植本一雄

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植本 一雄(うえもと かずお、1933年昭和8年)11月20日 - 1953年(昭和28年)6月26日)は、日本作曲家作詞家。「長崎の鐘」を作詞作曲したことで知られる。東京府出身。

経歴[編集]

1933年(昭和8年)、東京府で生まれる。父は植本十一、母は植本コユウの長男。

4歳からピアノを習い、7歳から4年間絶対音感教育を受ける。10歳にて鈴木鎮一ヴァイオリンを、シャピロにピアノを習うも戦争のため中断。この頃から作曲を始め、19歳で亡くなるまで数多くの童謡、歌曲、霊歌カンタータ、ピアノ曲を作曲する。

14歳にて日本ビクター児童合唱団にボーイソプラノとして入団、GHQチャペルセンター聖歌隊にも加わる。

1949年(昭和24年)、東京都千代田区暁星高等学校に入学する。暁星高校1年生の時に聖堂ベネディクションオルガン伴奏者に任命される。続いて暁星聖歌隊長を拝命する。16歳より渡辺浦人に師事、作曲理論を学ぶ。

音楽家志望により暁星高校を2年にて中退し、作曲理論を高田三郎、合唱指揮法を中田羽後に師事して音楽と語学(英語フランス語)の勉学を続ける。

1949年(昭和24年)に作詞作曲した「長崎の鐘」は藤原義江の歌でビクターレコードから発売され、永井隆によって賞賛される。また、懸賞入選の新賛美歌「みまねきかしこし」は329番として賛美歌集に収録される。

一方、19歳の時、青少年の健全育成を目指した「世界あじろ木同盟」を設立し活動するも、病のため1953年(昭和28年)6月26日にこの世を去った。

柳原白蓮は「貴方は余りに美しかった まるで生きた観音様のような・・・」で始まる弔辞で、「天つ空にあらわれいでし星のあり きみがみたまのひかりとぞ思ふ」の歌を詠んだ。

その他[編集]

2012年平成24年)2月、日本経済新聞社の佐久間良子の「私の履歴書」(日本経済新聞社)に初恋の人として紹介される。

静岡県富士宮市奇石博物館敷地内に、植本一雄が「世界あじろ木同盟」設立の意志を表して詠んだ「日の本のこの国こそは神様の光うけづぐ神の国なり 大世界平和のために一心に祈る心ぞ誠なるかな」の歌碑がある。奇石博物館は植本一雄の父・植本十一が1971年(昭和46年)に設立した博物館である。

また、中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎』(別冊宝島2192、宝島社)に拠れば、母親が伊勢神社参拝中に産気づいて生まれ、南朝の皇統を継ぐ者として霊示を受けたといい、1952年(昭和27年)に当時の皇太子明仁上皇)よりも80日早く「立太子礼」を行った。

出典[編集]

  • 『植本一雄歌曲集』(酒井陽太、あじろ木教苑、2003年

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