松山幾之助

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松山 幾之助(まつやま いくのすけ、弘化2年(1845年[1] - 元治元年7月6日1864年8月7日))は新選組隊士。

生涯[編集]

岡山藩家老池田伊賀守家来、松山金平の忰と言われる[2]文久2年、岡山藩士上坂多仲に召し抱えられ、文久3年6月、大坂の陣屋までお供するが7月に出奔、新選組へ入る[2]

元治元年7月6日、松山は、新選組の密偵として西国の動きを探るため、岡山奥市谷に潜入していたが、岡元太郎小原重哉ら7名の浪士に斬殺され、一本松の御成橋に梟首される。襲撃者のうち岡ら4名は後に自首のうえ赦免された。 この事は新選組隊士の残した資料には残っていない。松崎静馬と同一人物とも。 死亡日付は、異説として、4月6日、7月7日の説がある。

脚注[編集]

  1. ^ 「新撰組名前」伊藤哲也『史料集成 斎藤一』 歴史春秋社 196~197頁
  2. ^ a b 佐藤隆一『幕末期の老中と情報 水野忠精による風聞探索活動を中心に』 思文閣出版 2014年 285~287頁