張晏之

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張 晏之(ちょう あんし、生没年不詳)は、北魏末から北斉にかけての官僚軍人。『北斉書』では張宴之(ちょう えんし)として立伝されている[1][2]は熙徳[1][3]本貫清河郡東武城県[4]

経歴[編集]

張始均と鄭氏のあいだの子として生まれた[3]。幼くして父を失い、母に教育を受けて成長した。爾朱栄の下で元顥を討ち、武成子の爵位を受けた。尚書二千石郎中に累進した。高岳が潁川を攻撃すると、晏之はその下で都督中兵参軍となり、記室を兼ねた。晏之は文士でありながら、武勇も兼ねそなえ、高岳の帷幕で軍略に参与しつつ、実戦で自ら首級を上げてみせた[5][3]

北斉の天保初年、晏之の娘が高陽王高湜の妃となると、晏之は婚礼のため晋陽におもむき、宴席で「天下有道、主明臣直、雖休勿休、永貽世則(天下に道あり、主は明にして臣は直、休といえども休むなくば、永く世の則は貽からんや)」と詩を賦した。文宣帝は詩の風刺するところを理解して笑った[6][3]。晏之は護軍長史となった[7][8]

後に北徐州の事務を代行し、まもなく正式に北徐州刺史となった。御史の崔子武が北徐州を監察したとき、問題となるところを発見できず、民衆が作った「清徳頌」数篇を入手した。そこで「罪状を探したところ、賞賛の歌声が聞こえてきた」と言って感嘆した。晏之は兗州刺史に転じたが、受けないうちに死去した。斉州刺史・太常卿の位を追贈された[6][3]

子に張虔威[9]・張虔雄[10]があった。

脚注[編集]

  1. ^ a b 北斉書 1972, p. 468.
  2. ^ 『北斉書』張宴之伝のみが「張宴之」とし、同書高陽康穆王湜伝では「張晏之」とする。『魏書』張彝伝・『北史』張彝伝・『隋書』張虔威伝では、いずれも「晏之」とする。
  3. ^ a b c d e 北史 1974, p. 1578.
  4. ^ 北史 1974, p. 1574.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 468–469.
  6. ^ a b 北斉書 1972, p. 469.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 138.
  8. ^ 北史 1974, p. 1867.
  9. ^ 隋書 1973, p. 1557.
  10. ^ 隋書 1973, p. 1558.

伝記資料[編集]

  • 『北斉書』巻35 列伝第27
  • 北史』巻43 列伝第31

参考文献[編集]

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8