寺田稲次郎

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寺田 稲次郎(てらだ いねじろう、1896年2月19日 - 没年不詳)は、日本民族主義者政治活動家

経歴[編集]

佐賀県に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館を卒業。中学時代に玄洋社の柔道道場「明道館」に最初は家計の都合で入門料を払わずモグリで練習していたが、腕前を評価され入門料なしで正式に門下生に加えられ、中学5年にして初段となった。このとき中学生での有段者は寺田を含め九州で2人だけであったという。修猷館では、中学3年にして大将となり、1916年4月の第1回九州学生武道大会(現・金鷲旗高校柔道大会)に同級の竹村茂孝(後の全日本柔道連盟副会長)らとともに出場して優勝を成し遂げている。

1919年4月海軍兵学校の柔道師範となり、1921年大化会に柔道師範として入り、北一輝の門下となる。1923年大杉栄遺骨奪取事件に関与。米国排日運動を怒り、野球の弊害を唱え米化討伐を宣言して、1924年7月秋水会を組織して代表となる。早稲田大学総長高田早苗不敬言動膺懲運動を起こし、同年秋早大校友会の席上で高田を襲撃した。1926年日本楽器争議では会社側を支援、朴烈事件司法省を糺弾、1928年平沼騏一郎排撃運動、不戦条約では田中義一内閣糺弾運動を展開した。

1934年11月長野朗らと日本国民党を結成し執行委員長を務める。1939年対支同志会代表となる。

戦後は1951年本間憲一郎らと新生日本国民同盟を結成、1952年松林亮らと無名会結成、国防学会理事、1953年韓国問題国民同盟結成、1961年全日本愛国者団体会議相談役、同顧問、日本同盟顧問などを歴任した。

参考文献[編集]