尉遅乙僧

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尉遅乙僧(うっち いっそう、コータン語Viśa Īrasangä)は、初の画家。西域の画法を唐にもたらした。

張彦遠歴代名画記』巻九によると、于闐(ホータン王国)の出身で、父の尉遅跋質那もに仕えた高名な画家だった。父を大尉遅、子を小尉遅と呼んだ。

朱景玄『唐朝名画録』では吐火羅国(バクトリア)の人とし、甲僧という兄がいたとするなど、『歴代名画記』とは説明が異なる。尉遅という姓はホータン王国の国姓であり、『歴代名画記』の方が正しいと思われる[1]

外国や菩薩の絵をよくし、その技法は「屈鉄盤糸」(鉄を屈し糸をわだかまらせる)と称された。『歴代名画記』巻二では尉遅乙僧を呉道玄閻立本とともに唐代のもっとも優れた画家として挙げている。

尉遅乙僧の描いた絵は残っておらず、現存するのは後世の模写のみである。「護国天王像」の絵はもと尉遅乙僧が描いたものと伝えられ、台湾国立故宮博物院スミソニアン博物館に模写を蔵する。

佛教大学の安藤佳香によると、ダンダン・ウィリクで発見された壁画の鉄描線は、尉遅乙僧の画風をしのばせるという[2]

画廊[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小野勝年訳注『歴代名画記』岩波文庫、1938年の p.247 註13。
  2. ^ 小島康誉「私とタクラマカン キジル 千仏洞からニヤ・ダンダンウイリク遺跡へ」『NHKスペシャル 新シルクロード 3 天山南路 敦煌』NHK出版、2005年、112-114頁。