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戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した[[所領]]の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。
戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した[[所領]]の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。

=== 後年 ===
近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって[[南北朝正閏論]]が行われてきた。


== 文化・社会風潮 ==
== 文化・社会風潮 ==
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[[南北朝時代 (日本)の人物一覧]] 参考
[[南北朝時代 (日本)の人物一覧]] 参考
室町文化
室町文化

== 南北朝正閏論と後世への影響 ==
===江戸時代以前における論議===
[[近世]]以来、南北朝のいずれが正統かをめぐり、'''南北朝正閏論'''(なんぼくちょうせいじゅんろん)と呼ばれる論争が行われてきた(閏はうるうと同じで「正統でないけど偽物ではない」の意)。論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。[[徳川光圀]]は[[徳川氏]]の祖とされた[[新田氏]]の正統性を示すため、「[[大日本史]]」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した[[頼山陽]]は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から'''[[禅譲]]'''を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。一方、当時の[[公家]]社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であり(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、[[柳原紀光]]ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した、また皇室も永く現皇統につながる北朝を正統と考えていたとされ祭祀もその方針で行われていた。

===南北朝正閏問題===
[[明治]]の歴史学界では、南北朝時代に関して「[[太平記]]」の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて[[1903年]]([[明治]]36年)及び[[1909年]](同42年)の小学校で使用されている[[国定教科書]]改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、[[1910年]](同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、同年に[[幸徳秋水]]ら[[社会主義]]者が起こしたとされた[[幸徳事件|大逆事件]]がこれに拍車をかけた。

そして、[[1911年]]([[明治]]44年)1月19日付の[[読売新聞]][[社説]]に「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り[[帝国議会]]での政治論争にまで発展した。

この問題を巡って[[野党]][[立憲国民党]]や[[大日本国体擁護団体]]などが当時の[[第2次桂内閣]]を糾弾した。このため、政府は野党や[[世論]]に押され、南朝を正統とする教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である[[喜田貞吉]]を[[休職]]とした。最終的には「大日本史」の記述を根拠に、[[明治天皇]]の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ(ただし、現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる)、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「''吉野朝時代''」と呼ばれる事となった。それでも、[[田中義成]]などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している('''南北朝正閏問題''')。

以後、戦前の[[皇国史観]]のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とする[[イデオロギー]]的な解釈が主流になる。

=== 第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論 ===
戦後になると価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「[[悪党]]」としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は[[宋学]]の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。[[網野善彦]]は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。また、[[太平洋戦争]]後には、[[熊沢寛道]]に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した。ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現皇室の血筋が最も尊いとされている。


== 南北朝時代の元号 ==
== 南北朝時代の元号 ==
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*[[後南朝]]
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2007年8月16日 (木) 10:41時点における版

日本における南北朝時代なんぼくちょうじだい)とは、中世の時代区分の1つである。

一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変建武の新政南北朝時代として扱うが、正確には1336年延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇践祚後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を言う。室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝大和国吉野行宮)と北朝山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張した。

歴史

南北朝成立まで

寛元4年(1246年後嵯峨天皇の退位後、天皇家皇位継承を巡って大覚寺統持明院統に分裂してしまった。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく(両統迭立)事が取り決められていた。

1333年元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発し、足利高氏(当時)や新田義貞らの働きで鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇独裁の専制的な政治を行うが、政局の混乱や恩賞の不公平により支持を得られなかった。中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。後醍醐は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じる。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗れ、尊氏らは京都へ入るが陸奥国から下った北畠軍との協力で駆逐された。尊氏は九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に持明院統の光厳上皇院宣を掲げて東征する。宮方は新田義貞・楠木正成湊川の戦いで敗れ、比叡山に篭った。足利尊氏は後醍醐天皇と一時和解し、三種の神器を接収し、持明院統の光明天皇を擁立(北朝)して、建武式目を制定して施政方針を定め正式に幕府を開く。後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れ、北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではないと主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。

観応の擾乱と南朝勢力の衰微

南朝方は名和長年結城親光千種忠顕のほか北畠顕家新田義貞らが1338年延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年正平3年/貞和4年)には、四條畷の戦いで正成の子正行正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。その後、足利尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事の高師直が対立し、観応年間には対立が頂点に達して観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い、九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返し、後村上天皇は南朝方の住吉大社宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮大阪市住吉区)とする。1351年正平6年/観応2年)には、足利尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立するが、南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させる。

南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を執筆する。1339年延元4年/暦応2年)に後醍醐が死去すると親房が南朝の指導的人物となるが、親房が1354年正平9年/文和3年)に死去すると南朝はまた衰微し、幕府内での抗争で失脚した細川清氏が楠木正儀らと南朝に帰順して一時は京都を占拠するものの1367年正平22年/貞治6年)に敗れ、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなり、足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども起伏する。義詮の死後は足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀(正成の子)を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。

九州の情勢と南北朝合一まで

九州では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏仁木義長などの勢力が争いを続けていた。南朝勢力を強化するために、後醍醐天皇の皇子である懐良親王が派遣され、筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方と北朝方の両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。また観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。この頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇と呼ばれる)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に朝から冊封を受け、「日本国王」としての権威で勢力を強める。室町幕府は今川貞世を九州へ派遣して南朝勢力を鎮圧し、直冬も幕府に屈服したため、足利義満の代には九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。


弘和/永徳元中/至徳年間に入ると、南朝は動乱初期からその支えとして活躍してきた懐良親王北畠顕能宗良親王の相次ぐ死と対北朝強硬路線を通していた長慶天皇の譲位により、衰退を極める事となったが、明徳年間の足利義満による相次ぐ有力守護大名勢力削減により、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。このような情勢の中で1392年元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすること(実際には国衙領はわずかしかなかった)を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和談)。

後南朝

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年正長元年)以後、激化することとなる。1443年嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年長禄元年)に南朝後裔の自天王忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。

土地支配の変化

鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち皇室・公家や寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護地頭に属する武士が、地頭請下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の御家人の3大義務であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになる。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。なお、荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。

後年

近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。

文化・社会風潮

ばさら二条河原落書連歌など

人物

南北朝時代 (日本)の人物一覧 参考 室町文化

南北朝時代の元号

西暦 1330年 1331年 1332年 1333年 1334年 1335年 1336年 1337年 1338年 1339年
南朝 元徳2年 元弘元年 元弘2年 元弘3年 建武元年 建武2年 延元元年 延元2年 延元3年 延元4年
北朝 元徳3年 正慶元年 正慶2年 建武3年 建武4年 暦応元年 暦応2年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年 1347年 1348年 1349年
南朝 興国元年 興国2年 興国3年 興国4年 興国5年 興国6年 正平元年 正平2年 正平3年 正平4年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年 貞和3年 貞和4年 貞和5年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑
西暦 1350年 1351年 1352年 1353年 1354年 1355年 1356年 1357年 1358年 1359年
南朝 正平5年 正平6年 正平7年 正平8年 正平9年 正平10年 正平11年 正平12年 正平13年 正平14年
北朝 観応元年 観応2年 文和元年 文和2年 文和3年 文和4年 延文元年 延文2年 延文3年 延文4年
干支 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥
西暦 1360年 1361年 1362年 1363年 1364年 1365年 1366年 1367年 1368年 1369年
南朝 正平15年 正平16年 正平17年 正平18年 正平19年 正平20年 正平21年 正平22年 正平23年 正平24年
北朝 延文5年 康安元年 貞治元年 貞治2年 貞治3年 貞治4年 貞治5年 貞治6年 応安元年 応安2年
干支 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉
西暦 1370年 1371年 1372年 1373年 1374年 1375年 1376年 1377年 1378年 1379年
南朝 建徳元年 建徳2年 文中元年 文中2年 文中3年 天授元年 天授2年 天授3年 天授4年 天授5年
北朝 応安3年 応安4年 応安5年 応安6年 応安7年 永和元年 永和2年 永和3年 永和4年 康暦元年
干支 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未
西暦 1380年 1381年 1382年 1383年 1384年 1385年 1386年 1387年 1388年 1389年
南朝 天授6年 弘和元年 弘和2年 弘和3年 元中元年 元中2年 元中3年 元中4年 元中5年 元中6年
北朝 康暦2年 永徳元年 永徳2年 永徳3年 至徳元年 至徳2年 至徳3年 嘉慶元年 嘉慶2年 康応元年
干支 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳
西暦 1390年 1391年 1392年 1393年
南朝 元中7年 元中8年 元中9年 明徳4年
北朝 明徳元年 明徳2年 明徳3年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉

関連項目

先代
鎌倉時代
日本の歴史
南北朝時代
次代
室町時代