柏木貨一郎

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柏木 貨一郎(かしわぎ かいちろう、天保12年1月16日1841年2月7日) - 明治31年(1898年9月6日)は、明治時代好古家(古美術鑑定家・収集家)、工匠。名は政矩。号は探古、探古斎。

江戸(東京)出身。神田和泉橋の糸屋・辻家に生まれる。幕府の大工棟梁・柏木家の養子となり、9代目を継ぐが、まもなく幕府が倒れた。明治維新後は文部省に勤務し、町田久成らとともに正倉院をはじめ古社寺の宝物調査にあたった。町田が博物館行政から離れた後、官職を辞したようである。

古美術の鑑定家、収集家として知られ、龍池会の創設にも関わった。また、三井集会所(1898年)、益田孝邸、渋沢栄一邸など和風建築や茶室の設計を行った。著作に「集古印史」などがある。

大隈重信の妻の大隈綾子が大隈に嫁ぐ前の綾子の夫だった。

1898年、上根岸の自宅から王子渋沢栄一邸に向う途中、法隆寺の古材で作った下駄が線路に挟まり、それを取ろうとして汽車に接触し死亡した[1]

なお急激な脳震盪により線路脇に卒倒し、数日後に亡くなったという説もある[2]

参考文献[編集]

  • 山口昌男「日本近代における経営者と美術コレクションの成立 : 益田孝と柏木貨一郎」『比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要』第3号、札幌大学、1999年3月、7-53頁、ISSN 13466844NAID 110004041315 
  • 近江栄, 大川三雄, 向後慶太「近代和風建築を支えた工匠に関する史的研究」『住宅総合研究財団研究年報』第18巻、住総研、1992年、117-128頁、doi:10.20803/jusokennen.18.0_117 

出典[編集]

  1. ^ 研究小話「目利きの系譜II―下駄の話―」谷内克聡、群馬の森美術館ニュース170号、群馬県立近代美術館、2017 10/1、p3
  2. ^ 「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」松田延夫、里文出版、2002