安谷屋正義

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安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年大正10年)8月26日 - 1967年7月29日)は、昭和時代沖縄県で活躍した洋画家[1]

生涯[編集]

東京府北豊島郡滝野川町田端(現・東京都北区田端)に生まれる。1929年(昭和4年)に沖縄県に転居し、沖縄県立第二中学校比嘉景常の指導を受け、西洋画を志す[2]1940年(昭和15年)、東京美術学校図案科に入学[3]し、在学時に出征するが、1945年(昭和20年)の敗戦で除隊する。その後、大分県日田市日田漆器に入社するが、米軍占領下の沖縄に戻り、1948年首里市儀保町(現・那覇市首里儀保町)のニシムイ美術村に住宅兼アトリエを建てて住む。

1949年、第1回沖縄美術展覧会(沖展)が開かれると、名渡山愛順大嶺政寛ら戦後第一世代の審査内容に反発し、1950年安次嶺金正玉那覇正吉らと「五人会」(1954年に「グループとしての活動の意義が終わった」という理由で解散)を結成した。安谷屋は沖縄戦によって徹底的に破壊された沖縄の現実を見つめ、モダニズムを志向した[4]

1951年には琉球大学講師に、1954年には助教授に就任する。

1957年春陽会賞を受賞し、このころより白を基調とした空間と線の構成になる。1958年には『塔』・『廃船』を制作し、同年東京の国立近代美術館で開催された「抽象絵画の展開」展に作品を出陳した。また、安次嶺金正・玉那覇正吉・安次富長昭らと「創斗会」(そうとかい)を結成し、沖展運営員にもなった[5]

1960年ロックフェラー財団基金により米・英・仏・伊の美術館を視察し、翌1961年、琉球大学文理学部美術工芸科教授に就任する。1965年大城立裕らと「ねじの会」を結成したが、2年後の1967年、46歳で死去した[6]

出典[編集]