李勣

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李勣・『清宮殿蔵本』より

李 勣(り せき、開皇14年(594年) - 総章2年12月3日669年12月31日))は、中国軍人は懋功(ぼうこう)。滑州衛南県の出身。本貫曹州離狐県。元の姓は徐、元のは世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。

経歴[編集]

出身[編集]

徐蓋の子として生まれた。富家の出身で、父の徐蓋は困窮した者を別け隔てなく援助した。大業の末年、近くで翟譲が衆を集めて盗賊となり、徐世勣は17歳の時にこれに従った。徐世勣の案で、地元では略奪はせず、遠くの土地を行き交う商船などを襲って物資を手に入れ、勢力を拡大していった。楊玄感の乱に参じた李密が翟譲のもとに逃げてくると、徐世勣は李密を推戴した。隋将の王世充の軍を奇計を用いて破り、東海郡公となる。

大業13年(617年)2月、李密が魏公に即位すると右武候大将軍となった。ある時、河南と山東で大水害があり、日ごと数万人が飢餓で死んだ。徐世勣は民衆を救済するため黎陽倉を開くよう李密に進言し受け入れられ、襲撃して占拠し、食糧をほしいままに取らせた。軍勢もまたたく間に20万余りが集まった。

大業14年(618年)3月に煬帝が弑逆されると李密は越王楊侗に降り、徐世勣は黎陽を包囲した宇文化及を迎え撃つよう命じられた。外堀を深く掘って守りを固めつつ、地下道から急襲して宇文化及軍を撃退した。

武徳元年(618年)10月、李密は王世充に大敗し、に帰順した。李密の旧領は隋や唐にそれぞれ降っていったが、黎陽一帯を任されていた徐世勣はどの勢力にも所属せず固く守っていた。唐に降るよう勧められると、この土地と民衆は李密のもので、自分がこれらを献上することは主君の敗北を利用して自身の功績にすることであり、それは恥であると考えた。そこで、10の郡の軍人と戸口を記録して李密に送り、彼から唐に献上することで李密の功績にしようと図った。李淵は徐世勣の意図を探知すると「純臣なり」と称揚し、黎陽総管、上柱国、萊国公を授けた。同年12月に李密が唐に反抗して誅殺され、その反状が届けられると李密の遺体を納棺して埋葬することを願い出た。李淵が認めて遺体を引き渡すと、君臣の礼をもって黎陽山の南に埋葬した。

武徳2年(619年)閏月、徐世勣は黎陽・河南十郡とともに唐に降り、黎州総管、曹国公、国姓の李氏を授けられた。その後は唐の元で統一戦にて李淵の次男の李世民の軍の中核として活躍し、竇建徳・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると并州都督とされる。都督としての法令は厳格で突厥の侵攻を許さなかった。太宗はその働きを「隋の煬帝は優れた人材を選んで辺境の防衛にあたらせるというやり方がわからなかった。ただ遠くまで長城を築き、多くの兵士を駐屯させたが、遂に何の役にも立たなかった。私はただ李世勣を晋陽へ置いているだけで、辺境が安寧になった。まさに、数千里の長城に勝る方法ではないか!」と高く評価した。630年には李靖とともに東突厥を征伐し、奇襲を受けて逃走する頡利可汗の逃げ道に陣を敷くことで退路を塞ぎ、可汗の捕縛に貢献した。

太宗は李世勣と李靖の功績について「李靖と李世勣の二人には白起韓信衛青霍去病といった名将も及ばないだろう」と賛辞した。

左遷[編集]

しかし太宗も晩年になると李世勣の才を恐れ、皇太子李治(高宗)に対して李世勣が忠誠を誓うか否か心配になり、ある策謀を行った。それは李世勣を畳州都督へと左遷することであった。太宗は李治に対して「もし李世勣が左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう」と言い残して、死去した。李世勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。

李治が即位して高宗になると名を李勣と改め、すぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品とされ、朝廷の重鎮となる。

武則天時代と高句麗遠征[編集]

その後、高宗は武照(武則天)を新しく皇后に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が長孫無忌褚遂良于志寧であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。

その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。乾封年間の高句麗遠征(唐の高句麗出兵、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。

総章2年(669年)12月、死去。享年76。

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻67 列伝第17「李勣伝」
  • 新唐書』巻93 列伝第18「李勣伝」

関連項目[編集]