小澤國平

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小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日[1]1980年2月12日[2])は、日本の郷土史家、考古学者教員

経歴[編集]

埼玉県児玉郡長幡村の立石半五郎の三男として生まれる[1]1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業[1][3]。師範学校に訓導として勤務[4]1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され[5]1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭[1][6][7]1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される[8]1947年熊谷市立桜田中学校校長[1]を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長[1]となり、翌1950年熊谷市立公民館長[1]

高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している[9]1955年埼玉考古学会を創設に加わり、1968年まで副会長をつとめた[1]ほか、埼玉県文化財専門調査委員[1]、埼玉県文化財保護審議委員[10]などの任にもあった。1966年、「学校教育に携わり、また公民館の施設充実をはかって、社会教育に尽くした。」[11]として勲五等瑞宝章受章[12]1971年文化財保護法施行二十周年にあたり、長年、文化財保護に功労のあった者として文化財功労者 [13]の顕彰を受ける。同年、熊谷市文化功労者[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 署名無し 1981
  2. ^ Y.Y. 1981
  3. ^ 『埼玉県師範学校一覧 自大正5年4月至大正6年3月』埼玉県師範学校、1916年10月9日、88頁。NDLJP:910352/48 
  4. ^ 『職員録 大正5年(乙)』印刷局、1916年7月20日、202頁。NDLJP:927663/123 
  5. ^ 『官報』大正7年1月16日、p.NDLJP:2953747/11
  6. ^ 中等教科書協会 編『中等教育諸学校職員録 大正10年5月現在 第19版』中等教科書協会、1921年11月20日、200頁。NDLJP:937374/149 
  7. ^ 『職員録』印刷局、1921年12月15日、1056頁。NDLJP:986603/609 
  8. ^ 『官報』第2638号、大正10年5月19日、p.525.NDLJP:2954753/9
  9. ^ 署名なし 1939
  10. ^ 埼玉県教育委員会 編『埼玉県教育史』 7巻、埼玉県教育委員会、1977年、864頁。全国書誌番号:88039719 
  11. ^ 『叙勲名鑑 昭和41年 春季版』叙勲名鑑刊行会、1966年、250頁。 
  12. ^ 『官報』号外第48号、昭和41年4月30日、p.9.
  13. ^ 署名なし 1970

参考文献[編集]

  • 署名なし「文化財功労者表彰 太田哲氏ほか二百五十二人」『文化庁月報』第27巻、文化庁長官官房庶務課、1970年、8-11頁、NCID AN00378734 
  • 署名なし「小澤國平先生略歴」『埼玉考古』第19巻、埼玉考古学会、1981年、11頁、NCID AN00095547 
  • Y.Y.「編集後記」『埼玉考古』第19巻、埼玉考古学会、1981年、NCID AN00095547 
  • 署名なし「雑報」『埼玉史談』第10巻第6号、埼玉郷土会、1939年、417頁。