扶桑女子商業学校

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扶桑女子商業学校(ふそうじょししょうぎょうがっこう)は、かつて存在した日本の私立旧制実業学校

概要[編集]

1929年(昭和4年)に東京市会議員であった松山伝十郎により、現在のJR田端駅北口に程近い、東京市滝野川区田端480[1](現在の東京都北区[2]田端5-2付近)の地に女子庭訓学園として開設される。1938年(昭和13年)に田端商業女子学校へ名称を変更。ほぼ同時期に、東京市教育局長であった藤井利誉が二代目の校長に就任し、その後、二木謙三による校長の時期を経る。1944年(昭和19年)頃には戦時中にもかかわらず、1000名程が在籍し、800坪程の敷地の拡張を行い、新校舎を建設するほどの規模の拡大をみせていた。財団理事長兼名誉校長に桑本澄が就任により、1944年から1945年(昭和20年)の時期に扶桑女子商業高学校に校名の変更をおこなっていたが、[3]終戦時には戦災と考えられる原因により、近隣校の聖学院内に所在地を移している[4]

後身校は不明。

備考[編集]

戦前の旧満洲ハルピン市には「扶桑高等女学校」があったが、無関係。

出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『北区史』第六章教育 第六節戦前の教育状況、P636 (1951年刊)を参照。
  2. ^ 週刊女性』1964年8月5日号掲載の記事に「(東京都)北区滝野川にあった私立扶桑女子商業を終戦の年に卒業」とあ ノート:楠トシエ#「扶桑女子商業学校」を参照。
  3. ^ 『滝野川区史』第八章教育 第六節各種学校、P432 (1944年未刊行)、戦時中の為にゲラまで作成しながら未刊行となった区史に、校名変更を“施さんとしている”との記述あり。
  4. ^ 『北区教育史資料編第三集』(1994年刊)を参照。