木村毅一

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木村 毅一きむら きいち
生誕 1904年4月7日
日本の旗 日本 京都府相楽郡精華町
死没 (1992-07-08) 1992年7月8日(88歳没)
日本の旗 日本 京都市左京区
国籍 日本の旗 日本
研究分野 物理学
出身校 京都帝国大学
主な業績 京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)の設立
主な受賞歴 勲二等旭日重光章
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木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)は、日本の実験原子核物理学者理学博士京都帝国大学論文博士・1940年)。京都大学教授、京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)長を経て、京都大学名誉教授。大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長も務めた。勲二等旭日重光章受章。

台北帝国大学(現・国立台湾大学)の荒勝文策教授の下でアジアで最初の加速器コッククロフト・ウォルトン型)の建設を行った(1934年完成)。敗戦直後の1945年11月に進駐軍によって廃棄された京都大学サイクロトロンをのちに再建し(1954年)、大阪府立放射線中央研究所1959年発足)、京都大学原子炉実験所(1963年発足、現・京都大学複合原子力科学研究所)の建設を行うなど、日本原子核放射線研究の場を創ることに貢献した[1]

年譜[編集]

受賞[編集]

著書[編集]

  • 『近代物理学』(荒勝文策 編、河田末吉 他8名と共著、培風館、1954年)
  • 『アトムのひとりごと』(丸善、1982年)

主要論文[編集]

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仲間[編集]

言葉[編集]

記した言葉[編集]

  • 凡てのことは、今ここにこめられてあり、今ここはおのずからある。(京都大学原子炉実験所記念碑。仏教雑誌に見た言葉の「一切」を「凡て」に替えて利用したもの。[7]

好んだ言葉[編集]

  • 亮天功(てんのわざをたすく)(出典は『書経舜典』[8]

脚注[編集]

  1. ^ 以上、『アトムのひとりごと』(著書 2)。
  2. ^ 以上、『木村毅一先生還暦記念 略歴・論文リスト』(非刊行物、1964年)。
  3. ^ 『京都大学百年史』資料編3, p. 169.
  4. ^ 『京都大学百年史』資料編3, p. 138.
  5. ^ 沿革 福井工業高等専門学校
  6. ^ 木村毅一「湯川秀樹博士を偲ぶ」『日本物理学会誌』第37巻第4号、日本物理学会、1982年4月、302頁、CRID 1390003825184767360doi:10.11316/butsuri1946.37.4.302ISSN 00290181 
  7. ^ 『アトムのひとりごと』(著書 2)p. 195、「京大原子炉建設の思い出」。
  8. ^ 『アトムのひとりごと』(著書 2)p. 135、「亮天功(てんのわざをたすく)」。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]