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'''関口隆吉'''(せきぐち たかよし、[[天保]]7年([[1836年]]) - [[明治]]22([[1889年]]))は、[[幕末]]の[[幕臣]]であり[[明治]][[時代]]の[[政治家]]。
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'''関口隆吉'''(せきぐち たかよし、[[天保]]7年[[1836年]] - [[明治]]32[[1899年]]))は、[[明治]][[時代]]の[[政治家]]。初代[[静岡県知事]]。


[[言語学]]者[[新村出]]の[[父]]
[[言語学]]者[[新村出]]は長男

== 生涯 ==
[[天保]]7年([[1836年]])、江戸に幕臣[[関口隆船]]の次男として生まれる。17歳で父の跡を継ぎ御持弓与力となり<!--川越藩松平候宛の建白状、勝海舟に切りつけた逸話等がある-->、[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]を幕臣として迎える。
翌慶応4年(1868年)の江戸城明け渡しに立会い[[徳川慶喜]]を[[駿河国|駿河]]に遷すなど、幕末の戦後処理に尽力した。
明治3年([[1870年]])には、慶喜の居る静岡県の遠州[[城東郡]][[月岡村]](現在の[[菊川市]]内田地区月岡)に居を移し、[[牧之原台地]]の開墾と大茶園造成事業に着手した。
明治4年([[1871年]])、明治政府に請われ出仕、上京後。第二代[[山形県]][[県令#日本の県令|県令]](明治6年(1873年) - 明治8年(1875年))・第二代[[山口県]]県令(明治8年([[1875年]]) - 明治14年([[1881年]]))・第三代[[静岡県]]県令(明治14年(1881年) - 明治19年(1886年))を歴任した後。明治19年([[1886年]])、地方長官公布により、初代[[静岡県知事]]に任命された。<!--久能文庫の創設など。-->
明治22年([[1889年]])、自身が敷設に尽力した東海道線で列車事故に遭い重傷を負う。この傷からの破傷風が致命傷となり58歳の生涯を閉じた。

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|title=関口隆吉の生涯 -- 幕末・維新の隠れた偉傑
|author=[[八木繁樹]]
|date=1983年08月01日
|year=1983
|publisher=[[緑蔭書房]]
|id=ISBN 9784897742014
}}
* {{Cite book|和書
|title=関口隆吉旧蔵明治初期名士書簡集
|authors=[[静岡県立中央図書館]]編
|publisher=静岡県立中央図書館
|date=1983年03月
|year=1983
}}
* {{Cite book|和書
|title=初代静岡県知事 関口隆吉の一生
|author=[[三戸岡道夫]]、[[堀内永人]]
|date=2009年06月
|year=2009
|publisher=[[静岡新聞社]]
|id=ISBN 978-4-7838-1082-7
}}

== 関連項目 ==
* [[久能文庫]]


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2009年11月7日 (土) 01:29時点における版

関口隆吉(せきぐち たかよし、天保7年(1836年) - 明治22年(1889年))は、幕末幕臣であり明治時代政治家

言語学者の新村出は長男。

生涯

天保7年(1836年)、江戸に幕臣関口隆船の次男として生まれる。17歳で父の跡を継ぎ御持弓与力となり、慶応3年(1867年)の大政奉還を幕臣として迎える。 翌慶応4年(1868年)の江戸城明け渡しに立会い徳川慶喜駿河に遷すなど、幕末の戦後処理に尽力した。 明治3年(1870年)には、慶喜の居る静岡県の遠州城東郡月岡村(現在の菊川市内田地区月岡)に居を移し、牧之原台地の開墾と大茶園造成事業に着手した。 明治4年(1871年)、明治政府に請われ出仕、上京後。第二代山形県県令(明治6年(1873年) - 明治8年(1875年))・第二代山口県県令(明治8年(1875年) - 明治14年(1881年))・第三代静岡県県令(明治14年(1881年) - 明治19年(1886年))を歴任した後。明治19年(1886年)、地方長官公布により、初代静岡県知事に任命された。 明治22年(1889年)、自身が敷設に尽力した東海道線で列車事故に遭い重傷を負う。この傷からの破傷風が致命傷となり58歳の生涯を閉じた。

参考文献

関連項目