大道寺直次
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 慶安4年10月11日(1651年11月23日)) |
改名 | 孫二(幼名)→大道寺直次→遠山直次→大道寺直次 |
別名 | 通称:内蔵助。長右衛門。 |
主君 | 北条氏政→氏直→黒田孝高→豊臣秀次→福島正則→黒田長政→京極忠高→徳川家光 |
藩 | 最終的に幕臣 |
氏族 | 大道寺氏→遠山氏→大道寺氏 |
父母 | 大道寺政繁、遠山綱景娘 |
兄弟 |
直繁、直重、弁誉、直次 直英 |
子 | 養子:大道寺直数 |
大道寺 直次(だいどうじ なおつぐ、元亀2年(1571年)- 慶安4年10月11日(1651年11月23日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大道寺政繁の四男。母は遠山綱景の娘。通称は内蔵助。正室は高城胤辰の娘。後の改名により遠山直次ともされるが、遠山康英(直次)とは別人である。
父や兄弟らと同様に北条氏直に仕えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際は父や兄弟らと同じく北条方として、御厨(現・静岡県御殿場市)で起きた郷人の一揆を鎮圧している。小田原征伐が終戦し、責任を取る形で父は自刃処分とされ、後北条氏も勢力を失った。直次は母方の姓を名乗り、遠山長右衛門と改名して豊臣秀吉家臣の黒田如水の家臣となった。翌天正19年、豊臣秀次に請われて家臣となったが、秀次が文禄4年(1595年)に秀次事件で自刃し改易となったたため、福島正則の家臣となった。福島家の家臣として関ヶ原の戦いの際は岐阜城攻略戦、次いで本戦にも従軍し、功を挙げた。
元和5年(1619年)、福島正則が改易されるとしばらくは浪人し江戸に閉居したが、黒田孝高子息の黒田長政、京極忠高らの家臣を経て寛永11年(1634年)5月、徳川家光に招聘されて幕臣となった。甲斐国内に1千石を領し、御先弓頭を勤めた。幕臣となった際、姓を大道寺に戻している。
慶安4年(1651年)、81歳で死去した。尾張藩士の舎人恒忠の子を養子とした。この大道寺直数以降、子孫は幕臣として存続している。