネスタキオン産駒が4頭出走。父、母父など血統表の中のどこかにサンデーサイレンスの名前がある産駒は18頭中12頭存在した[137]。そんな中、父オペラハウス、母父ダンシングブレーヴのメイショウサムソンは、サンデーサイレンス産駒やサンデーサイレンスの孫を押しのけて東京優駿を優勝。掲示板内はメイショウサムソン以外、サンデーサイレンス産駒とサンデーサイレンスの孫が占めていた[137]

そのようなメイショウサムソンのクラシックでの活躍は、馬産地の行動に影響を与えた。日高の日本軽種馬協会静内種馬場に繋養されていたメイショウサムソンの父、オペラハウスの種付け数がV字回復していた[126]。1999年は産駒テイエムオペラオーの活躍もあり、種付け数は99頭。それからメイショウサムソンが宿ることになる2003年まで種付け数は約90頭を保ち続けていたが、2004年、2005年と種付け数は27頭、28頭と大きく減少させていた[126]。ところが2006年、メイショウサムソンの活躍に共鳴した生産者が、オペラハウスを選択[139]。オペラハウスの種付け数は、前年比5倍増となる157頭まで増加していた[126]。その157頭から101頭の産駒、2007年産が誕生。その中から、マジェスティバイオ(日高地方平取町生産、母父:ヘクタープロテクター)が2011年と2012年のJRA賞最優秀障害馬を受賞する活躍を見せた[140]

7月小倉デビュー

小倉競馬場

2歳7月の小倉デビューから10戦に出走し、東京優駿のタイトルに到達。この当時あまり見られなかった成り上がりは「異色のダービー馬[141]」(石田敏徳)と言い表された。2歳時はクラシック出走の予感がなく7戦に出走。重賞出走は1回のみ、オープン競走を2勝する裏街道を進んでいた[141]。3歳になってから重賞戦線に乗り、トライアル競走を用いるなど軌道に乗り、クラシック二冠を果たした[141]。騎乗した石橋も、2歳11月の東京スポーツ杯2歳ステークス2着の時点では、賞金の面で「久しぶりにクラシックに乗れるな[27]」と思ったのみ、クラシックを意識し始めたのは、3歳3月皐月賞トライアルのスプリングステークスで優勝してからであった[27]

小倉デビューの皐月賞優勝は、1954年ダイナナホウシュウ、1990年ハクタイセイに続いて史上3頭目[125]小倉デビューの東京優駿優勝は、史上初めてであった[141][142]。また7月デビューの東京優駿優勝は、1989年ウィナーズサークル以来17年ぶり、デビュー以来二桁の出走数を持つ東京優駿優勝は、1994年ナリタブライアン以来12年ぶりだった[141]

石橋守

メイショウサムソンがデビューした2005年、瀬戸口厩舎の主戦騎手でメイショウサムソンの主戦騎手となる予定だった福永祐一は、フェブラリーステークス桜花賞NHKマイルカップ優駿牝馬朝日杯フューチュリティステークスのJRAGI5勝、JRA年間109勝を挙げ、リーディング4位[143]。対して福永の代役、石橋守の2005年は、JRAで18勝のリーディング49位[143]。福永よりも10歳年上にもかかわらず、JRAGIを勝利したことがない「地味なベテラン騎手[124]」(江面弘也)だった。

「メイショウ」と石橋(2013年)

そんな石橋が福永の代役として選ばれたのは、夏の本拠を小倉にして瀬戸口厩舎の調教を手伝っていたほかに、瀬戸口と石橋の父がいずれも上田武司厩舎に所属していた縁にあった[144]。石橋守の小さい頃を知っている瀬戸口は、守が大人になり騎手となったにもかかわらず「あの子」と呼ぶ癖が抜けなかったほどの関係であった[145]。加えて、1996年に石橋をゴッドスピードの主戦騎手に据えたことがあり、小倉3歳ステークスGIII)、府中3歳ステークスGIII)を勝利し、1997年クラシックを共に戦った過去もあった[145]

マルカシェンク

新馬戦だけの代役のはずが、その後も主戦騎手としてコンビを継続しているのは、同じ厩舎にメイショウサムソンを上回る評価の同期マルカシェンクがいたためである[27]。2歳時のマルカシェンクは厩舎主戦の福永とともに、新馬、デイリー杯2歳ステークス京都2歳ステークスと3連勝で注目を集める一方、7戦3勝重賞未勝利のメイショウサムソンの評価はいまひとつだった[27]。デビューした小倉から栗東に戻っても石橋は、メイショウサムソンから離れずにつきっきりで調教を担当[145][146]。火曜日から金曜日まで騎乗し、悪癖矯正に取り組んでいた[147][8][146]

そして臨んだ皐月賞を優勝。石橋にとっては、騎手デビューから21年1か月、42度目の挑戦で初めてJRAGIタイトルを獲得[125]。グレード制導入後では、ニシノフラワーで1991年阪神3歳牝馬ステークスを勝利した佐藤正雄の22年8か月、パッシングショットで1990年マイルチャンピオンシップを勝利した楠孝志の21年8か月に次いで、史上3番目に遅い、GI初勝利であった[125]。皐月賞の夜の石橋は、武主催の祝勝会に参加して朝5時まで盛り上がり、翌日には東京駅でスポーツ新聞を全紙購入したという[148]。オーナーとして騎手起用について指示をしない方針の松本は、皐月賞優勝後の時点で「石橋君を替えようと思ったことですか。全く無いですね。(中略)石橋君も馬のクセを知る努力をしてくれた。いちばん嬉しいのは、私なんかよりも石橋君かもしれんなあ、と思います[21]」と述べている。

凱旋門賞参戦

松本は凱旋門賞を「数あるビッグレースのうちで『自分のなかでは一番』[149]」と捉えており、そこに所有馬を出走させることは「馬主としての夢[150]」「生涯の夢[24]」であるとしていた。メイショウサムソンでその凱旋門賞を意識したのは、東京優駿優勝を記念した集まりの際、社台の吉田照哉吉田勝己兄弟から「この馬は欧州血統[注釈 8]だから是非とも凱旋門賞に挑戦させるべきだ[153]」と勧められたことがきっかけだったという[153]。メイショウサムソンが東京優駿を優勝したその年の秋には、クラシック三冠を果たすなど11戦10勝2着1回の身で臨んだディープインパクトが3位入線していた[注釈 9]。松本は、ディープインパクトでも通用しなかったことで、一時凱旋門賞参戦を諦めようとも考えたが「あのディープ(インパクト)でさえ負けたんだから、(メイショウ)サムソンで負けても別にどうってことないじゃないかという思いが膨らんできたんです。むしろ気分的には楽やな(カッコ内補足加筆者)[153]」と開き直りに成功している[153]。中でも松本の希望は「最高の状態で、最高のジョッキーで[128]」凱旋門賞に臨むことだった[128]

約半年後の2007年、4歳となる春、普段は方針について口出ししない松本が、高橋へ外国遠征の意向を伝えている[153]。高橋は、それまで管理馬の外国遠征が実現したことはなかったが構想が持ち上がったのは、1991年秋の短距離界を沸かせたケイエスミラクル以来であった[154]。ケイエスミラクルでは、アメリカのブリーダーズカップに参戦する可能性[注釈 10]があったが、1991年末のスプリンターズステークスで故障。予後不良となっていた[155]

乗り替わり

2007年、天皇賞(春)優勝直後の松本は「最高のジョッキー」を手配するための行動に出ている。石橋や騎手13、14人を京都府祇園の料理屋に呼び、天皇賞(春)の祝勝会を催していた[注釈 11][156][157]。石橋と武豊を両隣に座らせた松本は、その場で「凱旋門賞はユタカで行こうと思う[157]」と宣言。デビューからメイショウサムソンの背にあり続けた石橋を降ろし、「最高のジョッキー」としてフランスでの騎乗経験が豊富な武を起用した[158]。同年の石橋は11勝のJRAリーディング70位[159]。対して武は156勝、6年連続リーディングジョッキーである[159]。石橋は降板宣告に「特に悔しいとも思わなかったし、ショックもなかった。自分はフランスでの騎乗経験がなかったし、ボクがオーナーでも石橋守じゃなくて武豊に手綱を委ねるだろう[157]。」と振り返っている。この後石橋は、降板が決まっていながら、メイショウサムソンと宝塚記念に臨み2着となっていた。当初の予定では、武はフランスのみで、帰国後は石橋に戻る予定であったという[74]。この交代に武はこのように述べている。

鈴木淑子 石橋騎手といえば武さんにとっては幼馴染のお兄さんという感じでしょう。ちょっと複雑な思いでしたか。
武  豊 いや、それは逆で石橋さんだったからそんな気持ちはなかったです。最初は凱旋門賞ということで話がきて、その前に宝塚記念では石橋さんが手綱を取ったわけですが、「このレースからお前が乗るべき馬だ」と言ってくれていたんです。ここから乗って凱旋門へ、と。そうそう、宝塚のあと、石橋さんの自宅で一晩飲み明かしましたよ(笑)。
優駿』2008年1月号「【JRA3000勝達成記念 優駿ロングインタビュー】武豊 "レースが楽しい"それが僕の原動力」第2章「今も変わらない、乗ることの楽しさ」より(聞き手:鈴木淑子、構成:優駿編集部)[160]
石橋(左)と武(右)(石橋騎手引退セレモニーにて)

武は凱旋門賞参戦に当たり、滞在する厩舎のリストアップをするなど、これまでの経験をもとに外国遠征のない松本や高橋を導いていた[161]。ただしこの年は、メイショウサムソンが馬インフルエンザに感染したことで遠征は中止されている(後述)。国内専念では武の出番はなくなり、石橋の再登板と考えられたが、松本は、国内でも武を起用するよう厩舎側に希望し、石橋の降板と武の主戦騎手就任が決定した[74]。この決断は松本の友人や家族の中でも賛否両論で、特に娘には「お父さんらしくない」と言われたという[74]。理由について松本は「遠征先の厩舎の手配など、彼にはいろいろと世話になったから[153]」「ユタカが乗るサムソンを見たい[153]」の2点を挙げている。後者の理由について、石田敏徳は「自分が所有してきた馬の中でも最強といえる馬に、最高のジョッキーに乗ってもらう――。凱旋門賞に向けていったん具体化させたイメージを、彼はどうしても捨てきれなかったわけである。[153]」、江面弘也は「松本の頭のなかでは最高の騎手が乗って走るメイショウサムソンの姿ができあがってしまっていて、それが脳裏に焼き付いて離れなかった。[74]」と表している。武を迎えたメイショウサムソンは、天皇賞(秋)を優勝した。観戦していた石橋は「憎らしいまでに鮮やかに勝ってしまうあたりさすがと思った(中略)新たな面を引き出してくれた。[157]」と評している。

松本(中央下)と石橋(右下)(2013年石橋騎手引退セレモニーにて)

その後石橋は2008年、凱旋門賞遠征から戻って来た直後の11月30日のジャパンカップの鞍上として、1年5か月ぶりの再会を果たしている[162][163]。これは武が23日に落馬し右尺骨骨幹部を骨折、騎乗不能となったための代役であった[164]。松本は、石橋に自ら電話をかけて騎乗を依頼していた[165]。乗り替わりが報じられた当初は、骨折ゆえに引退レース有馬記念には間に合わないとされていたが[166]、武は骨折から27日目に戦線に復帰し、武ととも引退レースに臨んでいた[167]。石橋は「凱旋門賞挑戦プランに端を発した乗り替わりに関してボクはまったくわだかまりがなかったから、松本オーナーは再指名してくれたんだと思う[163]。」と語っている。これらの松本の采配で松本と石橋の関係が、悪化するということはなかった[163]。2013年に石橋が騎手を引退して調教師に転身しているが、2019年8月発行『名馬を読む2』の江面弘也によれば「石橋厩舎に誰よりも多くの馬を預けている馬主[168]」は松本であった[168]

2007年(断念)

計画

松本は高橋に対し、天皇賞(春)出走前にこのレースを勝利したら凱旋門賞に臨むと告知[154]。そして、天皇賞(春)を勝利後に改めて凱旋門賞挑戦を広く宣言している。遠征は、8月15日に検疫を行い22日に出国、9月16日のフォワ賞G2)を経て、10月7日の本番に挑むという予定が立てられていた[169]。高橋は凱旋門賞を「あくまでも勝つことが前提の遠征[155]」、フォワ賞を「調教の一環[155]」と捉えていた。

この年は、東京優駿を優勝したウオッカも凱旋門賞遠征を表明しており、2頭で輸送される予定であった[161]。遠征に先立って、高橋はウオッカの調教師角居勝彦とともにフランスに向かい下見を実施[161]。滞在する厩舎は、2002年凱旋門賞挑戦のマンハッタンカフェが滞在したリチャード・ギブソン厩舎とし、角居も同じ選択をしていた[161]。ところが8月8日、相方のウオッカが蹄球炎を発症したために調整が遅れる見通しとなり、遠征を断念[170]。凱旋門賞はメイショウサムソン1頭だけの参戦となったが、検疫や輸送を独りでこなすことは不可能だと高橋は考えていた[161]。そこでウオッカ代わりの帯同馬として、同じ高橋厩舎所属松本所有の3歳牝馬、未勝利のメイショウレッド(父:メイショウオウドウ)を起用した[161][171]。2頭は成田国際空港からチャーター便で出国する予定だったため、8月15日に美浦トレーニングセンターの検疫厩舎に移動した[172]

馬インフルエンザ感染

検疫厩舎に入った当日、JRAの美浦および栗東トレーニングセンターにて、1971年以来36年ぶりとなる馬インフルエンザの感染が確認される[172][173]。すぐに馬の移動規制が敷かれて全頭検査が行われたが感染は拡大、その週の競馬が中止となるほどだった[173]。一方メイショウサムソンは、あくまでも出国を目指しており、感染が確認された美浦や栗東を回避し、福島競馬場中京競馬場で検疫をこなすことも検討されていた[174]。しかし8月16日に帯同馬のメイショウレッドの感染が判明[174]。さらにその翌17日にメイショウサムソン自身の感染が判明してしまった[175]。ただし感染したといえど、無症状で体調、食欲ともに良好。陰性になるのを待ち、再び検疫期間をとれば出国は可能だったという[174]。日程的には、前哨戦のフォワ賞出走こそ諦めなければならなかったが、凱旋門賞出走自体は可能であり、フランス競馬を統括するフランスギャロもそれを歓迎していた[128]。しかし8月19日、高橋が遠征を断念を発表[176]。31日にJRAから正式発表がなされている[172]

2008年(10着)

この年の遠征計画は、前年に断念した直後に始まっている。松本は「凱旋門賞を来年の最高の目標[177]」としていた。高橋は天皇賞(秋)優勝直後に、凱旋門賞勝利のために半年間ヨーロッパに滞在させる必要があると考えており[74]、ドバイからヨーロッパに渡ってキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを使い、凱旋門賞に臨むという計画まで具体化させていたという[178]。ただしこの外国を転戦する計画は、松本の耳には届けておらず、松本はとにかく凱旋門賞の出走を要求するのみだった[178][149]。ドバイ遠征は、前年の馬インフルエンザの影響から、検疫が厳しくなったことも影響して断念[150]。始動戦の大阪杯6着、続く天皇賞(春)は松本が「さわやかな敗戦[129]」と称する2着。この時の巻き返しから松本は、高橋に対して「負けても強かったから、凱旋門賞の登録だけはしておこう[150]」と話していた。高橋はこの2着を「凱旋門賞に踏みとどまった2着[150]」だと表している。

その後、宝塚記念2着を経て改めて凱旋門賞の遠征が発表されている。帯同馬は、高橋厩舎との付き合いが深く、松本にとっては阪神馬主協会の先輩にあたる水戸富雄の所有馬、高橋厩舎の2勝馬ファンドリコンドル(父:エルコンドルパサー)が起用された[129]。7月は栗東の厩舎で調整されたが、猛暑だったために夏負けし体調が芳しくなかった[179]。ヨーロッパへ入るにあたっては、イギリスで滞在してフランスに向かう方法と、フランスに直接に入る選択肢があり、国際通の調教師藤沢和雄森秀行からイギリス経由が薦められていたという[180]。検疫期間がフランス2週間に対し、イギリスは5日で済むなどの利点があったが、高橋は直接フランスに入ることを選択している[179]。日本からイギリス、イギリスからフランスという二度の輸送を嫌ったこと、たまたまロンドン行きが欠航したためだという[180]。検疫は福島競馬場で行われた[181]。期間中、福島がたまたま涼しく、体調が回復していた[180]。8月20日、成田国際空港から日本航空6461便で出国している[182]。フランスでは、シャンティイ調教場ミケル・デルザングル厩舎に滞在。当地で厩舎未開業のフランス調教師小林智のサポートを受けており、小林の助言で、フランス製蹄鉄を使用していた[注釈 12][183]。10月5日、迎えた凱旋門賞は直線伸びず10着に敗退する[184]。3歳牝馬ザルカヴァが無敗の7連勝、G1競走5勝目[185]。デズモンド・ストーンハム(訳:奥岡幹浩)は、メイショウサムソンについて「序盤にペースが落ちついてしまったことが、彼にとっては厳しい流れとなった(中略)見せ場を作れなかった日本のエースだが、それでも着差をみれば先頭のザルカヴァから僅か6馬身差でしかない[130]。」と述べている。4日にダニエルウィルデンシュタイン賞G2)で6着となったファンドリコンドルとともに帰国し、10月8日に成田国際空港に到着[186][187]。秋はジャパンカップ、有馬記念に出走し、競走馬を引退している。

その他のエピソード

ウオッカ

血統

血統表

メイショウサムソン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 サドラーズウェルズ系

*オペラハウス
Opera House
1988 鹿毛
イギリス
父の父
Sadler's Wells
1981 鹿毛
アメリカ
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Fairy Bridge Bold Reason
Special
父の母
Colorspin
1983 鹿毛
イギリス
High Top Derring-Do
Camenae
Reprocolor Jimmy Reppin
Blue Queen

マイヴィヴィアン
1997 鹿毛
北海道静内町
*ダンシングブレーヴ
Dancing Brave
1983 鹿毛
アメリカ
Lyphard Northern Dancer
Goofed
Navajo Princess Drone
Olmac
母の母
ウイルプリンセス
1983 鹿毛
北海道静内町
*サンプリンス
Sun Prince
Princely Gift
Costa Sola
エール *フォルティノ Fortino
ガーネツトF-No.3-l
母系(F-No.) 3号族(FN:3-l) [§ 2]
5代内の近親交配 Northern Dancer 3×4 [§ 3]
出典
  1. ^ JBISサーチ メイショウサムソン 5代血統表2016年7月23日閲覧。
  2. ^ JBISサーチ メイショウサムソン 5代血統表2016年7月23日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ メイショウサムソン 5代血統表2016年7月23日閲覧。

近親

脚注

注釈

  1. ^ 同日の関屋記念(GIII)、サイドワインダーに騎乗のため[27]
  2. ^ 東京スポーツの連載『石橋守 守の起源』によれば「残り100メートルあたりで前を捕らえると後は必死に追ったつもりだったけど…後でVTRを見るとゴール前では無意識に手綱を緩めていた。ただ、あの時のサムソンならもう一度、並び掛けられても抜かれない自信があった[47]。」とどっちつかずの回顧をしている。
  3. ^ 審議の対象は、共に内枠から先行したエイシンデピュティ。直線コースにて外側に斜行し、アグネスアークやシャドウゲイトダイワメジャーアドマイヤムーンなどの走行を妨害した。事象は、メイショウサムソンの外側で起きたものであり、メイショウサムソン自身は、スムーズに抜け出すことができた。エイシンデピュティは、8位入線14着降着[75]
  4. ^ 5日間の輸入検疫を受けるために一旦競馬学校へ入厩したが、天皇賞(秋)へ出走登録を行ったため10月14日に東京競馬場へ移動して3週間(11月4日まで)の着地検査を受けることになった。
  5. ^ また松本は、メイショウサムソンがサンデーサイレンスの血が入っていないことから「たくさんいい牝馬に付けてほしい[92]」とも考えていた。
  6. ^ ブービー賞17着。
  7. ^ 松本は出国前、「だいたい50人ぐらいで行こうかなと。牧場関係に社員、わたしの友人関係、瀬戸口さん、北橋さんなどわたしの馬に携わってくれていた人、それと会社のお客さんとか…[129]」と述べている。
  8. ^ オペラハウスは、1993年キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスなどイギリスG1を3勝[151]。母父ダンシングブレーヴは、1986年凱旋門賞などフランスとイギリスのG1を4勝[152]
  9. ^ 後に禁止薬物が検出されて失格。
  10. ^ この構想は、タイキブリザードよりも4年早かった。すなわち、日本調教馬として初めてブリーダーズカップに参戦する競走馬になり得た[155]
  11. ^ 石橋の他に武豊福永祐一幸英明四位洋文が出席していた。すっぽん屋だという[156]
  12. ^ フランス製蹄鉄の使用は、2006年のディープインパクト、2004年のタップダンスシチーでも行われていなかった[183]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r メイショウサムソン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『優駿』2011年6月号 81頁
  3. ^ a b サムソン7日付で競走馬登録を抹消”. www.nikkansports.com. 2022年2月18日閲覧。
  4. ^ a b 血統書サービス「メイショウサムソン」”. ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  5. ^ a b 九州産馬に注目を! - 浅野靖典 | 競馬コラム”. netkeiba.com. 2022年2月17日閲覧。
  6. ^ a b c d 『優駿』2006年9月号 28頁
  7. ^ a b 『優駿』2007年12月号 149頁
  8. ^ a b c d e 『優駿』2011年6月号 76頁
  9. ^ a b メイショウサムソンの引退式が行われる | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月18日閲覧。
  10. ^ The 2006 World Thouroughbred Racehorse Rankings”. IFHA. 2021年9月12日閲覧。
  11. ^ The 2007 World Thouroughbred Racehorse Rankings”. IFHA. 2021年9月12日閲覧。
  12. ^ The 2008 World Thouroughbred Rankings”. IFHA. 2021年9月12日閲覧。
  13. ^ マイヴィヴィアン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月17日閲覧。
  14. ^ 『優駿』2006年7月号 159頁
  15. ^ 競走成績:全競走成績|マイヴィヴィアン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月16日閲覧。
  16. ^ a b c d 『優駿』2011年6月号 75頁
  17. ^ a b c d e f g 『優駿』2006年6月号 20頁
  18. ^ a b 『優駿』2007年12月号 51頁
  19. ^ a b 『Number PLUS 名馬堂々。』77頁
  20. ^ 『優駿』2006年6月号 21頁
  21. ^ a b c d e f 『優駿』2006年6月号 14頁
  22. ^ a b 『優駿』2006年6月号 12頁
  23. ^ a b 『名馬を読む2』290頁
  24. ^ a b メイショウサムソン 凱旋門賞特集 : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月17日閲覧。
  25. ^ 瀬戸口勉氏が死去 81歳 調教師時代オグリなどを手掛ける”. サンスポZBAT!競馬 (2017年11月10日). 2022年2月17日閲覧。
  26. ^ 鹿屋育成センター(鹿児島県鹿屋市)崎山喬之(宮崎第6期生)”. BTC. 2012年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。
  27. ^ a b c d e f g 【7】メイショウサムソンに初めてまたがった時は〝運命的な出会い〟とは思わなかった”. 東スポ競馬. 2022年2月17日閲覧。
  28. ^ 『優駿』2006年10月号 44頁
  29. ^ 【2歳新馬】(小倉5R)〜グロリアスウィーク緒戦勝ち”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  30. ^ 【未勝利戦】(小倉2R)〜エイシンチャンドラがレコードV”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  31. ^ 【未勝利戦】(小倉2R)〜メイショウサムソン順当勝ち”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  32. ^ 【野路菊S】(阪神)〜末脚光った メイショウサムソン”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  33. ^ 【萩S】(京都)〜フサイチリシャールが逃げ切る”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  34. ^ 【東京スポーツ杯2歳S】(東京)〜フサイチリシャールがレコードで出世レースを快勝”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  35. ^ 【中京2歳S】(中京)〜メイショウサムソン、レコードV”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月17日閲覧。
  36. ^ a b 『優駿』2006年4月号 76-77頁
  37. ^ 【8】スプリングSでのサムソンの走りが「皐月賞は勝てる!」ボクを確信させた”. 東スポ競馬. 2022年2月17日閲覧。
  38. ^ フジTVスプリングS|2006年3月19日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2022年2月17日閲覧。
  39. ^ a b 『優駿』2006年5月号 84-85頁
  40. ^ a b 皐月賞|2006年4月16日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2022年2月18日閲覧。
  41. ^ a b c d e 『優駿』2006年6月号 78-79頁
  42. ^ a b c d 『優駿』2006年7月号 78頁
  43. ^ a b メイショウサムソン 過去のレース 凱旋門賞 : nikkansports.com”. www5.nikkansports.com. 2022年2月22日閲覧。
  44. ^ a b 【東京優駿】(東京)〜アラカルト”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月18日閲覧。
  45. ^ 『名馬を読む2』294頁
  46. ^ a b 『優駿』2011年6月号 79頁
  47. ^ 【10】1番人気で勝ったダービー。誰もいない内正面で空を見上げ感謝の気持ちを込めた”. 東スポ競馬. 2022年2月18日閲覧。
  48. ^ 『優駿』2006年9月号 31頁
  49. ^ 神戸新聞杯|2006年9月24日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2022年2月18日閲覧。
  50. ^ 【神戸新聞杯(GII)】(中京)〜メイショウサムソン敗れ、ドリームパスポートが雪辱”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月18日閲覧。
  51. ^ a b 『優駿』2006年12月号 78頁
  52. ^ 『優駿』2006年12月号 17頁
  53. ^ 【菊花賞(GI)】(京都)〜Mサムソン3冠ならず、伏兵ソングオブウインド戴冠”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月18日閲覧。
  54. ^ a b 『優駿』2006年12月号 20頁
  55. ^ a b 『優駿』2006年12月号 21頁
  56. ^ 【11】しっくりこなかった秋シーズン…菊花賞4着で逃したサムソンの3冠”. 東スポ競馬. 2022年2月18日閲覧。
  57. ^ a b 『名馬を読む2』295頁
  58. ^ 【有馬記念(GI)】(中山)〜伏兵マツリダゴッホ 積極策でGI初制覇”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月18日閲覧。
  59. ^ a b c 『優駿』2007年4月号 154頁
  60. ^ 『優駿』2007年6月号 78頁
  61. ^ 【産経大阪杯(GII)】(阪神)〜2冠馬メイショウサムソン 磐石の競馬で復活”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月18日閲覧。
  62. ^ 『優駿』2007年5月号 155頁
  63. ^ 『優駿』2007年6月号 79頁
  64. ^ a b 天皇賞(春)|2007年4月29日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2022年2月18日閲覧。
  65. ^ a b メイショウサムソン、ド根性Vで最強の座に 石橋守「馬の力を信じていた」=天皇賞・春”. スポーツナビ. 2022年2月20日閲覧。
  66. ^ a b c 『優駿』2007年6月号 74頁
  67. ^ a b c 『優駿』2007年6月号 75頁
  68. ^ a b c 『優駿』2007年8月号 68頁
  69. ^ 『優駿』2007年8月号 32-33頁
  70. ^ 『優駿』2011年6月号 80頁
  71. ^ メイショウサムソン、31日に栗東へ帰厩 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月25日閲覧。
  72. ^ 天皇賞(秋)|2007年10月28日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2022年2月20日閲覧。
  73. ^ a b c 『優駿』2007年12月号 70頁
  74. ^ a b c d e f 『優駿』2007年12月号 20頁
  75. ^ a b c 『優駿』2007年12月号 71頁
  76. ^ 天皇賞・秋アラカルト(28日)”. 競馬ブック. 2022年2月20日閲覧。
  77. ^ 【有馬記念(GI)】(中山)〜伏兵マツリダゴッホ 積極策でGI初制覇 | 競馬実況web | ラジオNIKKEI”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月25日閲覧。
  78. ^ a b 『優駿』2008年1月号 70頁
  79. ^ 『優駿』2008年2月号 14-17頁
  80. ^ JRA賞受賞馬のプロフィール〜選考の経緯”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月21日閲覧。
  81. ^ メイショウサムソンとウオッカに特別賞”. www.nikkansports.com. 2022年2月21日閲覧。
  82. ^ メイショウサムソン、年内引退へ | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月21日閲覧。
  83. ^ ドバイSC、メイショウサムソンなどが登録 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月21日閲覧。
  84. ^ メイショウサムソンがドバイ遠征断念 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月21日閲覧。
  85. ^ a b サムソン見せ場なく6着/大阪杯”. www.nikkansports.com. 2022年2月21日閲覧。
  86. ^ ドバイに7頭選出!!でも検疫問題が… - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年2月21日閲覧。
  87. ^ 『優駿』2008年7月号 90頁
  88. ^ 『優駿』2008年8月号 100頁
  89. ^ ラストランのサムソン8着/有馬記念”. www.nikkansports.com. 2022年2月18日閲覧。
  90. ^ サムソン引退式にファン大声援”. www.nikkansports.com. 2022年2月22日閲覧。
  91. ^ メイショウサムソンが社台SSに到着 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月25日閲覧。
  92. ^ a b c d 『優駿』2008年10月号 19頁
  93. ^ a b c d e 種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|メイショウサムソン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月16日閲覧。
  94. ^ a b c メイショウサムソンがイーストスタッドに移動”. 競走馬のふるさと案内所. 公益社団法人日本軽種馬協会 (2013年12月3日). 2015年7月12日閲覧。
  95. ^ サムソン産駒が待望JRA初勝利/新馬戦”. nikkansports.com. 2022年2月22日閲覧。
  96. ^ メイショウサムソン産駒が初V、イルミナティが完勝/中山新馬 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  97. ^ 【16=最終回】次は調教師としてダービー制覇をメイショウサムソン産駒、武豊で…”. 東スポ競馬. 2022年2月22日閲覧。
  98. ^ 競走成績:全競走成績|サムソンズプライド”. www.jbis.or.jp. 2022年2月22日閲覧。
  99. ^ メイショウサムソンを訪ねて~イーストスタッド | 馬産地コラム | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月22日閲覧。
  100. ^ 2015年10月31日 アルテミスS G3 | 重賞ウイナーレポート | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月22日閲覧。
  101. ^ デンコウアンジュ”. www.jbis.or.jp. 2022年2月22日閲覧。
  102. ^ 種牡馬情報:種牡馬成績 |メイショウサムソン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月22日閲覧。
  103. ^ a b メイショウサムソンが種牡馬引退 | 馬産地ニュース | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月22日閲覧。
  104. ^ メイショウサムソンの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2020年9月21日閲覧。
  105. ^ 競走成績:全競走成績|メイショウサムソン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月16日閲覧。
  106. ^ サムソンズプライド”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  107. ^ キリノトップラン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  108. ^ ノゾミダイヤ”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  109. ^ ルミナスウォリアー”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  110. ^ ランデックアロマ”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  111. ^ レッドソロモン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  112. ^ デンコウアンジュ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年5月12日閲覧。
  113. ^ キンショーユキヒメ”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  114. ^ アスターサムソン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  115. ^ フロンテアクイーン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  116. ^ オオエフォーチュン”. www.jbis.or.jp. 2022年2月20日閲覧。
  117. ^ 宝塚記念ファン投票最終発表、1位はディープインパクト | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  118. ^ 【有馬記念】ファン投票最終結果〜1位ディープ、2位は‥‥”. www.radionikkei.jp. 2022年2月22日閲覧。
  119. ^ 宝塚記念ファン投票最終結果、メイショウサムソンが1位 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  120. ^ 有馬記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  121. ^ 宝塚記念ファン投票最終結果、ウオッカが1位 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  122. ^ 有馬記念ファン投票、最終結果発表 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  123. ^ 『名馬を読む2』292頁
  124. ^ a b 『名馬を読む2』293頁
  125. ^ a b c d e f 石橋守22年目初GI「騎手になって良かった」/皐月賞”. 日刊スポーツ. 2021年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022‐2‐18閲覧。
  126. ^ a b c d 種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|オペラハウス(GB)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月18日閲覧。
  127. ^ 『優駿』2006年7月号 16頁
  128. ^ a b c d 『優駿』2007年10月号 45頁
  129. ^ a b c d e f 『優駿』2008年10月号 18頁
  130. ^ a b c 『優駿』2008年11月号 33頁
  131. ^ a b 2019年03月09日 中山牝馬S G3 | 重賞ウイナーレポート | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月16日閲覧。
  132. ^ a b 2006年03月19日 スプリングS G2 | 重賞ウイナーレポート | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月16日閲覧。
  133. ^ a b 『優駿』1991年9月号 146頁
  134. ^ 2006年04月16日 皐月賞 GI | 重賞ウイナーレポート | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月16日閲覧。
  135. ^ 浦河産馬、9年ぶりのダービー制覇 - 田中哲実 | 競馬コラム”. netkeiba.com. 2022年2月22日閲覧。
  136. ^ シーキャリアー”. www.jbis.or.jp. 2022年2月16日閲覧。
  137. ^ a b c 『優駿』2006年7月号 19頁
  138. ^ 10R 日本ダービー|2006年5月28日(日)3回東京4日”. www.jbis.or.jp. 2022年2月18日閲覧。
  139. ^ 2006年05月28日 日本ダービー GI | 重賞ウイナーレポート | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2022年2月18日閲覧。
  140. ^ マジェスティバイオ”. www.jbis.or.jp. 2022年2月18日閲覧。
  141. ^ a b c d e 『優駿』2006年7月号 17頁
  142. ^ 有吉正徳. “小倉デビューのダービー馬第1号になったメイショウサムソン”. 朝日新聞社. 2017年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月23日閲覧。
  143. ^ a b 『優駿』2006年2月号 164頁
  144. ^ 『優駿』2006年8月号 143頁
  145. ^ a b c 『優駿』2006年6月号 10頁
  146. ^ a b メイショウサムソン2冠「感無量」石橋守/G1復刻|極ウマ・プレミアム”. p.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  147. ^ 『優駿』2006年10月号 45頁
  148. ^ 『優駿』2006年6月号 16頁
  149. ^ a b 『優駿』2008年10月号 16頁
  150. ^ a b c d 『優駿』2008年10月号 9頁
  151. ^ オペラハウス(GB)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月22日閲覧。
  152. ^ ダンシングブレーヴ(USA)”. www.jbis.or.jp. 2022年2月22日閲覧。
  153. ^ a b c d e f g h 『Number PLUS 名馬堂々。』78頁
  154. ^ a b 『優駿』2007年9月号 94頁
  155. ^ a b c d 『優駿』2007年9月号 31頁
  156. ^ a b インタビュー・コラム詳細-インタビュー・コラム一覧-|日本馬主協会連合会-JOA-”. joa.gr.jp. 2022年2月24日閲覧。
  157. ^ a b c d 【13】天皇賞・秋で圧勝! 手綱を取ったユタカがサムソンの新たな面を引き出した”. 東スポ競馬. 2022年2月23日閲覧。
  158. ^ 『優駿』2007年11月号 19頁
  159. ^ a b 『優駿』2008年2月号 162頁
  160. ^ 『優駿』2008年1月号 13頁
  161. ^ a b c d e f 『優駿』2007年9月号 29頁
  162. ^ メイショウサムソンは石橋守騎手でジャパンCへ”. 競馬ブック. 2022年2月24日閲覧。
  163. ^ a b c 【14】JCで1年5か月ぶりのサムソンの背中に感慨…ファンの大声援にも胸が熱くなった”. 東スポ競馬. 2022年2月24日閲覧。
  164. ^ 直線の伸びがなあ…サムソン6着/JC - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年2月24日閲覧。
  165. ^ 『名馬を読む2』298頁
  166. ^ サムソンJCは石橋守、有馬記念も有力 - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月24日閲覧。
  167. ^ 武20日復帰へ11・23骨折から驚異の回復力 - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月24日閲覧。
  168. ^ a b 『名馬を読む2』299頁
  169. ^ 『優駿』2007年9月号 28頁
  170. ^ ウオッカ、凱旋門賞を断念 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月23日閲覧。
  171. ^ メイショウサムソンに帯同馬 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月23日閲覧。
  172. ^ a b c 『優駿』2007年10月号 44頁
  173. ^ a b 山田準・岡本光男. “競馬コラム「Legacy 〜語り継ぐ平成の競馬〜」|極ウマ・プレミアム”. 日刊スポーツ. 2022年2月24日閲覧。
  174. ^ a b c 『優駿』2007年11月号 18頁
  175. ^ メイショウサムソンも馬インフルエンザに感染 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月25日閲覧。
  176. ^ メイショウサムソン凱旋門賞断念 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年2月25日閲覧。
  177. ^ 『優駿』2008年1月号 22頁
  178. ^ a b 『優駿』2008年10月号 8頁
  179. ^ a b 『優駿』2008年10月号 10頁
  180. ^ a b c 『優駿』2008年10月号 11頁
  181. ^ サムソン福島入厩、凱旋門賞へ出国検疫 - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  182. ^ サムソン仏に到着、初空輸もスムーズ - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  183. ^ a b サムソンにフランス製蹄鉄/凱旋門賞 - 凱旋門賞ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  184. ^ サムソン苦しい競馬で10着/凱旋門賞 - 凱旋門賞ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  185. ^ 『優駿』2008年11月号 27頁
  186. ^ サムソン帯同のコンドル6着/仏G2 - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2022年2月25日閲覧。
  187. ^ メイショウサムソン帰国”. keiba.radionikkei.jp. 2022年2月25日閲覧。

参考文献

  • 江面弘也「メイショウサムソン 『メイショウさん』の夢」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
  • Sports Graphic Number』(文藝春秋
    • 2007年10月11日号
      • 石田敏徳「メイショウサムソン 義理人情と凱旋門。」
        • 同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
        • 同内容Web版あり『Sports Graphic Number Web』、2007年10月18日。
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1991年9月号
      • 白石俊「【今月の記録室】第27回七夕賞(GIII) シーキャリアー」
    •  2006年2月号
      • 「【2005年中央競馬ランキング】騎手成績」
    • 2006年4月号
      • 「【重賞プレイバック】第46回きさらぎ賞(GIII) ドリームパスポート」
    • 2006年5月号
      • 「【重賞プレイバック】第55回スプリングステークス(GII) メイショウサムソン」
    • 2006年6月号
      • 津田照之「【第73回日本ダービー熱戦の行方・クローズアップ】メイショウサムソン 石橋"まもる"から"せめる"への転機」
      • 黒須田守「【第73回日本ダービー熱戦の行方・優駿インタビュー】松本好雄オーナー 人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる」
      • 優駿編集部「【第73回日本ダービー熱戦の行方・杉本清の競馬談義 特別編】ゲスト石橋守騎手」
      • 増田英樹「【第73回日本ダービー熱戦の行方・優駿たちの故郷を訪ねて】林孝輝牧場 人と人との繋がりに恵まれて」
    • 2006年7月号
      • 柏木集保日刊競馬)「【日本ダービークロス・レビュー】総論」
      • 石田敏徳「【日本ダービー クロス・レビュー】ローテーション」
      • 吉沢譲治「【日本ダービー クロス・レビュー】血統・生産①」
      • 辻一郎(サラブレッド血統センター)「【日本ダービー クロス・レビュー】血統・生産②」
      • 「【重賞プレイバック】第73回東京優駿(GI) メイショウサムソン」
      • 吉沢譲治「【ライターズオピニオン】メイショウサムソンが二冠を制覇」
    • 2006年8月号
      • 石田敏徳「【ノンフィクション・ストーリー】実直な騎手人生が産んだ必然の出会い~石橋守が咲かせた22年目の大輪~」
      • 岡本光男(日刊スポーツ関西)「【トレセン・リポート栗東】暑さ対策は万全。栗東で夏を越す二冠馬メイショウサムソン」
    • 2006年9月号
      • 岡本光男「【『三冠』の秋がやってくる!】栗東トレセンで夏を過ごすメイショウサムソンを直撃!」
    • 2006年10月号
      • 優駿編集部(片山良三)「【三冠挑戦特別企画】河内洋調教師×石橋守騎手」
    • 2006年12月号
      • 石田敏徳「【第67回菊花賞詳報・レース回顧】夢破れた王者と急成長を見せた新王者」
      • 岡本光男(日刊スポーツ関西)「【第67回菊花賞詳報・敗因分析】メイショウサムソン 淀の菊、かく戦えり」
    • 2007年4月号
      • 岡本光男(日刊スポーツ関西)「【トレセン・リポート栗東】瀬戸口勉師の引退にともなって、メイショウサムソンが高橋成忠厩舎へ移籍」
    • 2007年5月号
      • 阿部珠樹「【ライターズオピニオン】メイショウサムソンがダービー以来の勝利」
    • 2007年6月号
      • 井上オークス「【クローズアップ】メイショウサムソン 二冠馬を包み込む素晴らしき絆」
      • 「【重賞プレイバック】第135回天皇賞(春)(GI) メイショウサムソン」
      • 「【重賞プレイバック】第51回大阪杯(GII) メイショウサムソン」
    • 2007年8月号
      • 小泉大尊「【Point of View】メイショウサムソン、ウオッカが凱旋門賞出走へ!」
      • 石田敏徳「【第48回宝塚記念 有力馬の敗因リポートPart1】メイショウサムソン&ウオッカ」
    • 2007年9月号
      • 江面弘也「【メイショウサムソン凱旋門賞への道 2007】高橋成忠調教師インタビュー 勝つことが前提のフランス遠征」
      • 優駿編集部「【杉本清の競馬談義 268】ゲスト高橋成忠調教師」
    • 2007年10月号
      • 江面弘也「メイショウサムソン 凱旋門賞への出走を断念」
    • 2007年11月号
      • 江面弘也「【秋のGIの主役たちと逆転を狙う挑戦者たち】メイショウサムソン」
    • 2007年12月号
      • 江面弘也「【クローズアップ】メイショウサムソン 来年の大きな目標へ向けて 踏み出した初めの一歩」
      • 増田英樹「【優駿たちの故郷を訪ねて】林孝輝牧場 ただ信念を貫いて」
      • 「【重賞プレイバック】第136回天皇賞(秋)(GI) メイショウサムソン」
      • 野村英俊(東京中日スポーツ)「【ベテラン記者の注取材ノート】第10回」
    • 2008年1月号
      • 優駿編集部(聞き手:鈴木淑子)「【JRA3000勝達成記念 優駿ロングインタビュー】武豊 "レースが楽しい"それが僕の原動力」
    • 2008年10月号
      • 江面弘也「【第87回凱旋門賞直前情報 ドキュメント】"チームサムソン" 期待と苦悩の果てに辿り着いた夢舞台」
      • 江面弘也「【第87回凱旋門賞直前情報 インタビュー】松本好雄オーナー 馬主歴35年の集大成」
    • 2008年11月号
      • 江面弘也「【第87回凱旋門賞詳報 レース回顧】周囲を魅了し続ける フランスの"天才少女"」
      • 江面弘也「【第87回凱旋門賞詳報 チームサムソン】濃密な2か月間」
      • デズモンド・ストーンハム(International Racing Bureau Limited、訳:奥岡幹浩)「【第87回凱旋門賞詳報 特別寄稿】実に収穫の多いイベントとなった第87回凱旋門賞」
      • 田中哲実「【第87回凱旋門賞詳報 特別寄稿】オーナーとの縁が深いサムソンの故郷浦河では、深夜にもかかわらず、皆その晴れ姿を見守っていた。」
    • 2011年6月号
      • 河村清明「【優駿激闘譜】メイショウサムソン 競馬を愛する人たちに支えられた幸せな馬」

外部リンク