大幸勇吉

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大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日慶応2年12月12日)- 1950年昭和25年)9月9日)は、日本化学者京都帝国大学名誉教授[1]

物理化学の基礎を池田菊苗と共に生み出したことで知られている[2]

経歴・人物[編集]

士族であった雨夜平八の次男として加賀に生まれる[2]東京帝国大学に入学し櫻井錠二から理論化学を学ぶ[2]1892年(明治25年)に卒業後[2]第五高等学校を経て東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)にて教鞭を執った[2]

1899年(明治32年)には親交のあった池田と共にドイツに研究のため留学した[2]ライプツィヒ大学に入学し、同大学の教授であったヴィルヘルム・オストヴァルト[2]から触媒作用研究に携わり[2]、後に転校しゲッティンゲン大学にてヴァルター・ネルンストから電気化学を学ぶ[2]1902年(明治35年)に帰国後は、京都帝国大学理工科大学にて教鞭を執った[2]。後に大幸の研究成果を記録した著書を刊行し[2]、中でもその著書に言及されている「水と塩類の平衡」は削石の精製過程となったことにより[2]、日本だけでなく欧米等世界的に普及していった[2]。この成果により後に理学博士に認定された[2]1903年京大教授、1928年退官、名誉教授[1]1932年帝国学士院会員[1]

栄典[編集]

位階
勲章

著書[編集]

  • 『物理化学講義』- 1907年(明治40年)出版、日本初の物理および化学における教科書[2]
  • 『物理化学』- 1911年(明治44年)出版、上記の改訂[2]

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 大幸 勇吉とは - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大幸勇吉とは - コトバンク
  3. ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
  4. ^ 『官報』第2751号「叙任及辞令」1921年10月1日。
  5. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  6. ^ a b c d 大幸勇吉(第4版)-『人事興信録』データーベース
  7. ^ 大幸勇吉『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  8. ^ 『石黒忠篤の農政思想』大竹啓介 農山漁村文化協会 1984年 417ページ

外部リンク[編集]