清原清

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清原 清(きよはら きよし、天保2年(1831年) - 慶応4年閏4月25日1868年6月15日))は、新選組隊士(砲術師範)、御陵衛士。本名は西村弥左衛門

熊本藩出身。慶応元年(1865年)5月、土方歳三江戸での隊士募集に応じて上洛。新選組隊士の幕臣取立ての頃には離隊しており、御陵衛士として分離した伊東甲子太郎に合流した。その後、竹川直枝または、武川直江と改名。油小路事件の際には伊勢に出張しており難を逃れている。

帰京して加納鷲雄と江戸へ出張中に鳥羽・伏見の戦いが始まったため、薩摩軍に身を投じた後、北関東から会津へと転戦する。新政府軍に投降してきた近藤勇の正体の判別を行った隊士でもある。白河口の戦いで戦死した。享年38。

墓は戒光寺、鎮護神山(白河市薩摩藩戦死者墓)にある。白河市内の新政府軍の墓所郡に埋葬されたが、薩摩藩は鎮護神社に墓石を建てた。

鉄砲の達人であったという。