柿崎晴家

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柿崎 晴家(かきざき はるいえ、生年不詳 - 天正6年(1578年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏の家臣。柿崎城主。別名は平三郎、左衛門大輔、左衛門大夫、家憲、晴景。和泉守。子に憲家

生涯[編集]

上杉謙信の重臣・柿崎景家の次男として生まれる。

永禄13年(1570年)3月5日、謙信と北条氏康越相同盟を結んだとき、子の無い謙信に代わって、北条氏に対する人質として晴家が差し出された。しかし、氏康が死去して同盟が破棄されると景家のもとに戻っている。天正2年(1574年)に景家が死去すると、家督を継いで柿崎家の当主となる。翌天正3年(1575年)の『上杉家軍役帳』によると260人の軍役を負担したという。

天正6年(1578年)、謙信死後に上杉景勝上杉景虎との間で家督争い(御館の乱)が勃発すると、晴家は景虎を支持したため、景勝方によって春日山城内で謀殺されたという。ただし、子の千熊丸(後の憲家)を擁した上野九兵衛率いる家臣団の一派が景勝方に与したため、千熊丸を当主として柿崎家は存続した。

また、天正5年(1577年)に織田方への内通を謙信に咎められ誅殺されたとする説がある。

関連項目[編集]