死ぬ義務

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死ぬ義務(しぬぎむ)は、生命倫理学における概念

概要[編集]

終末期患者老人は、家族の負担や社会的要因から延命のための治療を拒否して死を早める義務があることを感じるという概念[1]

死ぬ権利と死ぬ義務という類似した2つの概念があるが、死ぬ権利については欧米でも日本でも支持率が高かったが、死ぬ義務については欧米では支持率が高かったが日本では低かった[1]

武谷三男那須宗一野間宏水上勉松田道雄ら文化人5人を呼びかけ人として1978年に結成された『安楽死・尊厳死法制化を阻止する会』によれば、「尊厳死を法制化するということは人に死ぬ義務を課し、弱者に死の選択を迫る権利を周囲の者に与えることである」と主張する[2]

松本市長菅谷昭によって書かれた文章では、「これからの日本は超高齢化社会になり、このことから老人に費やす医療費が膨大になり、更には介護福祉にかかる費用も膨大になる。このため少子化である若い世代に負担を負わせて良いのかと思えば死ぬ義務という言葉がちらつく」とある[3]

テネシー大学教授で哲学者ジョン・ハードウィッグ英語版によって書かれた文章では、「医学が更に進歩して現在には致死に至る病気である心臓発作脳卒中なども完全に治療可能になったならば、人間は痴呆か衰弱状態まで生きながらえるようになるだろう。だがこのような医学の進歩の結果、広範囲にわたって死ぬ義務が発生することがありうる」とある[3]

アメリカコロラド州知事であったリチャード・ラム英語版1984年の発言では、「限られた医療費ではこれから先も増加を続けるコストを支え続けることは不可能である。何らかの形で資源の割り当てに制限が設けられなければ社会全体が破綻する。救命ボートの思想に基づき、終末期の病を患う高齢者には死ぬ義務があり、後に続く者に道を明け渡す義務がある。すなわち自分の子供たちが無理をせずとも暮らしていけるようにする義務がある」と述べた[3]

小説家であり、日本財団会長や日本郵政取締役も務めた曽野綾子は、2016年週刊誌で「高齢者は適当な時期に死ぬ義務を忘れていませんか」という記事を書いた。「自分の身の回りのこともできなくなって命の危険の迫った老人は、無理して延命せずに死を迎えるべきではないか、死を覚悟する教育も必要である」との主旨を述べた[4]

経済学者成田悠輔は、2021年12月17日にアベマTV少子高齢化・労働生産性・人口減少社会地域過疎化などの番組討論にて、「唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなことしかない。けっこう大真面目で、やっぱり人間って引き際が重要だと思う。別に物理的な切腹だけでなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて、過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤーで多すぎるのがこの国の明らかな問題で、まったくろれつが回っていなかったり、まったく会話にならなかったりするような人たちが社会の重要なポジションをごくごく自然に占めていて、僕たち、それが当然だと思っちゃっているじゃないですか。当然だと思っていることがすごく危機的な状況だと思っていて、消えるべき人に「消えてほしい」と言い続けられるような状況をもっとつくらないといけないんじゃないか。」と発言した。2023年2月、ニューヨーク・タイムズによりこの発言が言及されると、日本国内にて批判が相次ぎ[5]、成田がCMに出演したアルコール飲料の不買運動が起こり、CMがキャンセルされるなどの騒動となった[6]。第101代内閣総理大臣岸田文雄2024年3月、成田の発言に対して「発言は不適切だと強く感じる」と表明した。成田本人は2023年7月の財務省広報誌の対談内にて、「「集団自決」という単語はよくなかった。その表現はよくないと思ってやめた」「主張の中身はシンプルで今も変わっていない。日本社会に新陳代謝を起こすべきというものだ」と述べている[7]

脚注[編集]