呉克忠

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呉 克忠(ご こくちゅう、生年不詳 - 正統14年8月13日[1]1449年8月30日))は、明代軍人。もとの名は答蘭。モンゴルの出身。

生涯[編集]

呉允誠の子として生まれた。永楽3年(1405年)、父に従って明に帰順した。永楽8年(1410年)と永楽12年(1414年)、父に従って永楽帝の第一次・第二次漠北遠征に参加した。のちに名を克忠と改めた。永楽16年(1418年)2月、恭順伯の爵位を嗣いだ。永楽21年(1423年)と永楽22年(1424年)、永楽帝の第四次・第五次漠北遠征に参加して、北元アルクタイの軍と戦い、弟たちとともに功績を挙げた。

洪熙元年(1425年)、貞順恵妃宣徳帝の後宮に入内したことから、克忠は外戚として恭順侯に爵位を進められた。宣徳5年(1430年)2月、薛禄が総兵官となると、克忠はその下で副総兵をつとめた[2]

正統9年(1444年)、兵を率いて喜峰口に進出し、ウリャンカイを討って功績を挙げ、太子太保の位を加えられた。

正統14年(1449年)8月、土木の変が起こると、克忠はその弟の都督呉克勤や子の呉瑾とともに殿軍をつとめた。オイラト兵に山上から矢石を雨と浴びせられ、克忠は馬を下りて応射したものの矢が尽き、呉克勤とともに陣没した。

邠国公の位を追贈された。は忠勇。子の呉瑾が恭順侯の爵位を嗣いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 『明英宗実録』巻181, 正統十四年八月庚申条による。
  2. ^ 談遷国榷』巻21

参考文献[編集]

  • 明史』巻156 列伝第44