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'''千住宿'''(せんじゅしゅく)とは、[[武蔵国]][[足立郡]]・[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]の[[荒川 (関東)|荒川]]([[隅田川]])曲流部に設置された宿場町。[[日光街道]]および[[奥州街道]]の初宿で[[江戸四宿]]の1つとされ、[[水戸街道]]はここから分岐していた。
[[Image:Senju in the Musachi provimce.jpg|thumb|400px|[[葛飾北斎]]「冨嶽三十六景 武州千住」]]
'''千住宿'''(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は[[日光街道]](正式には日光道中)および[[奥州街道]](正式には奥州道中)の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]から1番目の[[宿場|宿場町]]で、[[江戸四宿]]の一つである。
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== 概要 ==
== 概要 ==
千住宿は、[[武蔵国]][[足立郡]]・[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]の[[荒川 (関東)|荒川]](現[[隅田川]])曲流部に設置された宿場町。[[東海道]]の[[品川宿]]、[[中山道]]の[[板橋宿]]、[[甲州街道]]の[[内藤新宿]]と並んで江戸四宿と呼ばれた。[[慶長]]2年([[1597年]])に指定され、[[明治]]4年([[1872年]])に助郷制度・伝馬制廃止に伴い廃止された。
荒川北岸部にあった足立郡千住村は古くから水上交通の要所とされ、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[享徳の乱]]で[[下総国]]を追われて武蔵[[石浜城]]の拠点を移していた元の[[千葉氏]]嫡流(武蔵千葉氏)が支配していた。


日光街道および奥州街道の初宿で、[[水戸街道]]はここから分岐していた。[[荒川]]・[[綾瀬川]]が付近で交差しており[[運輸]]・[[交通]]の便に有効な場所であったことから、荒川で[[千住大橋]]沿いには[[#橋戸河岸|橋戸河岸]]が置かれていた。
[[小田原征伐]]後、[[徳川家康]]が[[江戸城]]に移され、[[文禄]]3年([[1594年]])に[[千住大橋]]が架けられると、急速に発展し、[[慶長]]2年([[1597年]])には人馬継立の地に指定されて千住町とされた。その後、[[寛永]]2年([[1625年]])に[[五街道]]の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、地子免除の代わりに伝馬役・歩行役を負担することとなった。その後も町域は広がり、[[万治]]元年([[1658年]])に隣接する掃部宿・河原町・橋戸町が、その2年後には荒川対岸の豊島郡側の小塚原町・中村町が加宿された。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれ、幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。
千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は[[御用商人|御用市場]]となった。
千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。


千住宿は[[岡場所]]としても発展した。また、千住宿近隣には[[行楽地]]が出現し[[浮世絵]]や絵画に描かれている。
更に千住宿は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。享保年間に野菜市場や陸付米穀問屋と呼ばれる地廻り(地元近隣産)の米を専門に扱う[[米問屋]]街が形成され、更に宿場の外れには[[小塚原刑場]]が設置されて[[寛文]]7年([[1667年]])には、付近の土地は[[回向院]]に与えられて、子院が建てられて刑死した人の埋葬と供養を行った。
千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、[[小塚原刑場]]が置かれている。


当時の千住宿は、現在の東京都[[足立区]][[千住|千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町]]、[[荒川区]][[南千住]]に相当する(現在の状況は、[[千住|足立区千住]]、[[南千住|荒川区南千住]]を参照)。
[[天保]]14年([[1843年]])の『日光道中宿村大概帳』によれば、千住宿には[[本陣]]1軒、[[脇本陣]]1軒、[[旅籠]]55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった<ref name = utsunomiya-juku>『日光道中宿村大概帳』に拠る。</ref>。


== 沿革 ==
明治維新後、千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は[[足立区]]、南側は[[荒川区]]に属している。
=== 背景 ===
千住の地名の由来は数説ある。一つに、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として[[文応]]元年([[1260年]])草創された勝專寺<ref>『[[新編武蔵風土記稿]]』に拠る。</ref>の寺伝によれば、[[嘉暦]]2年([[1327年]])に新井図書政次が[[荒川 (関東)|荒川]](現[[隅田川]]を指す。以下荒川と記述)で網で[[千手観音]]像を拾い、この地を'''千手'''と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。また、[[足利義政]]の[[妾|愛妾]]千寿の出生地であったからという説や、その他[[千葉氏]]が住んでいた地域であったからという説がある。


荒川北岸部の足立郡千住村は、古くから水上交通の要所とされていた。[[室町時代]]、[[室町幕府|幕府方]]、[[山内上杉家|山内]]・[[扇谷上杉家|扇谷上杉]]方、[[古河公方|鎌倉公方(古河公方)]]が争い[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の遠因の一つとなった[[享徳の乱]]([[1455年]]‐[[1483年]])で[[千葉氏|下総千葉氏]]により[[下総国]]を追われた[[千葉氏|武蔵千葉氏]]は武蔵[[石浜城]]の拠点を移し、この地を支配していたという。千住の近隣にある中曽根神社([[本木]])は、当時[[千葉自胤]]が[[渕江村|淵江郷]]入りした時に築かれた淵江城であったとも言われている[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/kids-sengokujidai.html]。
== 参考文献 ==

<references/>
=== 開発 ===
* 万年一「千住」(『国史大辞典 8』(吉川弘文館、1987年) ISBN 978-4-642-00508-1)
[[File:Village of Sekiya at Sumida river.jpg|thumb|400px|葛飾北斎『富嶽三十六景 隅田川関屋の里』<br />
* 大石庄一「千住」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)
元和2年(1616年)。石出掃部介の新田開発によって築かれた掃部堤(かもんづつみ)の上を走っている様子が描かれている。]]
* 内田忠賢「千住」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)

'''五街道の整備と千住宿の指定'''
{{see also|千住大橋|五街道}}
[[五街道]](日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、千住宿は日光・奥州街道の初宿に指定された。[[天正]]18年([[1590年]])[[小田原征伐]]後、[[徳川家康]]が関東移封となり[[江戸城]]に入城した。五街道の整備が進められ、[[文禄]]3年([[1594年]])荒川に[[千住大橋]]が架けられると、この地域は急速に発展した<ref name=":0" />。

[[慶長]]2年([[1597年]])には[[人馬継立]]の地に指定され千住町とされた。その後、[[寛永]]2年([[1625年]])に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、[[地子免許|地子免除]]の代わりに[[伝馬]]役・歩行役を負担することとなった<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-nikkodochu.html 日光道中と千住宿]足立区役所(更新日:2011年4月19日)、2016年6月12日閲覧</ref>。

'''千住宿の開発'''
{{see also|[[千住大橋#橋の歴史|千住大橋の歴史]]|宿場}}
千住宿の開発は、交通量の増大により宿場町と共に町域の拡大がすすめられた。荒川に千住大橋がかけられ、千住の地は江戸(日本橋)から2[[里]]、奥州・水戸両街道の江戸への出入り口の関門として急速に発達した。
交通量増大により千住宿はその後も町域が広がり、『千住旧考録』によると石出掃部介の[[新田開発]]によって[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に掃部堤(かもんづつみ)が築かれ、[[万治]]元年([[1658年]])に隣接する掃部宿(かもんじゅく)・河原町(かわらちょう)・橋戸町(はしどちょう)が開発された<ref>掃部宿開発の記録『千住旧考録』に拠る。</ref>。その2年後には荒川対岸の[[豊島郡]]側の[[万治]]3年([[1660年]])に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)・中村町(なかむらまち)が宿場に加えられた<ref name=":0" />。元の千住宿は千住一~五丁目に分けられて本宿、最初に追加された千住掃部宿・千住河原町・千住橋戸町3町は新宿、中村町・小塚原町対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれた。

『日光道中宿村大概帳』によると、[[天保]]14年([[1843年]])千住宿には[[本陣]]1軒、[[脇本陣]]1軒、[[旅籠]]55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった<ref name = utsunomiya-juku>『日光道中宿村大概帳』に拠る。</ref>。その他、掃部宿には「[[一里塚]]」<ref>宝暦元年(1751年)『奥州道中 増補行程記』、文化3年(1806年)『日光道中分間延絵図』、織畑家文書『千住宿宿並図』に拠る。</ref>、「[[高札|高札場]]」、千住一丁目に「[[問屋場]] 貫目改所」が設置された。[[元禄]]9年([[1696年]])には不足する人馬を周辺の村々から集める[[助郷]]制(すけごうせい)が定められた。

=== 繁栄 ===
[[File:Hokusai15 gay-quariers.jpg|thumb|400px|[[葛飾北斎]]「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」]]
'''千住宿の賑わい'''

千住宿の賑わいは、『[[新編武蔵風土記稿]]』から当時の状況をうかがえる。「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とあり<ref>『[[新編武蔵風土記稿]]』に拠る</ref>、江戸市街の喉もとで[[奥州街道]]、[[水戸街道]]の始点として、[[日光市|日光]]・[[東北地方|東北]]方面への旅人で賑わったという。幕末期には家は2,400軒近い。人口は約1万人に達する江戸四宿最大級の宿場町になった。
[[文政]]4年(1821年)の調べによると、江戸[[参勤交代|参勤]]の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住の宿を往来していた。

'''千住の宿場町'''

千住の宿場町の構成は、千住二丁目と掃部宿に残る文政6年([[1823年]])の記録がある。職業が明らかなものだけについてみると、[[フナ|鮒]]屋8軒、穀屋、[[八百屋]]、[[胡粉]]屋、[[百姓]]各2軒、[[餅]]屋、[[肴]]屋、[[桶]]屋、紫刈屋、[[鍵]]屋、[[鍛冶|鍛治]]屋、棒屋、[[左官]]、[[大工]]、[[コイ|鯉]]屋、[[藁|わら]]屋、[[銭湯|湯屋]]、[[木材|木材屋]]各1軒である。その他職業が分らないもの23軒、[[宿泊施設|宿屋]]は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている<ref name=":0">佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年。</ref>。一角には接骨医として著名な[[名倉家]]が診療所を構え、患者で賑わっていたという<ref>
{{Cite web
| title = 名倉医院
| work = あだちのみどころ発見
| publisher = 足立区観光交流協会
| date = 2016年6月11日
| url = http://adachikanko.net/midokoro/archives/28
| accessdate = 2016年6月11日}}
</ref>。

宿場の外れには[[小塚原刑場]]が設置されて[[寛文]]7年([[1667年]])には、付近の土地は[[回向院]]に与えられて、子院が建てられて刑死した人の[[埋葬]]と[[供養]]を行った<ref>石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。</ref>。

=== 災害 ===
'''安政江戸地震'''
{{see also|安政江戸地震|安政の大地震}}
[[安政]]2年([[1855年]])11月11日9時頃、[[安政江戸地震]]が起こり、関東一円に被害をもたらした<ref>中村操・松浦律子「1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布」『歴史地震』第26号、歴史地震研究会、2011年、33-64頁。</ref>。千住宿もその被害にあっており、地震による焼失面積は千住周辺の箕ノ輪辺では19,215㎡におよんでいたという<ref>中村操・茅野一郎・松浦律子「安政江戸地震(1855)の江戸市中の焼失面積の推定」『歴史地震』20、歴史地震研究会、2005年、223-232頁。</ref>。また、[[成田山新勝寺]]の『江戸開帳諸用留』によると「十一日(1856年3月17日)千住宿勝専寺世話人 鰹節屋下川小左衛門 右之者罷越先例之通リ 本尊様御宿申出、外ニ本陣之義是迄下川八郎兵衛方ニ相勤候得共、去年中地震ニ而及大破候ニ付此度者千住壱丁目鞍屋長右衛門方ニ而本陣致候趣申出、右同寺世話人連名書持参左之通(後略)」とあり家屋の全壊あるいは半壊があったことが示されており<ref name=":2">『佐野家文書』によると、「乍恐以書付御訴奉申上候(大地震ニ而潰家出来申上)」とある。</ref>、『佐野家文書』(足立区立郷土博物館蔵)にもまたその被害の大きさが記録されている<ref name=":2" />。

=== 廃止 ===
[[File:1886 Meiji 19 Japanese Map of Tokyo, Japan - Geographicus - Tokyo-meiji19-1886.jpg|thumb|400px|明細改正東京新図 [[1886年]](明治19年) <br />
右上に千住が確認できる。荒川北岸に千住北組・中組があり、南岸に南組があり、[[陸前浜街道]]([[水戸街道]])が千住北組で奥州街道から分岐している]]
'''助郷制度の廃止と陸運会社の成立'''

[[明治|明治時代]]になると、[[助郷]]制度が廃止され、代わりに陸運会社が置かれていった。
明治初期には、交通の面に関していえば旧幕府時代の本陣、問屋場や[[wikt:弊害|幣害]]の多かった徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的とした助郷制度等の封建的な交通機構は廃止された。明治4年に政府は従来の伝馬所を廃止し、各宿駅に[[陸運会社]]を設立した<ref>中島義一 「明治前期における埼玉県の交通」『新地理』Vol.7 No.3-4 日本地理教育学会 1959年</ref>。

'''町村の再編成'''

明治時代には、[[明治維新]]による[[1878年]](明治11年)地方制度に関する[[太政官布告]]「[[郡区町村編制法]]」の施行を経て、南組を[[東京府]][[北豊島郡]][[南千住町]]、北組、中組は併合して同府[[南足立郡]][[千住町]]とし郡役所を同町に置いた。千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は[[足立区]]、南側は[[荒川区]]に属している<ref>片柳勉「東京都足立区における土地利用の変化と用途地域の対応」、『季刊地理学』Vol.46、東北地理学会、1994年、107-125頁。</ref>。

== 経済 ==
千住宿は[[日光街道]]および[[奥州街道]]の初宿で、[[水戸街道]]はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差していたことから水運(特に[[舟運]])の中継地点として橋戸河岸(千住河岸)が置かれていた。また、河原町には千住青物市場(やっちゃ場)が設置されていた。このように、内陸交通の分岐地点、水運交通の中継地点、問屋の集中などから、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。

=== 市場と問屋 ===
'''千住青物市場'''

千住青物市場は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。『南足立郡誌』によると、千住青物市場は[[後陽成天皇]]の[[天正]]年間([[豊臣秀吉]]時代)に始まったという。この地は荒川に沿い関屋の里と称していたが、この時期は部落とされるものでなく人家の散在し、農家や漁夫により農産物、川魚の交換が行われた村に過ぎなかった。しかし、奥州街道、水戸街道の交通の要所となったことにより、戸数が増加したとある<ref>東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年</ref>。

江戸時代、[http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/756/Default.aspx 神田]・[[駒込]]・千住の三市場は幕府の[[御用市場]]として青物を上納していた。『南足立郡詩』によると、享保20年([[1735年]])3月市場の、『継続書記録』には[[後光明天皇]]の[[正保]]([[徳川家光]]時代)、[[後西院天皇]]の[[明暦]]([[徳川家綱]]時代)年間にはすでに市場として営業していた。千住大橋の架橋に伴い、農産物・川魚の中継地点となり、[[明暦]]より[[中御門天皇]]の[[享保]]([[徳川吉宗]]時代)の時期には農産物・川魚などの産物が集合・出荷されており、幕末には、[[武蔵国|武蔵]]、[[上総国|上総]]、[[下総国|下総]]、[[常陸国|常陸]]方面の農産物も集まり繁栄した。幕府の御用品を調達していたという<ref>東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年</ref>。

'''千住青物市場の問屋'''

千住青物市場には問屋が集まった。『南足立郡誌』によると江戸時代には、千住市場は毎朝[[五穀]]、前栽物および[[川魚]]の市を開かれていた。問屋は米穀問屋を中心に、玄米を扱った黒米問屋、前栽問屋、川魚問屋があった。前栽問屋には[[レンコン|蓮根]][[クワイ|慈姑]]問屋、[[芋|芋類]]を専門とした土物問屋、菜類・胡瓜を専門とした葉柄問屋の三種類あった。蓮根慈姑問屋・土物問屋の農産物は千住宿周辺および埼玉地方を中心で、葉柄問屋の産物は中川沿岸より江戸川付近を主要産地であった。幕府御用達の納品は川魚の外 、蓮根慈姑芋類などがあり、これを納める問屋総代、納品の上に御用札を建て、御用品を江戸橋の御納屋に調達した。納品当市場にて御用品が不足するときには、神田市場などから物品を調達し納入していたという<ref>東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年</ref>。また、幕府御用達の納品の調達は、千住市場または神田市場から納品する際には、大名行列であっても、その理由を問わずともこれを横切る事があったという<ref>東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年</ref>。

'''千住宿周辺の産物'''

千住宿周辺の産物には、農産物、川魚類などがあった。農産物は、千住宿周辺の農村で生産・出荷され、千住青物市場を通して出荷圏も拡大した。江戸時代に千住宿周辺で栽培された野菜類には、[[西新井]]村・[[江北町立江北中学校|江北]]では「[[セリ|せり]]」。[[梅島町|小右衛門新田]]では「[[サトイモ|里芋]]」。[[葛飾郡]]・[[荏原郡]]と並んで[[足立郡]]では「[[カブ|かぶ]]」、「千住ねぎ」の名で知られる「[[ネギ|ねぎ]]」。[[舎人村 (東京府)|舎人村]]では「[[クワイ|くわい]]」。その他「[[ハス|はす]]」、「[[コマツナ|小松菜]]」、「[[ミツバ|みつば]]」、「[[ミズナ|京菜]]」、「[[キュウリ|きうり]]」、「[[ウリ|しろうり]]」、「[[枝豆]]」、「[[ユリ根|ゆり根]]」(食用ゆり)などが栽培出荷されたという<ref>佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年
</ref>。川魚類は、[[安政]]四年([[1857年]])の『河魚問屋仲間議定書』によると、江戸御丸御用は川魚類でも[[ハモ|鱧]] ([[ウナギ|鰻]] )、[[ドジョウ|鰌]](どじょう)などがあったという<ref>『河魚問屋仲間議定書』とは千住川魚組合の規約である。佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年</ref>。

また、『[[新編武蔵風土記稿]]』によると、「農隙に[[浅草紙]]といへる紙を漉きて江戸へひさげり」とあるように、千住、[[梅田]]、西新井の農村には、発祥地の浅草が市街地化に伴い、[[紙すき]]を農業の副業としていた<ref name=":0" />。

=== 河岸 ===
[[ファイル:100 views edo 103.jpg|thumb|310px|[[歌川広重]]作 [[名所江戸百景]]より「千住の大はし」<br />荒川に千住大橋が架けられ、両岸の[[船着き場]]には[[高瀬舟]]・[[平田舟]]が止められ、南岸には材木が置かれている]]
'''橋戸河岸'''

橋戸河岸(千住河岸とも言われる)は、千住近隣に交差する綾瀬川・荒川(新河岸川)に置かれた[[河岸|河岸場]]である。江戸時代には、[[河川舟運]]が発達し、河川の岸に[[船着場]]が置かれ物資の積み上げ・下しが行われた。千住では、千住大橋近隣にて、橋戸河岸が置かれ<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-nikkodochu.html 日光道中と千住宿]足立区(更新日:2011年4月19日)、閲覧2016年4月9日。</ref>、河川舟運により、物資の中継基地として、[[綾瀬川]]・[[荒川]]からの舟が発着していた。荒川では、川越から江戸へ物資の往来をしていた新河岸川舟運があった。

新河岸川舟運は、[[寛永]]十五年([[1638年]])[[川越城]]主[[堀田正盛]]が[[東照宮]]再建の資材運搬のために荷揚場を設置したのが端緒とされ<ref>[http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/024.pdf 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』]一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)</ref>、
橋戸河岸では、「秩父から荒川の水運を利用して[[高瀬舟]]で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ」という<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-nikkodochu.html 日光道中と千住宿]足立区(更新日:2011年4月19日)、閲覧2016年4月9日。</ref>。荒川の水運を利用した材木については、荒川区教育委員会『千住の河岸』の看板によると、「『両岸渡世向書物』では、これら千住の[[木材|材木]]商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる」とあり<ref>『両岸渡世向書物』は荒川区で平成9年指定された有形文化財(古文書)であり、荒川ふるさと文化館に所在されている。</ref>、また、「材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った」という<ref>荒川区教育委員会『千住の河岸』の看板に拠る。</ref>。また、[[歌川広重]]による「[[名所江戸百景]] 千住の大はし」では、千住大橋のそばに船着き場と材木が置かれている状況が描かれている。

新河岸川舟運により運搬された主な物資は、[[川越五河岸]]の船積み荷物によると、江戸より登ってくるものが上り荷で、[[麻]]や[[綿]]及び[[織物]]や[[染物]]に関する原材料、[http://nbz.or.jp/?page_id=58 荒物]・[[小間物]]類の[[日常品]]、[[砂糖]]・[[酒]]・[[酢]]・[[塩魚]]類の食料品、[[肥料]]([[干鰯]]・[[糠]]・[[木灰]]・[[油粕]])・[[塩]]・[[石]]などが多かった。江戸への下り荷には[[米]]・[[麦]]・[[雑穀]]の[[俵物]]、[[材木]]・[[障子|戸障子]]・[[木炭]]・[[石灰]]、[[醤油]]・[[油]]などが送られた。材木は[[青梅]]・[[飯能市|飯能]]・[[名栗村|名栗]]・[[越生町|越生]]方面の材が主で、[[石灰]]は[[青梅]]・飯能周辺が産地であったという<ref>[http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/024.pdf 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』]一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)</ref>。

=== 近代 ===
[[明治]]時代になると、千住は水利の好条件を生かし発展した。舟便のよいことが近在農村に広く知られるようになり、また、千住青物市場(やっちゃ場)は江戸時代から継続して行われ、昭和20年代まで青物、川魚の朝市が毎朝のように開かれていた<ref> 佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年</ref>。
また、[[1879年]](明治12年)[[千住製絨所|官営千住製絨所]]が[[南千住]]側に創設された<ref>石川 章一、「羊毛工業百年を記念して」、『繊維学会誌』Vol.35 No.9 繊維学会、1979年</ref>。[[1897年]]には[[日本鉄道]]により[[常磐線]]の[[貨物線|貨物支線]]に[[隅田川駅]]([[貨物駅]])(現[[東日本旅客鉄道]]・[[日本貨物鉄道]]所属)が設置された<ref>藤井 三樹夫、「河川舟運の衰退と鉄道網形成との関係に関する一考察」、『土木史研究』Vol.17、土木学会、P323-332、1997年</ref>。そして、1905年(明治38年)には、[[東京電燈|東京電燈株式会社]]により[[千住火力発電所]]が置かれた(初代1905年(明治38年)-1917年(大正6年)(北豊島郡南千住町)、2代目[[1926年]](大正15年)-1964年(昭和39年)(南足立郡千住町))<ref>[https://www.kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol.29.pdf「Vol.29 日本初の蒸気タービン発電所「千住発電所」」『関東地方の「電気ゆかりの地」の調査について』リーフレット]、一般社団法人日本電気協会関東支部(2016年3月28日配信)(2016年4月15日閲覧)</ref><ref>佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年</ref>。

<gallery>
File:Rennga.jpg|千住製絨所跡。
File:Nishi arai bashi old.jpg|千住火力発電所。
File:SumidagawaStation.JPG|JR貨物隅田川駅。
File:Adachi wholesale market tokyo 2014.jpg|東京都中央卸売市場足立市場(2014)。
</gallery>

== 遊郭 ==
千住宿は江戸四宿であったことから、品川宿、板橋宿、内藤新宿に並び、宿屋(旅籠)には幕府公認の[[飯盛女]]([[私娼]])が置かれ、江戸周辺の遊郭の一つとして発展した。

=== 岡場所 ===
[[岡場所]]とは、江戸時代唯一の[[幕府]]公認の[[遊郭]]である[[吉原遊廓|吉原]]に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸では[[私娼]]を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の[[飯盛女]](飯売女・飯売)が置かれていた<ref>平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年</ref>。これらの岡場所のルーツとなるものに、代表的なものが湯女というものがいたという<ref>石塚豊芥子「岡場遊郭考」『未刊隨筆百種 第1 』三田村鳶魚/校訂 臨川書店 1969年</ref>。

江戸時代で岡場所の最盛期となるのは、[[宝暦]]―[[天明]]年間([[1751年]]―[[1788年]])という<ref>平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年</ref>。[[明和]]元年([[1764年]])には宿場の旅籠が衰退し、旅人が減少したことを理由に、飯盛女の数を一軒につき二人という制限を廃止し、品川宿には500人、千住宿・板橋宿には150人の飯盛女を置くことを許可された<ref>東京都「品川宿食売増人御免一件之書留」『東京市史稿』産業篇21 1977年</ref><ref>東京都「品川宿食売増人御免一件之書留」『東京市史稿』産業篇21 1977年</ref>。(しかし、甲州街道の内藤新宿は享保三年([[1718年]])に廃駅とされていたこの時期に許可はない。)その後、内藤新宿は、明和9年([[1772年]])に再興され、千住宿・板橋宿同様に150人の飯盛女を置くことを許可された<ref>平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年</ref>。

千住宿の宿屋は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている。これらの家族、使用人、問屋役などの他に、旅籠1軒に原則的には2人まで許された飯売女など多くの人が集中し、経済の中心地を形成していた。
当時、[[新河岸川舟運]]には船頭が唄った「千住節」<ref>「川越舟歌」と呼ばれることもあるが、そのように名付けられるのは新しく、当初「千住節」と言われていたという。[http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/024.pdf 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』]一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)</ref>があった。「千住節」とは、千住宿にあった遊郭からはやったもので、二人の船頭が合いの手を入れて口から出まかせに唄ったものであり<ref>[http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/024.pdf 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』]一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)</ref>、その中には、「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」という一節があった。

=== 近代 ===
明治時代になると、岡場所は遊郭となった。[[1871年]](明治4年)[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]、千住黴毒院(ばいどくいん)が開設され、[[宿娼妓]]に[[梅毒]]検査が行なわれている。『経済及統計』(内務省・明治23年2月)によれば、[[1883年]](明治16年)の千住宿の売娼妓数374人、買客数43,000人、[[1888年]](明治21年)にはそれぞれ466人、65,000人との記録がある。いずれも二廓四宿においては[[内藤新宿]]、[[板橋宿]]を上回っていた。

== 刑場 ==
[[File:Kubikiri Jizo.JPG|thumb|250px|小塚原刑場の首切地蔵]]
江戸北端の刑場は千住宿の小塚原町に置かれ、また小塚原には[[回向院]]が設置され死者の埋葬と供養が行われた。また、[[小塚原刑場]]では江戸では、小塚原刑場と小伝馬町牢屋敷でのみ行われていなかった腑分があったことから、杉田玄白などによる『ターヘル・アナトミア』の日本語訳の際、小塚原刑場で見学され、『[[解体新書]]』の刊行が行われた。

=== 小塚原刑場 ===
[[慶安]]4年([[1651年]])千住宿[[南千住町|小塚原町]](現荒川区南千住)には、「[[小塚原刑場]]」が位置づけられた。小塚原の[[仕置場]]では[[磔刑]]・[[火刑]]・[[梟首]](獄門)が執行された<ref name=":1">千葉貢「都市のなかの“地域文化”」『地域政策研究』第17巻第2号、高崎経済大学地域政策学会、2014年。</ref>。小塚原刑場では[[腑分け]]も行われた。江戸の刑場には小塚原刑場の他に、東海道沿いにあった[[鈴ヶ森刑場]](東京都品川区南大井)、[[大和田刑場]](八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があったが、鈴ヶ森刑場、大和田刑場で腑分けをした記録はなく、腑分けが行われたのは[[伝馬町牢屋敷|小伝馬町牢屋敷]](日本橋小伝馬町)と小塚原刑場であったという<ref>石出猛史、「江戸の腑分」、『千葉医学雑誌』74巻、千葉医学会、1998年。</ref>。

[[寛文]]9年([[1699年]])には、[[下谷]][[浅草]]の各宗派寺院内にあった五三昧(火葬寺)19の寺が小塚原に移転し、19世紀初頭に、江戸の町の北の地に一大火葬埋葬センターとなった<ref>石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。</ref>。石出猛史によると「腑分を小塚原の仕置場で行うように定めた町奉行発給の文書は見出されていない。しかし寺と埋葬地が揃った仕置場は、腑分を行う場所として最も適していたであろう」という<ref>石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。</ref>。

明治初期に西欧と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府が廃止したが、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという<ref>荒川区「延命寺内掲示板」による。</ref>。

=== 回向院 ===
[[画像:観臓記念碑.JPG|thumb|250px|観臓記念碑]]
[[回向院]]は、[[明暦]]3年([[1657年]])1月の[[明暦の大火|明歴の大火]]([[振袖火事]])の犠牲者を葬るために幕府が建立した寺であった。[[万治]]年間([[1658年]]-[[1661年]])[[町奉行]]により、牢死者・行路人の埋葬を命ぜられた。[[寛文]]2年(1662年)町奉行から小塚原町の仕置場に寺地を与えられて、別院(常行堂)を建立し埋葬された者の供養した<ref>石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。</ref>。

[[1741年|寛保元年]]([[1741年]])には高さ3mほどの首切地蔵が建てられた。[[文政]]5年([[1822年]])、[[南部藩]]の臣・相馬大作(下斗米秀之進)がここで処刑されて以後、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり[[橋本左内]]、[[吉田松陰]]、[[頼三樹三郎]]等[[安政の大獄]]で[[処刑]]された志士たちもここに[[埋葬]]されている<ref name=":1" />。

=== 『解体新書』 ===
『解体新書』とは、杉田玄白・前野良沢により刊行されたヨハン・アダム・クルムスの『解剖表』の日本語訳である。明和8年3月4日(1771年4月18日)で小塚原刑場で行われた腑分けがあり、[[杉田玄白]]・[[前野良沢]]を誘い見学をおこなったことにより、[[西洋医学]]の導入のきっかけとなる『解体新書』の翻訳が行われた。
両者は、クルムスの解剖書を持参し、小塚原刑場で行われた腑分けを見学し臓器と解剖図が非常によく似ていることから、ドイツ人[[ヨハン・アダム・クルムス]]の『解剖表』([[ターヘル・アナトミア]])の蘭訳本を日本語訳が行われることとなった。
[[安永]]3年([[1774年]])杉田玄白によって『解体新書』(本文4巻、付図1巻)が発行された<ref>酒井シヅ、「解体新書」、『CLINICIAN』、 No.437、1995年。</ref>。

== 行楽地 ==
千住宿周辺の行楽地は、江戸時代中頃に誕生した江戸周辺の行楽地の一つである。
千住宿周辺の行楽地とされたものには、[[總持寺 (足立区)|西新井大師]]、[[大鷲神社 (足立区)|大鷲神社]](おおとりじんじゃ)、牛田薬師(西光院・さいこういん)、[[性翁寺]](しょうおうじ)などの寺社、関屋の里(せきやのさと)<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2017hugakusannjyuurokkei.html 関屋の里]足立区(2016年5月配信)(2016年4月閲覧)</ref>、[[鐘ヶ渕]](かねがふち)、[[綾瀬川]]など自然の美しい場所、[[千住大橋]]など千住宿周辺の交通の要に当たる場所であったことから多くの人びとが訪れた。千住周辺の名所は、自然発生的に名所となったものというよりも、人びとの手によって作られ、名所となっていった場所が多いことが特徴であったといわれている<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-mesho.html 名所の誕生]足立区(更新日:2011年4月19日)、(2016年4月17日閲覧)。</ref>。

千住に関わる数々の浮世絵・絵画が確認されており、有名なものに「[[冨嶽三十六景]]」(天保二年-四年(1831年-1835年)発表)<ref>田中久和、「葛飾北斎筆『富嶽三十六景』に関する一試論」、『美術科研究』21、大阪教育大学・美術教育講座・芸術講座、2009年。</ref>、「[[名所江戸百景]]」、「隅田川八景」、「[[江戸名所図会]]」(天保5年-7年(1834年-1836年)などがある。

'''葛飾北斎『冨嶽三十六景』'''

*『冨嶽三十六景 武州千住』
:武州千住は、農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2015hugakubusyuusennjyu.html 冨嶽三十六景と千住 北斎が描いた場所はどこ?]足立区役所(更新日:2016年4月7日)、(2016年4月15日閲覧。)</ref>。
*『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』
:関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2017hugakusannjyuurokkei.html 冨嶽三十六景 隅田川関屋の里]足立区役所(更新日:2016年4月7日)、(2016年4月15日閲覧。)。</ref>。
*『冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二 』
:「従千住花街眺望ノ不二」は小塚原町・中村町に相当する図という<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2015hugakubusyuusennjyu.html 冨嶽三十六景と千住 北斎が描いた場所はどこ?]足立区役所(更新日:2016年4月7日)、(2016年4月15日閲覧。)</ref>。
'''歌川広重『名所江戸百景』'''<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-hiroshige.html 歌川広重(うたがわひろしげ)]足立区役所(更新日:2011年4月22日)、(2016年6月12日閲覧)
</ref>
*『名所江戸百景 千住の大はし』
*『名所江戸百景 綾瀬川鐘ヶ渕』
'''歌川広重二代『江戸名勝図会』'''
*『江戸名勝図会 関屋の里』
'''斎藤月岑『江戸名所図絵』'''<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-edomeshozue.html 江戸名所図会(えどめいしょずえ)]足立区役所(更新日:2011年4月22日)、(2016年6月12日閲覧)</ref>

『江戸名所図会』は、江戸時代を代表する地誌で、江戸名所の集大成といわれ、天保五年(1834)と天保七年(1836)の二度に分け、7巻20冊が刊行された。千住周辺は、第六巻・第七巻に収録されている<ref>[http://japanknowledge.com/contents/edomeisho/index.html 江戸名所図絵]JapanKnowledge、(2014年4月現在)、(2016年4月17日閲覧)。</ref><ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/ku/koho/opendata/photo/ukiyoe04.html 足立区画像オープンデータ:浮世絵・江戸絵画(4)]足立区(更新日:2015年8月6日)、(2016年4月17日閲覧)。</ref>。
*第六巻
「六阿弥陀廻(ろくあみだめぐり)」、「光茶銚(ひかりちゃがま)」、「西新井大師堂」、「千住川」など。
*第七巻
「新宿渡口(にいじゅくわたしば)」、「関屋天満宮」。

== 文化人 ==
千住宿は、奥州街道・日光街道の初宿であることから旅人が宿をとった。江戸四宿の一つであり江戸在住の文化人との交流がある地でもあった。そして、千住宿の住民には文化人がいた。
[[File:Buson OKUnoHOSOMICHI.JPG|thumb|450px|蕪村画 おくのほそ道]]'''松尾芭蕉『おくのほそ道』'''

[[松尾芭蕉]]の『[[おくのほそ道]]』は、[[元禄文化]]期に活躍した[[俳人]]による[[紀行文]]である。[[松尾芭蕉]]の『おくのほそ道』は、元祿二年([[1689年]])深川の芭蕉庵を出発し、「門人に見送られ、彼等と千住で別れる時に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠み、それを「矢立てのはじめ」として、そこから旅が始」まったという<ref>新間一美 「『奥の細道』と白居易の「三月尽」」『女子大國文』京都女子大学国文学会 第百五十三号 2013年</ref><ref>[[逸翁美術館]][[与謝蕪村]]『奥の細道画巻』に拠る</ref>。

'''下谷の三幅対'''

[[下谷の三幅対]]とは、江戸時代後期の[[下谷]](江戸府中)在住の[[酒井抱一]]、[[谷文晁]]、[[亀田鵬斎]]の3人を指す。三人は多くの人たちと交流があり、千住宿周辺でも[[建部巣兆]]、[[山崎鯉隠]]との交流があった。千住宿周辺で活躍した文化人には[[琳派|江戸琳派]]の祖である酒井抱一に弟子入りした[[中野其豊]]、[[村越其栄]]、[[村越向栄]]、画家谷文晁の門下には[[船津文淵]]、河内半蔵がいた。[[亀田鵬斎]]も千住周辺にゆかりのある人物だった<ref>足立区、『文化遺産調査記者会見』、足立区、平成28年、1-8頁。</ref>。

<gallery caption="下谷の三幅対と関係者の肖像画・作品" mode="packed">
File:Natu-aki kusa zu byoubu.jpg|酒井抱一の銀屏風 「風雨草花図」 (通称:「夏秋草図屏風」、右隻)
File:谷文晁 近世名家肖像.jpg|谷文晁 近世名家肖像
File:Portrait of Kameda Bohsai.jpg|亀田鵬斎像 谷文晁画
File:Takebe Socho by Ri'in.jpg|建部巣兆 鯉隠筆
ファイル:四季草花図小襖.jpg|舩津文渕 金地着色「四季草花小襖」嘉永6年(1853)
File:大田南畝 近世名家肖像.jpg|大田南畝 近世名家肖像
</gallery>

'''千住酒合戦'''

[[酒合戦|千住酒合戦]]とは、[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])10月21日、[[千住]]([[東京都]][[足立区]])の[[飛脚]]問屋宿の中屋六衛門の六十の祝いとして催されたものである。現在の千住一丁目にあった飛脚宿、中屋を会場にした。
審査員として、下谷の三福対である[[琳派|江戸琳派]]の祖として知られる[[酒井抱一]]、絵師[[谷文晁]]、、[[儒学者]]・[[書家]]の[[亀田鵬斎]]の他、絵師[[谷文一|谷文一、]][[戯作者]]の[[太田南畝]]など、著名人が招かれた<ref>足立区立郷土博物館、「千住酒合戦から二〇〇年デザインアイデア合戦とパネル展」、『足立史談』第572号、足立区教育委員会・足立史談編集局、2015年</ref><ref>[http://www.archives.go.jp/owning/monthly/0810/archives_index.html 国立公文書館 今月のアーカイブ『街談文々集要』]国立公文書館(2008年10月配信)、(2016年4月14日 閲覧)。</ref>。

酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この[[酒合戦]]は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した<ref>足立区立郷土博物館、「千住酒合戦から二〇〇年デザインアイデア合戦とパネル展」、『足立史談』第572号、足立区教育委員会・足立史談編集局、2015年</ref>。<br />
'''千住酒合戦に関する記録'''
* 『高陽闘飲図巻』
* 『高陽闘飲序』[[亀田鵬斎]]
* 『後水鳥記』<ref>[http://jmapps.ne.jp/adachitokyo/det.html?data_id=1075 「後水鳥記」]足立区立郷土博物館 資料情報、(2016年4月14日 閲覧)。</ref><ref>画像データは足立区役所が公開している。[http://www.city.adachi.tokyo.jp/ku/koho/opendata/photo/ukiyoe01.html 足立区画像オープンデータ:浮世絵・江戸絵画(1)]、足立区(更新日:2015年8月6日)、(2016年4月14日 閲覧)。</ref>[[谷文一]]、[[大田南畝]]。
* 『擁書漫筆』三<ref>「擁書漫筆」の筆者の人名は小山田与清ともいう。[http://mgr.nihu.jp/nihuBI/ja/person/Oyamada_Tomokiyo.html 小山田与清]、人間文化研究機構人名一覧、(2016年4月14日 閲覧)。</ref><ref>画像データは足立区役所が公開している。[http://www.city.adachi.tokyo.jp/ku/koho/opendata/photo/ukiyoe01.html 足立区画像オープンデータ:浮世絵・江戸絵画(1)]、足立区(更新日:2015年8月6日)、(2016年4月14日 閲覧)。</ref>[[小山田与清]](高田與清)。
* 『酒合戦番付』
* 『千住酒合戦』(木版)<ref>画像データは足立区役所が公開している。[http://www.city.adachi.tokyo.jp/ku/koho/opendata/photo/ukiyoe01.html 足立区画像オープンデータ:浮世絵・江戸絵画(1)]、足立区(更新日:2015年8月6日)、(2016年4月14日 閲覧)。 </ref>。
* 『街談文々集要』(万延元年(1860年)序)<ref>文化文政年間に話題となった事件や噂話を拾い集めた書。文々は文化文政の略。</ref><ref>[http://www.archives.go.jp/owning/monthly/0810/archives_index.html 国立公文書館 今月のアーカイブ『街談文々集要』]国立公文書館(2008年10月配信)、(2016年4月14日 閲覧)。</ref>石塚重兵衛(号:豊芥子)。

'''建部巣兆'''

[[建部巣兆]](たけべ そうちょう)は、江戸時代中後期の俳人、[[絵師]]で、千住河原町に在住した。「千住宿」の掃部宿、河原町、橋戸町の住人を中心に構成された[[俳諧]]集団「千住連」を率い、俳諧活動を行った。[[夏目成美]](なつめせいび)・鈴木道彦(すずきみちひこ)・小林一茶(こばやしいっさ)を始め、義兄の亀田鵬斎、酒井抱一、大田南畝との交流があった。
建部巣兆の主要な作品には「蛍狩図」、「江戸十二ヶ月 吉原」、「江戸十二ヶ月 向島」、「江戸十二ヶ月 浅草」、「盆踊図」、「芭蕉像」、「俳画 冨士詣」、「西行庵図」などがある<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/ku/koho/opendata/photo/ukiyoe02.html 足立区画像オープンデータ:浮世絵・江戸絵画(2)]足立区(更新日:2015年8月6日)、(2016年4月17日閲覧)。</ref>。

'''小林一茶'''

[[小林一茶]]は、江戸時代中後期の江戸時代を代表する[[俳諧|俳諧師]]の一人である。千住宿在住の建部巣兆との交流があった<ref>渡辺弘「小林一茶の俳諧サークルの教育史的意味について」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学心理学教育学』№28、[[慶應義塾大学|慶応義塾大学大学院社会学研究科]]、1988年、123-133頁</ref>。
炎天寺(足立区六月)に小林一茶の句にゆかりあると伝えられている俳句がある。
* 「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化十三年四月)
* 「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化十三年九月)
'''安藤昌益'''

[[安藤昌益]]は、江戸時代中期に、現在の[[青森県]][[八戸市]]に住み、町医者をしながら、他に類を見ない独創的な思想を生んだ思想家と言われる<ref>[http://www.shoeki.org/?page_id=20 安藤昌益とは]、安藤昌益資料館(2016年4月2日配信)、(2016年4月17日閲覧)。</ref>。主要な著作物に『自然真営道』があった。
[[1899年]](明治32年)江戸時代の思想家安藤昌益の著書『自然真営道』が[[狩野亨吉]]により発見された。『自然真営道』はもともと足立区千住の穀物問屋「藁屋」の橋本律蔵([[1824年]]-[[1882年]])が旧蔵していたものであった。それが[[古書店]]に買い取られ、そこで狩野の知るところとなったという<ref>藤井義博、「安藤昌益研究序説」、『藤女子大学紀要』第 47号、第II部、藤女子大学、2010年</ref>。

== 略年表 ==
{| class="wikitable" style="width:100%"
!style="width:15em"|年号!!千住宿に関する出来事!!style="width:10em"|備考(記事へのリンク)
|-
|[[天正]]18年([[1590年]])||  [[德川家康]]江戸入城|| [[#沿革]]
|-
|[[文禄]]3年([[1594年]])|| [[千住大橋]]の[[架橋]]および[[奥州街道]]・[[日光街道]]の整備|| [[#沿革]]
|-
|[[慶長]]2年([[1597年]])|| 千住町を人馬継立の地として指定|| [[#沿革]]
|-
|[[元和]]2年([[1616年]])|| 石出掃部介により[[新田開発]]、掃部堤の開発|| [[#沿革]]
|-
|[[寛永]]2年([[1625年]])|| 奥州街道・日光街道の初宿と指定|| [[#沿革]]
|-
|[[慶安]]4年([[1651年]])|| [[小塚原刑場]]が[[小塚原町]]に位置づけられた|| [[#沿革]]
|-
|[[万治]]元年([[1658年]])|| 掃部宿・河原町・橋戸宿の開発|| [[#沿革]]
|-
|万治3年([[1660年]])|| 中村町・小塚原町の加入|| [[#沿革]]
|-
|[[寛文]]2年([[1662年]])|| [[回向院]]は[[町奉行]]より小塚原町の[[仕置場]]に寺地が与えられ別院の建立|| [[#刑場]]
|-
|[[元禄]]2年([[1689年]])|| [[松尾芭蕉]]の出発(『おくのほそ道』)|| [[#文化人]]
|-
|元禄9年([[1696年]])|| [[助郷制]]が定められる|| [[#沿革]]
|-
|[[寛文]]9年([[1699年]])|| [[下谷]][[浅草]]の[[五三昧]]19の寺が小塚原に移転|| [[#刑場]]
|-
|[[享保]]20年([[1735年]])|| (この頃には)[[千住青物市場]]が[[御用市場]]として営業|| [[#経済]]
|-
|[[明和]]元年([[1764年]])|| 千住宿に150人の[[飯盛女]]を置くことの許可された|| [[#遊郭]]
|-
|[[文化]]12年([[1815年]])|| [[酒合戦#千住酒合戦|千住酒合戦]]|| [[#文化人]]
|-
|[[天保]]2-4年([[1831年]]-[[1835年]])|| [[葛飾北斎]]『[[冨嶽三十六景]]』の発表|| [[#行楽地]]
|-
|天保5-7年([[1834年]]-[[1836年]])|| [[斎藤月岑]]『[[江戸名所図絵]]』 の発表|| [[#行楽地]]
|-
|天保14年([[1843年]])|| [[宿場町]]の調査(『日光道中宿村大概帳』)|| [[#沿革]]
|-
|[[安政]]2年([[1855年]])|| [[安政江戸地震]] || [[#沿革]]
|-
|[[明治]]4年([[1871年]])|| [[伝馬所]]の廃止|| [[#沿革]]
|-
|明治11年([[1878年]])|| 太政官布告「[[郡区町村編成法]]」の施行|| [[#沿革]]
|}

== 名所・旧跡・接続道路等 ==

{{節stub}}

=== 交通 ===
; 隣の宿
*'''日光街道・奥州街道'''
::[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]- '''千住宿''' - [[草加宿]]
*'''水戸街道・佐倉街道・成田街道'''
::[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]- '''千住宿''' - [[新宿 (水戸街道)|新宿]]
*'''赤山街道'''
::[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]- '''千住宿''' - [[舎人宿]]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Multicol}}
* [[江戸四宿]]
* [[千住]]
* [[千住]]
* [[千住大橋]]
* [[日光街道]]
* [[奥州街道]]
* [[水戸街道]]
* [[小塚原刑場]]
* [[回向院]]
{{Multicol-break}}
* [[千住青物市場]]
* [[御用市場]]
* [[荒川]]
* [[綾瀬川]]
* [[河川舟運]]
* [[橋戸河岸(千住河岸)]]
* [[岡場所]]
* [[安政江戸地震]]
{{Multicol-end}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
=== 古文書 ===
*{{Cite journal|和書
|author =
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2016年6月30日 (木) 06:19時点における版

葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」

千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。

概要

千住宿は、武蔵国足立郡豊島郡荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道品川宿中山道板橋宿甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長2年(1597年)に指定され、明治4年(1872年)に助郷制度・伝馬制廃止に伴い廃止された。

日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。荒川綾瀬川が付近で交差しており運輸交通の便に有効な場所であったことから、荒川で千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれていた。 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。

千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿近隣には行楽地が出現し浮世絵や絵画に描かれている。 千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。

当時の千住宿は、現在の東京都足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町荒川区南千住に相当する(現在の状況は、足立区千住荒川区南千住を参照)。

沿革

背景

千住の地名の由来は数説ある。一つに、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260年)草創された勝專寺[1]の寺伝によれば、嘉暦2年(1327年)に新井図書政次が荒川(現隅田川を指す。以下荒川と記述)で網で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。また、足利義政愛妾千寿の出生地であったからという説や、その他千葉氏が住んでいた地域であったからという説がある。

荒川北岸部の足立郡千住村は、古くから水上交通の要所とされていた。室町時代幕府方山内扇谷上杉方、鎌倉公方(古河公方)が争い戦国時代の遠因の一つとなった享徳の乱(1455年1483年)で下総千葉氏により下総国を追われた武蔵千葉氏は武蔵石浜城の拠点を移し、この地を支配していたという。千住の近隣にある中曽根神社(本木)は、当時千葉自胤淵江郷入りした時に築かれた淵江城であったとも言われている[1]

開発

葛飾北斎『富嶽三十六景 隅田川関屋の里』
元和2年(1616年)。石出掃部介の新田開発によって築かれた掃部堤(かもんづつみ)の上を走っている様子が描かれている。

五街道の整備と千住宿の指定

五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、千住宿は日光・奥州街道の初宿に指定された。天正18年(1590年小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、文禄3年(1594年)荒川に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した[2]

慶長2年(1597年)には人馬継立の地に指定され千住町とされた。その後、寛永2年(1625年)に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、地子免除の代わりに伝馬役・歩行役を負担することとなった[3]

千住宿の開発

千住宿の開発は、交通量の増大により宿場町と共に町域の拡大がすすめられた。荒川に千住大橋がかけられ、千住の地は江戸(日本橋)から2、奥州・水戸両街道の江戸への出入り口の関門として急速に発達した。 交通量増大により千住宿はその後も町域が広がり、『千住旧考録』によると石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に掃部堤(かもんづつみ)が築かれ、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿(かもんじゅく)・河原町(かわらちょう)・橋戸町(はしどちょう)が開発された[4]。その2年後には荒川対岸の豊島郡側の万治3年(1660年)に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)・中村町(なかむらまち)が宿場に加えられた[2]。元の千住宿は千住一~五丁目に分けられて本宿、最初に追加された千住掃部宿・千住河原町・千住橋戸町3町は新宿、中村町・小塚原町対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれた。

『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった[5]。その他、掃部宿には「一里塚[6]、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。元禄9年(1696年)には不足する人馬を周辺の村々から集める助郷制(すけごうせい)が定められた。

繁栄

葛飾北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」

千住宿の賑わい

千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』から当時の状況をうかがえる。「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とあり[7]、江戸市街の喉もとで奥州街道水戸街道の始点として、日光東北方面への旅人で賑わったという。幕末期には家は2,400軒近い。人口は約1万人に達する江戸四宿最大級の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると、江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住の宿を往来していた。

千住の宿場町

千住の宿場町の構成は、千住二丁目と掃部宿に残る文政6年(1823年)の記録がある。職業が明らかなものだけについてみると、屋8軒、穀屋、八百屋胡粉屋、百姓各2軒、屋、屋、屋、紫刈屋、屋、鍛治屋、棒屋、左官大工屋、わら屋、湯屋木材屋各1軒である。その他職業が分らないもの23軒、宿屋は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている[2]。一角には接骨医として著名な名倉家が診療所を構え、患者で賑わっていたという[8]

宿場の外れには小塚原刑場が設置されて寛文7年(1667年)には、付近の土地は回向院に与えられて、子院が建てられて刑死した人の埋葬供養を行った[9]

災害

安政江戸地震

安政2年(1855年)11月11日9時頃、安政江戸地震が起こり、関東一円に被害をもたらした[10]。千住宿もその被害にあっており、地震による焼失面積は千住周辺の箕ノ輪辺では19,215㎡におよんでいたという[11]。また、成田山新勝寺の『江戸開帳諸用留』によると「十一日(1856年3月17日)千住宿勝専寺世話人 鰹節屋下川小左衛門 右之者罷越先例之通リ 本尊様御宿申出、外ニ本陣之義是迄下川八郎兵衛方ニ相勤候得共、去年中地震ニ而及大破候ニ付此度者千住壱丁目鞍屋長右衛門方ニ而本陣致候趣申出、右同寺世話人連名書持参左之通(後略)」とあり家屋の全壊あるいは半壊があったことが示されており[12]、『佐野家文書』(足立区立郷土博物館蔵)にもまたその被害の大きさが記録されている[12]

廃止

明細改正東京新図 1886年(明治19年)
右上に千住が確認できる。荒川北岸に千住北組・中組があり、南岸に南組があり、陸前浜街道水戸街道)が千住北組で奥州街道から分岐している

助郷制度の廃止と陸運会社の成立

明治時代になると、助郷制度が廃止され、代わりに陸運会社が置かれていった。 明治初期には、交通の面に関していえば旧幕府時代の本陣、問屋場や幣害の多かった徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的とした助郷制度等の封建的な交通機構は廃止された。明治4年に政府は従来の伝馬所を廃止し、各宿駅に陸運会社を設立した[13]

町村の再編成

明治時代には、明治維新による1878年(明治11年)地方制度に関する太政官布告郡区町村編制法」の施行を経て、南組を東京府北豊島郡南千住町、北組、中組は併合して同府南足立郡千住町とし郡役所を同町に置いた。千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は足立区、南側は荒川区に属している[14]

経済

千住宿は日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差していたことから水運(特に舟運)の中継地点として橋戸河岸(千住河岸)が置かれていた。また、河原町には千住青物市場(やっちゃ場)が設置されていた。このように、内陸交通の分岐地点、水運交通の中継地点、問屋の集中などから、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。

市場と問屋

千住青物市場

千住青物市場は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。『南足立郡誌』によると、千住青物市場は後陽成天皇天正年間(豊臣秀吉時代)に始まったという。この地は荒川に沿い関屋の里と称していたが、この時期は部落とされるものでなく人家の散在し、農家や漁夫により農産物、川魚の交換が行われた村に過ぎなかった。しかし、奥州街道、水戸街道の交通の要所となったことにより、戸数が増加したとある[15]

江戸時代、神田駒込・千住の三市場は幕府の御用市場として青物を上納していた。『南足立郡詩』によると、享保20年(1735年)3月市場の、『継続書記録』には後光明天皇正保徳川家光時代)、後西院天皇明暦徳川家綱時代)年間にはすでに市場として営業していた。千住大橋の架橋に伴い、農産物・川魚の中継地点となり、明暦より中御門天皇享保徳川吉宗時代)の時期には農産物・川魚などの産物が集合・出荷されており、幕末には、武蔵上総下総常陸方面の農産物も集まり繁栄した。幕府の御用品を調達していたという[16]

千住青物市場の問屋

千住青物市場には問屋が集まった。『南足立郡誌』によると江戸時代には、千住市場は毎朝五穀、前栽物および川魚の市を開かれていた。問屋は米穀問屋を中心に、玄米を扱った黒米問屋、前栽問屋、川魚問屋があった。前栽問屋には蓮根慈姑問屋、芋類を専門とした土物問屋、菜類・胡瓜を専門とした葉柄問屋の三種類あった。蓮根慈姑問屋・土物問屋の農産物は千住宿周辺および埼玉地方を中心で、葉柄問屋の産物は中川沿岸より江戸川付近を主要産地であった。幕府御用達の納品は川魚の外 、蓮根慈姑芋類などがあり、これを納める問屋総代、納品の上に御用札を建て、御用品を江戸橋の御納屋に調達した。納品当市場にて御用品が不足するときには、神田市場などから物品を調達し納入していたという[17]。また、幕府御用達の納品の調達は、千住市場または神田市場から納品する際には、大名行列であっても、その理由を問わずともこれを横切る事があったという[18]

千住宿周辺の産物

千住宿周辺の産物には、農産物、川魚類などがあった。農産物は、千住宿周辺の農村で生産・出荷され、千住青物市場を通して出荷圏も拡大した。江戸時代に千住宿周辺で栽培された野菜類には、西新井村・江北では「せり」。小右衛門新田では「里芋」。葛飾郡荏原郡と並んで足立郡では「かぶ」、「千住ねぎ」の名で知られる「ねぎ」。舎人村では「くわい」。その他「はす」、「小松菜」、「みつば」、「京菜」、「きうり」、「しろうり」、「枝豆」、「ゆり根」(食用ゆり)などが栽培出荷されたという[19]。川魚類は、安政四年(1857年)の『河魚問屋仲間議定書』によると、江戸御丸御用は川魚類でも )、(どじょう)などがあったという[20]

また、『新編武蔵風土記稿』によると、「農隙に浅草紙といへる紙を漉きて江戸へひさげり」とあるように、千住、梅田、西新井の農村には、発祥地の浅草が市街地化に伴い、紙すきを農業の副業としていた[2]

河岸

歌川広重名所江戸百景より「千住の大はし」
荒川に千住大橋が架けられ、両岸の船着き場には高瀬舟平田舟が止められ、南岸には材木が置かれている

橋戸河岸

橋戸河岸(千住河岸とも言われる)は、千住近隣に交差する綾瀬川・荒川(新河岸川)に置かれた河岸場である。江戸時代には、河川舟運が発達し、河川の岸に船着場が置かれ物資の積み上げ・下しが行われた。千住では、千住大橋近隣にて、橋戸河岸が置かれ[21]、河川舟運により、物資の中継基地として、綾瀬川荒川からの舟が発着していた。荒川では、川越から江戸へ物資の往来をしていた新河岸川舟運があった。

新河岸川舟運は、寛永十五年(1638年川越城堀田正盛東照宮再建の資材運搬のために荷揚場を設置したのが端緒とされ[22]、 橋戸河岸では、「秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ」という[23]。荒川の水運を利用した材木については、荒川区教育委員会『千住の河岸』の看板によると、「『両岸渡世向書物』では、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる」とあり[24]、また、「材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った」という[25]。また、歌川広重による「名所江戸百景 千住の大はし」では、千住大橋のそばに船着き場と材木が置かれている状況が描かれている。

新河岸川舟運により運搬された主な物資は、川越五河岸の船積み荷物によると、江戸より登ってくるものが上り荷で、綿及び織物染物に関する原材料、荒物小間物類の日常品砂糖塩魚類の食料品、肥料干鰯木灰油粕)・などが多かった。江戸への下り荷には雑穀俵物材木戸障子木炭石灰醤油などが送られた。材木は青梅飯能名栗越生方面の材が主で、石灰青梅・飯能周辺が産地であったという[26]

近代

明治時代になると、千住は水利の好条件を生かし発展した。舟便のよいことが近在農村に広く知られるようになり、また、千住青物市場(やっちゃ場)は江戸時代から継続して行われ、昭和20年代まで青物、川魚の朝市が毎朝のように開かれていた[27]。 また、1879年(明治12年)官営千住製絨所南千住側に創設された[28]1897年には日本鉄道により常磐線貨物支線隅田川駅貨物駅)(現東日本旅客鉄道日本貨物鉄道所属)が設置された[29]。そして、1905年(明治38年)には、東京電燈株式会社により千住火力発電所が置かれた(初代1905年(明治38年)-1917年(大正6年)(北豊島郡南千住町)、2代目1926年(大正15年)-1964年(昭和39年)(南足立郡千住町))[30][31]

遊郭

千住宿は江戸四宿であったことから、品川宿、板橋宿、内藤新宿に並び、宿屋(旅籠)には幕府公認の飯盛女私娼)が置かれ、江戸周辺の遊郭の一つとして発展した。

岡場所

岡場所とは、江戸時代唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸では私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた[32]。これらの岡場所のルーツとなるものに、代表的なものが湯女というものがいたという[33]

江戸時代で岡場所の最盛期となるのは、宝暦天明年間(1751年1788年)という[34]明和元年(1764年)には宿場の旅籠が衰退し、旅人が減少したことを理由に、飯盛女の数を一軒につき二人という制限を廃止し、品川宿には500人、千住宿・板橋宿には150人の飯盛女を置くことを許可された[35][36]。(しかし、甲州街道の内藤新宿は享保三年(1718年)に廃駅とされていたこの時期に許可はない。)その後、内藤新宿は、明和9年(1772年)に再興され、千住宿・板橋宿同様に150人の飯盛女を置くことを許可された[37]

千住宿の宿屋は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている。これらの家族、使用人、問屋役などの他に、旅籠1軒に原則的には2人まで許された飯売女など多くの人が集中し、経済の中心地を形成していた。 当時、新河岸川舟運には船頭が唄った「千住節」[38]があった。「千住節」とは、千住宿にあった遊郭からはやったもので、二人の船頭が合いの手を入れて口から出まかせに唄ったものであり[39]、その中には、「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」という一節があった。

近代

明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1871年(明治4年)7月17日、千住黴毒院(ばいどくいん)が開設され、宿娼妓梅毒検査が行なわれている。『経済及統計』(内務省・明治23年2月)によれば、1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374人、買客数43,000人、1888年(明治21年)にはそれぞれ466人、65,000人との記録がある。いずれも二廓四宿においては内藤新宿板橋宿を上回っていた。

刑場

小塚原刑場の首切地蔵

江戸北端の刑場は千住宿の小塚原町に置かれ、また小塚原には回向院が設置され死者の埋葬と供養が行われた。また、小塚原刑場では江戸では、小塚原刑場と小伝馬町牢屋敷でのみ行われていなかった腑分があったことから、杉田玄白などによる『ターヘル・アナトミア』の日本語訳の際、小塚原刑場で見学され、『解体新書』の刊行が行われた。

小塚原刑場

慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけられた。小塚原の仕置場では磔刑火刑梟首(獄門)が執行された[40]。小塚原刑場では腑分けも行われた。江戸の刑場には小塚原刑場の他に、東海道沿いにあった鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があったが、鈴ヶ森刑場、大和田刑場で腑分けをした記録はなく、腑分けが行われたのは小伝馬町牢屋敷(日本橋小伝馬町)と小塚原刑場であったという[41]

寛文9年(1699年)には、下谷浅草の各宗派寺院内にあった五三昧(火葬寺)19の寺が小塚原に移転し、19世紀初頭に、江戸の町の北の地に一大火葬埋葬センターとなった[42]。石出猛史によると「腑分を小塚原の仕置場で行うように定めた町奉行発給の文書は見出されていない。しかし寺と埋葬地が揃った仕置場は、腑分を行う場所として最も適していたであろう」という[43]

明治初期に西欧と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府が廃止したが、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという[44]

回向院

観臓記念碑

回向院は、明暦3年(1657年)1月の明歴の大火振袖火事)の犠牲者を葬るために幕府が建立した寺であった。万治年間(1658年1661年町奉行により、牢死者・行路人の埋葬を命ぜられた。寛文2年(1662年)町奉行から小塚原町の仕置場に寺地を与えられて、別院(常行堂)を建立し埋葬された者の供養した[45]

寛保元年1741年)には高さ3mほどの首切地蔵が建てられた。文政5年(1822年)、南部藩の臣・相馬大作(下斗米秀之進)がここで処刑されて以後、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり橋本左内吉田松陰頼三樹三郎安政の大獄処刑された志士たちもここに埋葬されている[40]

『解体新書』

『解体新書』とは、杉田玄白・前野良沢により刊行されたヨハン・アダム・クルムスの『解剖表』の日本語訳である。明和8年3月4日(1771年4月18日)で小塚原刑場で行われた腑分けがあり、杉田玄白前野良沢を誘い見学をおこなったことにより、西洋医学の導入のきっかけとなる『解体新書』の翻訳が行われた。 両者は、クルムスの解剖書を持参し、小塚原刑場で行われた腑分けを見学し臓器と解剖図が非常によく似ていることから、ドイツ人ヨハン・アダム・クルムスの『解剖表』(ターヘル・アナトミア)の蘭訳本を日本語訳が行われることとなった。 安永3年(1774年)杉田玄白によって『解体新書』(本文4巻、付図1巻)が発行された[46]

行楽地

千住宿周辺の行楽地は、江戸時代中頃に誕生した江戸周辺の行楽地の一つである。 千住宿周辺の行楽地とされたものには、西新井大師大鷲神社(おおとりじんじゃ)、牛田薬師(西光院・さいこういん)、性翁寺(しょうおうじ)などの寺社、関屋の里(せきやのさと)[47]鐘ヶ渕(かねがふち)、綾瀬川など自然の美しい場所、千住大橋など千住宿周辺の交通の要に当たる場所であったことから多くの人びとが訪れた。千住周辺の名所は、自然発生的に名所となったものというよりも、人びとの手によって作られ、名所となっていった場所が多いことが特徴であったといわれている[48]

千住に関わる数々の浮世絵・絵画が確認されており、有名なものに「冨嶽三十六景」(天保二年-四年(1831年-1835年)発表)[49]、「名所江戸百景」、「隅田川八景」、「江戸名所図会」(天保5年-7年(1834年-1836年)などがある。

葛飾北斎『冨嶽三十六景』

  • 『冨嶽三十六景 武州千住』
武州千住は、農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という[50]
  • 『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』
関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという[51]
  • 『冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二 』
「従千住花街眺望ノ不二」は小塚原町・中村町に相当する図という[52]

歌川広重『名所江戸百景』[53]

  • 『名所江戸百景 千住の大はし』
  • 『名所江戸百景 綾瀬川鐘ヶ渕』

歌川広重二代『江戸名勝図会』

  • 『江戸名勝図会 関屋の里』

斎藤月岑『江戸名所図絵』[54]

『江戸名所図会』は、江戸時代を代表する地誌で、江戸名所の集大成といわれ、天保五年(1834)と天保七年(1836)の二度に分け、7巻20冊が刊行された。千住周辺は、第六巻・第七巻に収録されている[55][56]

  • 第六巻

「六阿弥陀廻(ろくあみだめぐり)」、「光茶銚(ひかりちゃがま)」、「西新井大師堂」、「千住川」など。

  • 第七巻

「新宿渡口(にいじゅくわたしば)」、「関屋天満宮」。

文化人

千住宿は、奥州街道・日光街道の初宿であることから旅人が宿をとった。江戸四宿の一つであり江戸在住の文化人との交流がある地でもあった。そして、千住宿の住民には文化人がいた。

蕪村画 おくのほそ道

松尾芭蕉『おくのほそ道』

松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、元禄文化期に活躍した俳人による紀行文である。松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、元祿二年(1689年)深川の芭蕉庵を出発し、「門人に見送られ、彼等と千住で別れる時に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠み、それを「矢立てのはじめ」として、そこから旅が始」まったという[57][58]

下谷の三幅対

下谷の三幅対とは、江戸時代後期の下谷(江戸府中)在住の酒井抱一谷文晁亀田鵬斎の3人を指す。三人は多くの人たちと交流があり、千住宿周辺でも建部巣兆山崎鯉隠との交流があった。千住宿周辺で活躍した文化人には江戸琳派の祖である酒井抱一に弟子入りした中野其豊村越其栄村越向栄、画家谷文晁の門下には船津文淵、河内半蔵がいた。亀田鵬斎も千住周辺にゆかりのある人物だった[59]

千住酒合戦

千住酒合戦とは、文化12年(1815年)10月21日、千住東京都足立区)の飛脚問屋宿の中屋六衛門の六十の祝いとして催されたものである。現在の千住一丁目にあった飛脚宿、中屋を会場にした。 審査員として、下谷の三福対である江戸琳派の祖として知られる酒井抱一、絵師谷文晁、、儒学者書家亀田鵬斎の他、絵師谷文一、戯作者太田南畝など、著名人が招かれた[60][61]

酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この酒合戦は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した[62]
千住酒合戦に関する記録

建部巣兆

建部巣兆(たけべ そうちょう)は、江戸時代中後期の俳人、絵師で、千住河原町に在住した。「千住宿」の掃部宿、河原町、橋戸町の住人を中心に構成された俳諧集団「千住連」を率い、俳諧活動を行った。夏目成美(なつめせいび)・鈴木道彦(すずきみちひこ)・小林一茶(こばやしいっさ)を始め、義兄の亀田鵬斎、酒井抱一、大田南畝との交流があった。 建部巣兆の主要な作品には「蛍狩図」、「江戸十二ヶ月 吉原」、「江戸十二ヶ月 向島」、「江戸十二ヶ月 浅草」、「盆踊図」、「芭蕉像」、「俳画 冨士詣」、「西行庵図」などがある[70]

小林一茶

小林一茶は、江戸時代中後期の江戸時代を代表する俳諧師の一人である。千住宿在住の建部巣兆との交流があった[71]。 炎天寺(足立区六月)に小林一茶の句にゆかりあると伝えられている俳句がある。

  • 「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化十三年四月)
  • 「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化十三年九月)

安藤昌益

安藤昌益は、江戸時代中期に、現在の青森県八戸市に住み、町医者をしながら、他に類を見ない独創的な思想を生んだ思想家と言われる[72]。主要な著作物に『自然真営道』があった。 1899年(明治32年)江戸時代の思想家安藤昌益の著書『自然真営道』が狩野亨吉により発見された。『自然真営道』はもともと足立区千住の穀物問屋「藁屋」の橋本律蔵(1824年-1882年)が旧蔵していたものであった。それが古書店に買い取られ、そこで狩野の知るところとなったという[73]

略年表

年号 千住宿に関する出来事 備考(記事へのリンク)
天正18年(1590年)  德川家康江戸入城  #沿革
文禄3年(1594年)  千住大橋架橋および奥州街道日光街道の整備  #沿革
慶長2年(1597年)  千住町を人馬継立の地として指定  #沿革
元和2年(1616年)  石出掃部介により新田開発、掃部堤の開発  #沿革
寛永2年(1625年)  奥州街道・日光街道の初宿と指定  #沿革
慶安4年(1651年)  小塚原刑場小塚原町に位置づけられた  #沿革
万治元年(1658年)  掃部宿・河原町・橋戸宿の開発  #沿革
万治3年(1660年)  中村町・小塚原町の加入  #沿革
寛文2年(1662年)  回向院町奉行より小塚原町の仕置場に寺地が与えられ別院の建立  #刑場
元禄2年(1689年)  松尾芭蕉の出発(『おくのほそ道』)  #文化人
元禄9年(1696年)  助郷制が定められる  #沿革
寛文9年(1699年)  下谷浅草五三昧19の寺が小塚原に移転  #刑場
享保20年(1735年)  (この頃には)千住青物市場御用市場として営業  #経済
明和元年(1764年)  千住宿に150人の飯盛女を置くことの許可された  #遊郭
文化12年(1815年)  千住酒合戦  #文化人
天保2-4年(1831年-1835年)  葛飾北斎冨嶽三十六景』の発表  #行楽地
天保5-7年(1834年-1836年  斎藤月岑江戸名所図絵』 の発表  #行楽地
天保14年(1843年)  宿場町の調査(『日光道中宿村大概帳』)  #沿革
安政2年(1855年)  安政江戸地震   #沿革
明治4年(1871年)  伝馬所の廃止  #沿革
明治11年(1878年)  太政官布告「郡区町村編成法」の施行  #沿革

名所・旧跡・接続道路等

交通

隣の宿
  • 日光街道・奥州街道
日本橋- 千住宿 - 草加宿
  • 水戸街道・佐倉街道・成田街道
日本橋- 千住宿 - 新宿
  • 赤山街道
日本橋- 千住宿 - 舎人宿

関連項目

脚注

  1. ^ 新編武蔵風土記稿』に拠る。
  2. ^ a b c d 佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年。
  3. ^ 日光道中と千住宿足立区役所(更新日:2011年4月19日)、2016年6月12日閲覧
  4. ^ 掃部宿開発の記録『千住旧考録』に拠る。
  5. ^ 『日光道中宿村大概帳』に拠る。
  6. ^ 宝暦元年(1751年)『奥州道中 増補行程記』、文化3年(1806年)『日光道中分間延絵図』、織畑家文書『千住宿宿並図』に拠る。
  7. ^ 新編武蔵風土記稿』に拠る
  8. ^ 名倉医院”. あだちのみどころ発見. 足立区観光交流協会 (2016年6月11日). 2016年6月11日閲覧。
  9. ^ 石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。
  10. ^ 中村操・松浦律子「1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布」『歴史地震』第26号、歴史地震研究会、2011年、33-64頁。
  11. ^ 中村操・茅野一郎・松浦律子「安政江戸地震(1855)の江戸市中の焼失面積の推定」『歴史地震』20、歴史地震研究会、2005年、223-232頁。
  12. ^ a b 『佐野家文書』によると、「乍恐以書付御訴奉申上候(大地震ニ而潰家出来申上)」とある。
  13. ^ 中島義一 「明治前期における埼玉県の交通」『新地理』Vol.7 No.3-4 日本地理教育学会 1959年
  14. ^ 片柳勉「東京都足立区における土地利用の変化と用途地域の対応」、『季刊地理学』Vol.46、東北地理学会、1994年、107-125頁。
  15. ^ 東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年
  16. ^ 東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年
  17. ^ 東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年
  18. ^ 東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』 東京府南足立郡教育会 1924年
  19. ^ 佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年
  20. ^ 『河魚問屋仲間議定書』とは千住川魚組合の規約である。佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年
  21. ^ 日光道中と千住宿足立区(更新日:2011年4月19日)、閲覧2016年4月9日。
  22. ^ 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)
  23. ^ 日光道中と千住宿足立区(更新日:2011年4月19日)、閲覧2016年4月9日。
  24. ^ 『両岸渡世向書物』は荒川区で平成9年指定された有形文化財(古文書)であり、荒川ふるさと文化館に所在されている。
  25. ^ 荒川区教育委員会『千住の河岸』の看板に拠る。
  26. ^ 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)
  27. ^ 佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年
  28. ^ 石川 章一、「羊毛工業百年を記念して」、『繊維学会誌』Vol.35 No.9 繊維学会、1979年
  29. ^ 藤井 三樹夫、「河川舟運の衰退と鉄道網形成との関係に関する一考察」、『土木史研究』Vol.17、土木学会、P323-332、1997年
  30. ^ 日本初の蒸気タービン発電所「千住発電所」」『関東地方の「電気ゆかりの地」の調査について』リーフレット、一般社団法人日本電気協会関東支部(2016年3月28日配信)(2016年4月15日閲覧)
  31. ^ 佐々木博「江北地区の農業の変質 ―近郊農業から市街地農業へ―」『立正大学人文科学研究所年報』7、立正大学、1969年
  32. ^ 平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年
  33. ^ 石塚豊芥子「岡場遊郭考」『未刊隨筆百種 第1 』三田村鳶魚/校訂 臨川書店 1969年
  34. ^ 平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年
  35. ^ 東京都「品川宿食売増人御免一件之書留」『東京市史稿』産業篇21 1977年
  36. ^ 東京都「品川宿食売増人御免一件之書留」『東京市史稿』産業篇21 1977年
  37. ^ 平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」常民文化 (20) 成城大学 1997年
  38. ^ 「川越舟歌」と呼ばれることもあるが、そのように名付けられるのは新しく、当初「千住節」と言われていたという。酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)
  39. ^ 酒井智晴・叶玲子・齋藤正美・大野政己「川越(新河岸川)」『みなと文化研究事業』一般財団法人 みなと総合研究財団 (2014年11月2日配信)(2016年4月9日閲覧)
  40. ^ a b 千葉貢「都市のなかの“地域文化”」『地域政策研究』第17巻第2号、高崎経済大学地域政策学会、2014年。
  41. ^ 石出猛史、「江戸の腑分」、『千葉医学雑誌』74巻、千葉医学会、1998年。
  42. ^ 石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。
  43. ^ 石出猛史、「江戸の腑分と小塚原の仕置場」、『千葉医学雑誌』84、千葉医学会、2008年。
  44. ^ 荒川区「延命寺内掲示板」による。
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参考文献

古文書

  • 『新編武蔵風土記稿』。 
  • 『千住旧考録』。 
  • 『日光道中宿村大概帳』。 
  • 『奥州道中 増補行程期』宝暦元年(1751年)。 
  • 『日光道中分間延絵図』文化3年(1806年)。 
  • 『千住宿並図』(織畑家文書)。 
  • 『佐野家文書』。 
  • 石塚豊芥子「岡場遊郭考」『未刊隨筆百種 第1』三田村鳶魚/校訂、臨川書店、1969年。 
  • 与謝蕪村『奥の細道画巻』、逸翁美術館 
  • 『江戸開帳諸用留』、成田山新勝寺 

和書

  • 足立区『文化遺産調査記者会見』、足立区、平成28年、1-8頁。 
  • 足立区立郷土博物館「千住酒合戦から二〇〇年デザインアイデア合戦とパネル展」『足立史談』第572巻第3号、足立区教育委員会・足立史談編集局、2008年、337-363頁。 
  • 石川章一「羊毛工業百年を記念して」『繊維学会誌』Vol.35No.9、繊維学会、1979年。 
  • 石出猛史「江戸の腑分」」『千葉医学雑誌』第74巻、千葉医学会、1998年。 
  • 石出猛史「江戸の腑分と小塚原の仕置場」『千葉医学雑誌』第84号、千葉医学会、2008年、-。 
  • 片柳勉「東京都足立区における土地利用の変化と用途地域の対応」『季刊地理学』Vol.46、東北地理学会、1994年、107-125頁。 
  • 佐々木博「江北地区の農業の変質ー近郊農業から市街地農業へー」『立正大学人文科学研究所年報』第7号、立正大学、1969年。 
  • 中村操・松浦律子「1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布」『歴史地震』第26号、歴史地震研究会、2011年、33-64頁。 
  • 中村操・茅野一郎・松浦律子「安政江戸地震(1855)の江戸市中の焼失面積の推定」『歴史地震』第20号、歴史地震研究会、2008年、223-232頁。 
  • 中島義一「明治前期における埼玉県の交通」『新地理』Vol.7No.3-4、日本地理教育学会、1959年。 
  • 東京府南足立郡教育会 編『南足立郡誌』第20巻第3号、東京府南足立郡教育会、1924年。 
  • 藤井三樹夫「河川舟運の衰退と鉄道網形成との関係に関する一考察」『土木史研究』Vol.17、土木学会、1997年、323-332頁。 
  • 平田秀勝「江戸における岡場所の変遷」『常民文化』第20巻、成城大学、1997年。 

ウエブ

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  • 江戸名所図会”. 収録コンテンツ. JapanKnowledge (更新日:2014年4月). 2016年4月17日閲覧。