喜多見重勝

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喜多見重忠
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年(1604年
死没 貞享2年9月15日1685年10月12日
別名 通称:久太夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 喜多見氏
父母 父:喜多見勝忠
兄弟 正忠重恒重勝佐久間実勝
堀田正吉娘・勝境院(堀田正盛妹)
伊丹勝政室(喜多見勝忠養女)、朝岡直国
養子:重治
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喜多見 重勝(きたみ しげかつ)は、江戸時代旗本・茶人。

出自[編集]

喜多見氏は、桓武平氏平将常を祖とする秩父氏の庶流・武蔵江戸氏23代当主・喜多見勝忠が、江戸に入府した徳川家康の旗本となり、武蔵国喜多見村500石を安堵された際、喜多見氏に改姓したことから始まる。

略歴[編集]

喜多見勝忠の三男として武蔵に誕生。父の死後、家督は兄・重恒が継いだため、重勝は遺領のうち1,000石を受け継ぎ、のちに1,500石を知行する。

寛永15年(1638年)5月8日、歩行頭であった重勝は小納戸野々山兼綱書院番山崎正信と共に目付に任じられる[1]。その後、大坂目代等の要職を歴任した。天和3年(1683年)12月21日に隠居、家督を養子・重治に譲った。

貞享2年(1685年)9月15日、死去。享年82。

茶人として[編集]

義兄の佐久間将監宗可流の祖)に茶の湯を学び、皆伝を受けた。のちに父・勝忠と親しかった小堀遠州にも師事し、両流派の茶の湯を学んだ重勝は、茶人としての技量を高く評価され、喜多見流を創設するに至った。世田谷区成城3丁目のお茶屋坂は、彼の茶室があったことに由来し名づけられた。

脚注[編集]

  1. ^ 『史料綜覧』第12編之917 232頁

出典[編集]