柳井恒夫 (外交官)

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柳井 恒夫(やない ひさお[1]1895年明治28年)11月6日[1] - 1981年昭和56年)7月21日[1])は、大正・昭和期の外交官弁護士

略歴[編集]

東京 [2]で医師・柳井貴三の二男として生まれる[1]1913年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業、第一高等学校を経て[1]1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した[1][2]

1919年7月、外務省に入省し外務属として電信課に配属された[1][2]。同年10月、高等試験外交科試験に合格[1][2]。以後、シャムフランスベルギーブラジル、外務省アジア局第一課などで勤務した[1][2]1931年1月、領事に任じられ奉天在勤となり満州事変に遭遇した[1][2]。以後、アジア局第三課長、東亜局第三課長、兼東亜局第二課長、ドイツ大使館一等書記官、同参事官、ジュネーヴ総領事兼国際会議帝国事務局次長、興亜院経済部長などを歴任[1][2]1940年12月、コロンビアエクアドル特命全権公使に任命され、1941年3月、ボゴタに着任したが、1942年4月、公使館引揚となり、同年8月に交換船で帰国した[1][2]。同年12月より外務省内に新設された戦時調査室に異動[3]。1943年5月、ルーマニア駐箚が発令されたが赴任せず、1944年11月、条約局長に就任し、1945年6月に退官した[1][2]

1946年4月、弁護士登録を行い[1][2]極東国際軍事裁判において重光葵の主任弁護人を務めた[2]

家族・親族[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本近現代人物履歴事典』534頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『新版 日本外交史辞典』1010頁。
  3. ^ 省内に戦時調査室を設置(昭和17年12月2日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p43 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ a b [時代の証言者]外交の力 信じて 柳井俊二<2>敗戦予感した5歳児 : 時代の証言者 : 企画・連載”. 読売新聞オンライン (2022年2月28日). 2022年3月2日閲覧。
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。

関連項目[編集]

先代
宇佐美珍彦
国際会議帝国事務局次長
1938年 - 1940年
次代
小林亀久雄