太田聴雨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

太田 聴雨(おおた ちょうう、1896年明治29年)10月18日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、大正から昭和時代にかけて活躍した日本画家。本名は栄吉。初号・別号に翠岳。

略伝[編集]

生い立ち[編集]

宮城県仙台市出身。父は聴雨が生まれて間もなく妻を離縁したため、聴雨は母の愛情を生涯知らずに育った。後年、「制作の動機は、母を慕う心の永遠化にある」としばしば人に語っており、この生い立ちが聴雨芸術の根幹を作ったといえる。聴雨は役所では祖父の四男として届けられ、山師だった聴雨の父は不在な事が多かったため、祖父の元で育った。祖父は二日町(青葉区)で寿司屋を営んでおり、幼少から飯炊き、水仕事、漬物の仕込みと言った家業を手伝わせていた。11歳の時祖父が亡くなると、叔父や叔母に引き取られ物思いに沈む少年になっていった。

1910年(明治43年)上杉通小学校を抜群な成績で卒業。翌年14歳の時、東京で印刷工として働く父に引き取られ、上京。間もなく川端玉章門下の内藤晴州の内弟子となる。聴雨の画号もその頃から使い始め、代の禅僧・煕晦機の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」に由来する。その3年目、食費を負担しきれなくなり父宅へ戻る。家計を助けるため、不本意ながら書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送る。

青樹会[編集]

1913年(大正2年)巽画会第13回展に《鏡ヶ池》を出品して初入選。当時、巽画会は新進画家たちの登竜門であるだけでなく、青年画家の育成を謳って定例の研究会を開いていた。聴雨はこれに参加すると共に、終生の画友となる小林三季ら同輩の仲間と別に研究会を持ち、研究を40数回重ねた1918年(大正7年)青樹会とした。既に会の中心人物となっていた聴雨は、会として展覧会を開いて世にでるため、信者と偽って浅草メソジスト教会の部屋を借りて第一回展を開く。翌年の第二回展以降、作品を公募して会の拡張を図る。この頃の聴雨は、文展院展に出品した形跡がなく、青樹会の発展に自分の未来をかけていた。この頃の作品はあまり残っていないが、そうじて文学趣味でロマンティシズムを感じさせる作品が多い。

1922年(大正11年)には「反帝展・反院展」を旗印に、日本画の小団体である高原会・蒼空邦画会・行樹社・赤人社と第一作家同盟を結成する。これは日本のプロレタリア芸術の先駆けとして知られているが、その主体である高原会一派の政治色が明確になると、その年のうちに青樹社はこれを脱退している。ところが、翌年第六回展を開いていると、ちょうど関東大震災が襲い、経済的基盤をもたない青樹社は資金難に陥り、会員は四散してしまう。深い挫折を味わった聴雨は、生活のために挿絵は手がけるものの本画制作の筆を絶ち、再起に三年を要した。

院展同人へ[編集]

1927年(昭和2年)三季の紹介で前田青邨に入門して再出発する。既に31歳になっていた聴雨の心を支えたのは聖書であった。院展に二年続けて、キリストを主題とした作品を出品するも落選。1930年(昭和5年)今度は一変して、當麻寺中将姫伝説に取材した《浄土変》(現在所在不明)で、第1回日本美術院賞を受け一躍脚光を浴びた。その後も、《お産》《種痘》《星をみる女性》などの名作を送り出していった。

1944年(昭和19年)家族とともに伊豆下田疎開、同26年に東京芸術大学助教授になるまでの7年間を過ごす。戦後、岩絵具を厚く塗り込める日本画が流行しても、当初聴雨は伝統的な日本画を守ろうとした。1948年(昭和23年)の《二河白道を描く》は、正にそうした画家の自画像と言える。しかし、1950年(昭和25年)ごろから方向転換を図り、岩絵具本来の色を活かしながら色面を構成することで、物の形を表す画風へ進む。 1958年(昭和33年)東京芸術大学美術学部日本画科教授に昇任したばかりの3月、脳出血のため死去。享年62。同年11月~翌年1959年(昭和34年)1月まで、神奈川県立近代美術館にて、太田聴雨回顧展が開催される。

《星を見る女性》(1936年、東京国立近代美術館)
《種痘》(1934年、京都市美術館)


代表作[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 出品展覧会 落款・印章 備考
牡丹灯籠 絹本著色 1幅 108.0x67.0 個人[1] 1920年(大正9年)頃 款記「「聴雨」」/白文長方印
お産 紙本著色 二曲一隻 167.0x208.0 宮城県美術館 1932年(昭和7年) 第19回院展
玉瀾 絹本著色 1幅 127.0x42.0 個人[1] 1933年(昭和8年) 款記「「聴雨」」/白文長方印
種痘 紙本著色 額1面 190.0x119.0 京都市美術館 1934年(昭和9年) 第21回院展
星をみる女性 紙本著色 額1面 273.0x206.0 東京国立近代美術館[2] 1936年(昭和11年) 改組第1回帝展
千代尼 紙本著色 1幅 132.0x102.0 聖興寺(千代尼史跡保存会)[1] 1938年(昭和13年) 款記「「聴雨」」/白文方印
山陽母子 絹本著色 額1面 56.7x72.3 東京国立近代美術館[3] 1942年(昭和17年) 献納展
西郷南洲橋本景岳 紙本著色 額1面 139.0x176.0 茨城県近代美術館 1943年(昭和18年)
紙本著色 額1面 178.0x118.0 横浜美術館 1946年(昭和21年) 第31回再興院展
二河白道を描く 紙本著色 額1面 186.5x120.8 東京藝術大学大学美術館[4] 1948年(昭和23年) 再興第33回院展 「聴雨」朱文長方印
家郷 紙本著色 額1面 183.5x120.0 東京藝術大学大学美術館[5] 1949年(昭和24年) 再興第34回院展 「聴雨」朱文長方印
苔寺須弥山石 紙本著色 六曲一隻 133.0x270.0 1950年(昭和25年) 第35回再興院展
飛天 紙本著色 額1面 112.0x179.0 横浜美術館 1952年(昭和27年) 第37回再興院展
青年 絹本著色 額1面 188.0x121.0 東京国立近代美術館[6] 1953年(昭和28年) 第38回再興院展
崋山と椿山 149.2x118.8 足立美術館 1955年(昭和30年) 第40回再興院展
牡丹芳 紙本著色 二曲一隻 156.0x194.0 宮城県美術館 1956年(昭和31年) 第41回再興院展

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 宮城県美術館編集・発行 『太田聴雨展』図録 、1983年
  • 仙台市史編さん委員会編集 『仙台市史 特別編3 美術工芸』 仙台市、1996年3月、pp.409-425

外部リンク[編集]