塚田スペシャル

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塚田スペシャル(つかだスペシャル)は、将棋戦法の一つ。1986年塚田泰明が考案した、相掛かりの先手から仕掛ける超急戦である。この戦法によって塚田は2015年に将棋大賞の「升田幸三賞特別賞」を受賞している。

△持駒 なし
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背景[編集]

飛車先を切った相掛かりで、後手が飛車先を切りに来た瞬間に後手の横歩、△3四歩や6四歩を取りに先手が再度▲2四歩と合わせていく指し方や、1筋の歩の付き合いで1歩持駒にしてから▲1五歩△同歩▲1三歩という攻めを敢行する順は、1982年(昭和57年)ごろから吉田利勝らが試みていた。

△ 佐藤 持駒 歩2
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△ 加藤 持駒 歩
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図1は1982年1月、吉田利勝 vs.後手佐藤義則[1]。先手の狙いは△1三同香に▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩に▲6四飛から▲1四歩で、9六歩型なので▲6四飛のとき△8八飛成▲同銀△8六角の筋がない。実戦進行は、△3四歩▲1五香△8八角成▲同銀△3三角▲7七角△8五飛▲1六飛となる。△3四歩はご多分にもれず疑問手で実戦の進行となってはすでに後手敗勢となっている。3四歩では△1三同香と取り、▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲6四飛△6三歩▲6五飛なら互角だったという。これは第一感で浮ぶ平凡な順である。なぜ、やさしいこの手順を指さなかったかは、実戦心理のなせるわざというしかないとみられていた。結局わずか51手で先手が快勝[2]。吉田はその後同一局面を第8期棋王戦予選で対滝誠一郎戦でも試み、後手の滝は先手の▲6四飛までの順で△6三歩とせず△8八飛成とし、先手も▲6ニ飛成となって乱戦となっている(結果は先手勝ち)[3]

また、図2は1982年9月22日 全日本プロトーナメント(朝日杯の前身)、先手神谷広志 vs. 後手加藤一二三戦(当時は名人位)。以下△2四同歩▲同飛に後手加藤は△8五飛とした。類似の局面は1982年4月20日、第8期棋王戦本戦トーナメント、先手吉田利勝 vs.後手田丸昇 戦や、1983年3月18日、棋聖戦予選本戦、先手吉田利勝 vs.後手米長邦雄(当時二冠)があった。田丸は△2四同歩▲同飛に△4四歩、米長は△7六飛としたが、いずれも先手が快勝。特に吉田対米長戦では、先手の吉田が67手、持ち時間わずか36分の消費で圧勝した[1]。吉田の解説では、もし△8四飛であると ▲2二角成 △同銀 ▲6六角が生じ、以下 △8九飛成 ▲2二角成 △同金 ▲同飛成 △7九龍 ▲6九金で、後手玉に詰みが生じている。

その後、後手の△3四歩や6四歩は、先手が▲1七歩-3八銀型では、▲2四歩 △同歩 ▲同飛 に△1四歩とすれば、先手の3四歩や6四歩は△2八歩が生じるが、一方で▲1七歩-3九銀型や▲1六歩-3八銀型では△2八歩が利かないので、先手の再度▲2四歩あわせからの横歩取りは成立するなど、『将棋世界』1984年(昭和59年)4月号付録『序盤のテクニック』において中村修が、後手陣の横歩を取りにいく際の陣形条件等について整理し、発表していた[4]

概要[編集]

先手は飛車先の交換後の飛車の位置は▲2六飛と浮き飛車に構え、駒組みを始めるか否かのところで仕掛ける。△6四歩▲3八銀に後手が△6二銀としたところで、1筋の歩を突き合って再度▲2四歩と合わせる。△同歩▲同飛と進み、6四の歩取りと端攻めを狙う。

▲6四飛と6筋の歩を取った状態で先手が道を開けた後、後手の飛車先交換が入ると、後手が飛車角交換を仕掛けて王手飛車取りを狙う筋が映るが、強襲として飛車を切ってを取る手があり難解。一躍ブームの戦法となり、様々な研究がなされ進化していく(先手の6筋の飛車を切らせないようにするため△7二銀・△6一金の形にするなど)。この戦法で塚田は公式戦22連勝という当時の新記録を打ち立てるなど、勢いに乗った。

△持駒 歩
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△持駒 歩二
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△持駒 角歩二
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しかし1987年米長邦雄谷川浩司戦で対抗策が出た。今では塚田スペシャル対策の常套手となった△7二銀型から、6四の歩を取ったときの△3四歩が決め手となった。この△3四歩は直接的には角交換からの王手飛車取りを狙う手である。また、▲3四飛と歩を取ると、6筋または2筋への歩打ちからの攻めに対応できなくなる。これは決定版とまで言われ、塚田以外の棋士は指さなくなってしまった。

それでも指し続ける塚田は、早いうちに左側の端歩を突くなどの新たな工夫を加えて指していたが、1991年のA級順位戦対谷川戦において谷川が塚田スペシャル破りの絶妙手(互いに飛車を切りあった直後の自陣飛車)を繰り出し、塚田スペシャルの息の根を止めた[5]

1986年に指されてからたった1年で決定的な対策が出てしまい廃れたが、その構想はひねり飛車に受け継がれ、ひねり飛車の流行へと繋がった。

塚田泰明の解説[編集]

『消えた戦法の謎』において行われたインタビューでは、「まさかここまで深い戦法だとは思っていなかった」、「本当の元祖は中村(修[6])さんである」などのほか、塚田スペシャルを仕掛けようとしても相手が乗ってくれない、「みんな冷たいんです」[7]、とも語っている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 将棋世界1983年6月号「熱局一番!」参照
  2. ^ 対局日誌『将棋マガジン』1982年4月号106ページ
  3. ^ 『将棋マガジン』1982年6月号
  4. ^ なお5月号付録『中盤のテクニック』は塚田が担当
  5. ^ 『消えた戦法の謎』p.185-p.186
  6. ^ 「棋士に聞く本音対談 塚田泰明九段×中村修九段 55年組とは何だったのか?」『将棋世界』、日本将棋連盟、2013年8月、107頁。 
  7. ^ 『消えた戦法の謎』p.187

参考文献[編集]

関連項目[編集]