深井鑑一郎

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深井 鑑一郎(ふかい かんいちろう、慶応元年(1865年) - 1943年3月24日)は、日本の教育者儒学者

来歴・人物[編集]

武蔵国岩槻生まれ。生家は微禄で貧しかった。7歳のとき、岩槻藩藩黌児玉南柯由来の遷喬館にて句読を学び、小学校を経て埼玉県立中学師範学校[1]副科漢学部で4年学んだ。1883年(明治16年)、東京大学東京大学 (1877-1886))文学部古典講習科漢書課に合格したが、1885年(明治18年)同科の官費給付が廃止されたため、私立東京感化院に勤めた[2]。その後、福島師範学校教諭を経て、1891年(明治24年)、皇典講究所教師に着任し、共立中学校(現:都立戸山高校)で教える。1898年(明治31年)、東京府城北尋常中学校(現:都立戸山高校)校長に就任。以来、1938年(昭和13年)までの40年間にわたって東京府立第四中学校(現:都立戸山高校)の校長を務め、府立四中中興の祖と称される。また、深井が編纂した漢文教科書は全国の学校に普及した[3]

1902年(明治35年)、詳細な10の徳目と生徒注意事項も30にわたる項目を制定。対外スポーツ試合などは禁止され、予習・復習はガッチリやらせ、服装チェックも厳しく、他校と比べても非常に厳正なものだった。遺忘(忘れ物)のチェックは府立中学全四校でも実施されていたが、それが3回(あるいは5回とも)に及ぶと、府立三中同様成績評価がワンランク下げられたりした。このように四中の生活や勉学の指導は府立中学の中でも特に厳しいものであったが[4]、卒業生の中にはこうしたスパルタ教育を断罪する者もいた半面[5][6]、非常に役に立ったという声も多くあった[3][4]

勉学面では、四年1学期で5年間のカリキュラムを終えて、残りを受験指導に充てた。一高入学者数以上に四年修了での地方も含めた官立上級校への入学を指導していたが、修身の時間には、いつも一高など官立上級校への入学成績の話をする時、話題の中心は四中と一中との対比であった。こうした教育指導の成果もあって、明治の後半から昭和にかけて府立四中と一中が一高合格率を競うようになり、一中川田正澂校長最後の年には一中を抜いて一高合格者数でトップに立った[3][7]

1935年(昭和10年)、府立四中補習科(後の卒業生講習会、1967年(昭和42年)に都通達で廃止)を分離し、私立城北高等補習学校を開校(後の城北予備校1987年(昭和62年)廃校)。

1940年(昭和15年)、富士見高等女学校(現:富士見中学高等学校)校長に就任。

1941年(昭和16年)、弟子の井上源之丞凸版印刷社長)とともに城北高等補習学校の寄宿舎を仮校舎として城北中学校を創立、同校の初代理事長・学校長に就任。

著書[編集]

  • 訂正中学漢文読本巻一(1902年弘文館
  • 訂正中学漢文読本巻二(1903年、弘文館)
  • 訂正中学漢文読本巻三(1903年、弘文館)

脚注[編集]

  1. ^ 後に埼玉県立師範学校に統合(埼玉県庁HP「埼玉県教育史 第3巻 目次」第六節 教員養成 を参照)。
  2. ^ 『東京府立中学』(岡田孝一、同成社、2004年5月)p.44
  3. ^ a b c 『東京府立第一中学校』(須藤直勝、近代文藝社、1994年9月)p.161, p.170 などを参照。
  4. ^ a b 「府立一中の自由主義に対し、四中は厳しかった。<中略> 一中に比べると四中の父兄はそれほど裕福な家庭ではなかった。一中は家庭教師が雇えても、四中の生徒はそんな家庭ではなかった。そのかわり、四中がそれを学校で教育するから覚悟せよということだった。四中では宿題と小試験が毎週交互にあって、特に英語は厳しかった。<中略> 1年から4年の間に5年までの科目をすべて終えるというカリキュラムだった。」「航研機YS-11を設計された木村秀政先生は、四中の4年から一高、東大(航空)に進んだ優秀な人だが、その木村さんがご自身の本の中に「若い時はどれほど詰めたっていいんだ。私が今日英語を話せるのは、四中の英語教育のお陰だ」とおっしゃっている。」「野球は9人制なので「お前以外の8人の勉強のさまたげになる」というので禁止だった。もし野球をやって見つかると3日間の謹慎なので、みな隠れてしたものだ。」「四中の授業での先生と生徒の間は粛然としたものだった。中学といっても小学校を終わったばかりのまだ子供だから、変な声を出して友達を笑わせてみたりすると、忽ち摘み出されて廊下に立たされ、挙句の果ては居残りというので、とにかく緊張感があった。」「スパルタ教育の善し悪しは人の受け止め方次第だが、私は四中の延長線上で陸士に行ったので全然苦痛にはならなかった。国家観は「忠君愛国」で同一路線だから、全く違和感はなかった。」 城北会千葉支部 PDF『「特攻」―遥かな遠い空 元「疾風」特攻隊長 堀山 久生 氏 (S17)』(●城北会千葉支部会誌 第7号、2010年11月発行)p.1~参照
  5. ^ 宮沢俊義ら数人は東大時代に深井を招いた場で、面前で一人一人深井を弾劾。深井は中座した。『東京府立中学』(岡田孝一)p.144
  6. ^ その他に、「修身の時間は「作法心得」という小さな教科書のようなものを基に深井が話をし、何か先生まで「作法」に従って講話をされている感じで、学校全体が「形式的道徳」を実践している趣きがあってあまり親しみを感じなかった。」というのもある。『若き日の思い出 数学者への道』(彌永昌吉岩波書店、2005年6月3日)p.42より引用。
  7. ^ 『東京府立中学』(岡田孝一)p.49, p.156 などを参照。

参考・関連書籍[編集]

  • 『府立四中・都立戸山高校百年史』(都立戸山高等学校百年史編集委員会、1988年)
  • 『東京府公立中学校教育史』(桑原三二著・発行、1981年)
  • 『東京府立中学』(岡田孝一、同成社、2004年5月)