天日別命

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天日別命
時代 弥生時代、上古
生誕 不明
死没 不明
官位 初代伊勢国造
主君 神武天皇
氏族 伊勢直、中跡直祖
父母 父:天波與命[1]
兄弟 建日別命[1]
玉柱屋姫命[1]、彦国見賀岐建與束命[1]、姫前羽命[1]、彦前羽命[1]
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天日別命(あめのひわけのみこと、生没年不詳)は、古代日本豪族で初代伊勢国造

概要[編集]

『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征に従って紀伊国熊野村に到り、さらに金烏金鵄)に導かれて菟田下県に到った。この時、神武天皇大伴日臣命長髄彦を早急に討伐するように詔し、それと共に天日別命にも「天津の方に国が有る。その国を平けよ」と勅命を下し、標劔を下賜した。天日別命は勅命に従って東方数百里の邑に到ると、そこに伊勢津彦という神がいた。天日別命は「汝の国を天孫に献上するか」と問うと、伊勢津彦は「吾はこの国を求め居住して久しい。敢えて命令を聞かない」と答えた。そこで、天日別命は兵を起こして伊勢津彦を殺そうとしたため、伊勢津彦は恐れて「吾は国を悉く天孫に献上しよう。吾は敢えて居ることもない」と言った。これに対して天日別命は退去する証拠を求めたため、伊勢津彦は「吾は今夜を以て八風を起こして海水を吹き、波浪に乗ってまさに東に入る。これが即ち吾が退いた由である」と答えた。天日別命は兵を整えてその様子を窺うと、夜間に大風が起こって波を打ちあげ、太陽のように光り輝いて陸海が共に明るくなり、波に乗って東へ去った。天日別命は平定を復命すると、神武天皇はこれに大変喜んで「国は国神(伊勢津彦)の名を取って伊勢と号せ」と詔した。また宅地として大倭国耳梨村を下賜したとされている。

『伊勢国風土記』逸文では天日別命を天御中主尊の十二世孫とし、『新撰姓氏録』左京神別伊勢朝臣条では天底立命の孫[注釈 1]という系譜を伝える。また、『皇太神宮儀式帳』などに見える建夷方命は『伊勢二所太神宮神名秘書』において天日別命の五世孫とされる。

桑名宗社に合祀された式内社の中臣神社は天日別命を祭神とする。

脚注[編集]

  1. ^ 孫は後裔の意味と見られる[2]
  1. ^ a b c d e f 西川順土校注「度會神主四門氏人出口系譜」『神道大系 論説編七 伊勢神道(下)』神道大系編纂会、1982年、415-417頁。
  2. ^ 宝賀寿男「五 崇神前代の初期分岐」『古代氏族の研究⑤ 中臣氏 卜占を担った古代占部の後裔』青垣出版、2014年、84-87頁。

関連項目[編集]