源顕定

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源顕定
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 治安3年8月4日(1023年8月22日)
官位 従四位下(上)民部大輔
主君 三条天皇後一条天皇
氏族 村上源氏
父母 父:為平親王、母:源高明の娘
兄弟 憲定頼定、為定、顕定婉子女王具平親王妃、恭子女王、教定、敦定
源済の娘
資定、頼定、頼尊
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源 顕定(みなもと の あきさだ)は、平安時代中期の貴族村上天皇の第四皇子、一品式部卿為平親王の子。官位従四位下(上)民部大輔

経歴[編集]

六位蔵人侍従弾正大弼を歴任する。

後一条朝初頭の長和5年(1016年)2月に姪の嫥子女王斎宮に立てられると、顕定は斎宮別当に任ぜられるが[1]、7月に妄りに故障を申し立てたことを理由に、藤原兼綱源親方と共に恐懼に処された。寛仁元年(1017年敦明親王に代わりに、敦良親王(のち後朱雀天皇)が立太子されると、顕定は東宮昇殿を聴されている。

寛仁2年(1018年敦康親王が没した際に、その葬送の次第を母に伝達している。寛仁3年(1019年頭弁藤原定頼に嘲笑されるが、この際に定頼が摂政藤原頼通の発言を引き合いに出したことから、逆に定頼が頼通の勘気を受けて謹慎させられている[2]。その後、民部大輔に任ぜられ、位階従四位下[3](または上[4])に至った。

治安3年(1023年)8月4日卒去。享年は不明だが、兄の生年から45歳以下であったとみられる。

逸話[編集]

あるとき、陣座五位蔵人藤原範国が職事(蔵人)として申文を受け取るため、上卿藤原実資がその申文を範国に読み上げていたところ、東の端にいた顕定は性器を露出した。範国はそれを見て噴き出したが、実資は奥の方にてそれが見えなかったためこれに激怒したため、その失態が奏上されてしまった。範国は恐れ慄いて事情を言えなくなってしまったが、顕定はそれを面白おかしく思っていたという(『江談抄』『今昔物語集』)。

官歴[編集]

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:為平親王
  • 母:源高明の娘
  • 妻:源済の娘
    • 男子:源資定(?-1070)
  • 生母不明の子女
    • 男子:頼定
    • 男子:頼尊

脚注[編集]

  1. ^ 左経記長和5年2月22日条
  2. ^ 『江談抄本』59
  3. ^ 『本朝皇胤紹運録』
  4. ^ 尊卑分脈』村上源氏
  5. ^ a b 『左経記』
  6. ^ 『御堂関白記』
  7. ^ 『小右記』
  8. ^ 『小右記』治安3年8月6日条