棲霞山石窟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
棲霞山石窟

棲霞山石窟(せいかざん せっくつ)は、中国江蘇省南京郊外の棲霞区棲霞山(摂山)西麓にある仏教石窟。別名は千仏巌。また、附近には、代に造営された天開巌も存在する。

概要[編集]

棲霞寺背後の砂岩質の岩壁を造営した石窟群であり、南朝斉以後に江南地方で営まれた石窟で、遺例が少ないため資料的価値が高い。

棲霞寺を開創したのは、南朝斉の処士の明僧紹である。法度を招請して建立し、その後、三論宗僧朗僧詮吉蔵といった諸祖と称せられる名だたる学僧が住した。故に、この地は、三論宗の発祥地とも呼ばれている。

寺の方は、寺名が代以後に、功徳寺、棲霞寺、普雲寺、虎穴寺と変遷し、明代の初めに棲霞寺と変わり、以後、現在に至っている。

石窟に関しては、唐の上元3年(676年)に造立された「明徴君碑」に関連する記述が見られる。それによれば、石窟を造営したのは、明僧紹の子にあたる明仲璋や法度らである、という。また、本尊に相当する無量寿仏像は、南朝梁天監15年(516年)に、臨川王蕭宏が建立した、とする。

一方、『摂山志』には、南朝陳江総による文章が収められている。

中央には、北面した石窟(幅8.18m、深さ6.67m)が穿たれ、その中に無量寿仏像を安置している。その仏像を中心として、小規模な石窟が北東方向に4窟、西側に20窟が確認できる(幅3.64m、深さ3 - 0.9m)。三尊仏や十六羅漢金剛力士四天王像などが彫られている。

この石窟は砂岩質のため、岩質が脆く、摩滅が著しい。また、入り口部分などは後世の補修がされている。

参考文献[編集]

  • 常盤大定関野貞『支那仏教史蹟』4(1926年)
  • 稲本泰生「南京棲霞寺石窟試論:五世紀末〜六世紀初頭の建康造像の位置づけをめぐって」(『仏教史学研究』39(2)、1997年)
  • 黄征主編『南京棲霞山石窟芸術与敦煌学』(中国美術学院出版社、2002年)ISBN 7810830910

関連項目[編集]

座標: 北緯32度09分13秒 東経118度57分29秒 / 北緯32.1536度 東経118.9581度 / 32.1536; 118.9581