大阪市立中津南小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪市立中津南小学校
大阪市立中津南小学校(2008年10月)
地図北緯34度42分30.46秒 東経135度29分18.71秒 / 北緯34.7084611度 東経135.4885306度 / 34.7084611; 135.4885306座標: 北緯34度42分30.46秒 東経135度29分18.71秒 / 北緯34.7084611度 東経135.4885306度 / 34.7084611; 135.4885306
過去の名称 西成郡中津第二尋常小学校
大阪市中津第二尋常小学校
大阪市中津国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
校訓 強く、正しく、健やかに
設立年月日 1916年6月18日
創立者 西成郡中津町
閉校年月日 2010年3月31日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 531-0071
大阪府大阪市北区中津六丁目7番34号
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

大阪市立中津南小学校(おおさかしりつ なかつみなみしょうがっこう)は、大阪府大阪市北区中津六丁目にあった公立小学校

中津のうち阪急電鉄の線路以西の地域と、大淀北1丁目の一部を校区としていた。児童数の減少により、2010年3月に閉校した。学校跡地は2011年8月より、大阪YMCAインターナショナルスクールに転用されている。

沿革[編集]

当時の西成郡中津村で2番目の小学校として、大阪市中津第一尋常高等小学校(現在の大阪市立中津小学校)から分離する形で、1916年に西成郡中津第二尋常小学校として開校した。

1922年は、新淀川開削によって隔てられた、当時の中津町成小路(現在の淀川区新北野付近)に設置された成小路分教場を、中津第一尋常高等小学校より移管した。成小路分教場は1925年3月に独立し、大阪市中津第三尋常小学校となった[1]

1925年には大阪市への編入に伴い大阪市立となっている。また1941年には国民学校令により、大阪市中津南国民学校と称した。

太平洋戦争に伴い、1944年には京都府天田郡西中筋村上六人部村中六人部村下六人部村(現在の福知山市)へと学童集団疎開をおこなっている。また1945年6月1日6月7日大阪大空襲により、木造校舎が全焼するなどの被害を受けた。

戦災で校舎・校区の被害が大きかったため、1946年に大阪市中津国民学校(1947年に大阪市立中津小学校へ改称)へと統合され、一時休校となっていた。

1954年には大阪市立中津南小学校として独立・再開した。しかし2002年度・2003年度の2年間は大阪市の学校では珍しい複式学級を導入するなど、1学年1クラス・児童数100人に満たない小規模の状況が長期にわたって続いていた。

そのため大阪市の学校規模適正化の対象校となった。地域住民との協議により、大阪市立中津小学校に統合する(ただし大淀北については大阪市立大淀小学校校区へ編入)形で2010年3月に閉校した[2]

年表[編集]

  • 1916年6月18日 - 西成郡中津第二尋常小学校として開校。
  • 1922年 - 成小路分教場を中津第一尋常高等小学校より移管。
  • 1925年3月1日 - 成小路分教場が中津第三小学校として独立。
  • 1925年4月1日 - 中津町の大阪市への編入により、大阪市中津第二尋常小学校に改称。
  • 1941年4月1日 - 国民学校令により、大阪市中津南国民学校に改称。
  • 1944年 - 京都府福知山市周辺に集団疎開。
  • 1945年6月 - 空襲により木造校舎が全焼。講堂および鉄筋校舎の一部が損傷を受ける。
  • 1946年4月 - 大阪市中津国民学校に統合され休校となる。
  • 1954年9月 - 大阪市立中津南小学校として再開。
  • 1962年4月 - 校歌制定。
  • 1984年4月 - 講堂・屋上プール竣工。
  • 2009年11月16日 - 大阪市教育委員会、中津南小学校の閉校を発表。
  • 2010年2月27日 - 閉校式を実施。
  • 2010年3月31日 - 閉校。

通学区域[編集]

(2009年度最終)

著名な出身者[編集]

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 戦災により1946年に神津小学校へ統合され廃校となっている。
  2. ^ 大阪市教育委員会 (2009年11月16日). “市立学校の設置及び廃止について”. 2009年11月17日閲覧。

関連項目[編集]