桑原茂一

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桑原 茂一(くわはら もいち、1950年12月9日 - )は、日本音楽プロデューサーコント作家・放送作家・雑誌編集者・選曲家。本名:桑原茂(くわはら しげる)。ライターとして「クワハラモイチ」「桑原茂一2」などを名乗る。現在、プロデュースカンパニー「株式会社クラブキング」代表取締役。岡山県出身。

略歴[編集]

幼少時、鉱石ラジオから聞こえてきたビートルズに衝撃を受け、ラジオと音楽にのめりこむ。1969年、DJバー「キャッチボックス」を西麻布に開店。音楽業界とのコネクションはこの頃からでき始める。1973年、アメリカのカルチャー誌「ローリング・ストーン」日本版のスタッフとなり、製作の陣頭指揮を執る。同誌では小林克也を「DJオブ・ザ・イヤー」に推し、小林との知遇を得る。またファッション業界との交流も同誌における仕事から生まれていく。1975年、「ローリング・ストーン日本版」がスタッフの不祥事により廃刊の憂き目に会うが、同時期、「BIGI」のファッションショーの為の選曲、および「エドウイン」から店舗BGMの製作を依頼され、この時採用された「ウルフマン・ジャック・ショー」のパロディスタイルのアイデアが後の「スネークマンショー」の原点となっていく[1](「スネークマン」時の活動については同項を参照)。また1977年より、以後20年以上に渡って担当することになる「コム・デ・ギャルソン」のファッションショー選曲を開始する。

1982年3月、原宿に「ピテカントロプス・エレクトス」開店、代表に就任。同店では、盟友中西俊夫率いるMELON東京ブラボーショコラータミュート・ビート坂本龍一高橋悠治などのライブ、高木完藤原ヒロシによるDJプレイが披露され、また、ジョン・ライドンクラウス・ノミキース・ヘリングジャン・ミッシェル・バスキアナム・ジュン・パイクデヴィッド・バーンをはじめ海外からも数々のミュージシャン・アーティストが訪れるなど、その存在は以後の日本のストリート・カウンターカルチャーに多大な影響を与えることになる[2][3][4]。同年、ゲストミュージシャンとして高橋幸宏細野晴臣土屋昌巳パーシー・ジョーンズを迎え製作されたMELONの最初のアルバム「Do You Like Japan?」[1]をプロデュース。

1984年宮沢章夫竹中直人中村有志いとうせいこう大竹まこときたろう斉木しげる松本小雪と演劇ユニット「ドラマンス」を旗揚げし、メンバーとしてプロダクション人力舎に所属する。

1986年、日本音楽選曲家協会(略称:音選協)を設立、発起人代表を務める。1987年、クラブキング設立[5]1988年フリーペーパー「dictionary」[2]を創刊[6]。90年代以降も、「RADIO HEAVEN」、「ブルー・フィルム」などの活動のほか、TBSにて放送された「大帝国劇場」のスーパーバイズ、その他、CD製作、イベントオーガナイズ、podcasting、ファッションショーの選曲・音楽監督、ラジオ・テレビ番組制作、映画音楽など、さまざまな手段で独自のコントや音楽・文化を発信し続けている。また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を機に発行された坂本龍一とML「suspeace」が監修する「非戦」に参加[7]、同じく坂本の呼びかけによる「Stop Rokkasho」[8]、およびmore treesプロジェクト[9]に参加するなど、社会問題や環境問題などへの発言も積極的に行っている。

2010年1月5日「桑原茂一のPIRATE RADIO」[3]InterFM)放送開始。また2010年7月、東京都水道局出張所跡地(東京都渋谷区神南1[10])を利用し、"学ぶを遊ぶ - 働く大人が学ぶための「学校」= ART SCHOOL"のコンセプトのもと、さまざまな人材の交流と情報発信を目指して「ディクショナリー倶楽部 ART SCHOOL」[4]を開校[11]。校長として茂木健一郎、またリリーフランキー萱野稔人ヒロ杉山しりあがり寿近田春夫野崎良太高橋健太郎など、各界著名人を講師陣として迎える。

脚注・出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]