熊王徳平

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熊王 徳平(くまおう とくへい、1906年明治39年)6月15日 - 1991年(平成3年)8月1日)は、日本作家農民文学者)・歌人ペンネームに「五十嵐竜吉」を用いた[1]

略歴[編集]

山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)に生まれる[2][3]。生家は理髪店[2]。増穂小学校を卒業すると、稼業の理髪店を継ぐ一方で、行商も行う[2][3]

徳平は農民運動に携わり、共産党員としても活動した[2][3]1930年(昭和5年)4月には全国農民組合山梨県連合会に参加し、1931年(昭和6年)9月には日本プロレタリア作家同盟山梨支部を結成する[2][3]

作家としては、徳平の自筆年譜によれば1931年(昭和6年)に『山梨日日新聞』「日曜文芸」に初の短編「初奉公」を投稿し、中村星湖の選で掲載されたという[4]1940年(昭和15年)4月10日には山内一史石原文雄らと同人誌『中部文学』を創刊し、創刊号に発表した「いろは歌留多」が『文芸』推薦の候補となる[5]。「いろは歌留多」は同年9月の第11回芥川賞候補となる[5]。この年の芥川賞候補には徳平と親戚関係にある農民文学者・山田多賀市の「耕土」も候補となるが、該当者無しとなる[5]。徳平は芥川賞候補となったことで『文芸』推薦の一人である宇野浩二に師事する[2]

1948年(昭和23年)1月には小谷剛により名古屋で『作家』が創刊され、徳平のほかにも山梨県ゆかりの農民文学者・評論家である相田隆太郎中村鬼十郎が作品を発表する[5]。徳平は創刊号に「甲府盆地」を発表している[5]

1952年(昭和27年)6月17日には増穂町の共産党員の間で内紛によるリンチが発生し、警察による党員の検挙が行われた[6][7]。同日夜には青柳公民館前でこれに対する抗議集会が行われ、暴動が発生するに至った(増穂町警襲撃事件[6][7]

「年譜」によれば、この事件の首謀者と目された徳平には逮捕状が出される[8]。徳平は東京へ逃れると宮城県北海道で行商を続けるが、同年10月に出頭すると甲府刑務所に収容され、同年に保釈出所となる[6]。なお、徳平は1967年(昭和42年)に『大森徳栄伝』においてこの事件を記している[6]

徳平は『作家』『文藝春秋』に増穂町町会議員選挙を題材に農民ルポターシュとして「山峡町議選誌」を連載し、1956年(昭和31年)下半期の直木賞候補となる[5]。1977年(昭和52年)には初の短編小説集『甲府盆地』を刊行した[2][5]。生地である山梨県の風土に根ざした作品を多く手掛ける。

生地の富士川町大久保の戸川渓谷には『甲府盆地』所収の短編「米と繭」の一節が刻まれた文学碑が建設されている[2][5]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『特設展 山梨の農民文学』
  2. ^ a b c d e f g h 『特設展 山梨の農民文学』、p.10
  3. ^ a b c d 堀内(2008)、p.39
  4. ^ 堀内(2008)、pp.39 - 40
  5. ^ a b c d e f g h 堀内(2008)、p.40
  6. ^ a b c d 堀内(2007)、p.128
  7. ^ a b 『増穂町誌』
  8. ^ 堀内(2007)、p.124

参考文献[編集]

  • 『日本近代文学大事典』
  • 『直木賞のすべて』
  • 『特設展 山梨の農民文学』山梨県立文学館、2003年
  • 堀内万寿夫「熊王徳平自筆「年譜」」『資料と研究 第十二輯』山梨県立文学館、2007年
  • 堀内万寿夫「山梨の農民文学」『甲斐 第117号』山梨郷土研究会、2008年8月