北野うし

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北野 うし(きたの うし、1873年(明治6年)9月 - 1963年(昭和38年))は、女義太夫の太夫(語り手)。 ビートたけしら有名人を輩出した北野家の祖である。

人物[編集]

1873年9月、徳島城下通町で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれた。実家は裕福な商家であったと伝えられる。その後、女義太夫の太夫となり、芸名竹本八重子を名乗る。日本では明治20年代から30年代にかけて娘義太夫が大流行し、うしも花形の一人であったという。

折からの不況で家計を助けるために1892年に上京。以後は東京各地の寄席に出演していた。 明治後期に娘義太夫を引退し、息子の徳次郎をもうける。

大正後期、成人した徳次郎は明治大学を卒業後セメント会社に勤務し、北野家はある程度裕福であったとされる。この時期うしは義太夫の指導をしていたが、名家を訪ねたときに奉公に来ていた機転の良い娘を知り、養女にして息子の妻に迎えた。この娘が小宮さき千葉県市原市出身)で、1923年1月に徳次郎と結婚。しかし同年8月18日に不幸にも徳次郎が虫垂炎に罹り急死したため、替わりにうしの実の甥で腕の良い漆職人(後にペンキ職人)正端菊次郎を1925年8月17日婿に迎え北野家を継がせた。

その菊次郎とさきの夫婦には、北野重一(1927-2012、宇野製作所取締役営業本部長も務めた)、明治大学名誉教授)、末っ子の(お笑い芸人のビートたけし)ら合計で5人の子供(残る2人の内1人は中山(旧姓・北野)安子、もう1人は幼少期に末っ子の武の生誕前に死去)が生まれた。うしはたけしら兄弟の父方の大叔母であり、母方の養祖母である。

さき、大やたけしの著書や発言によれば、菊次郎は仕事の腕が良い反面、酒癖が悪く浪費家で、菊次郎とさきの結婚後の北野家は貧しかったとのことであり、うしも苦労したという。 晩年にかけても家で義太夫の講師を務めたこともあったという。たけしは、自らの芸人の才覚はうしから受け継いだものだと語っている。

菊次郎とさき』・『たけしくん、ハイ!』(以上ビートたけし著)、『なぜか、たけしの兄です』(北野大著)などの、北野兄弟による小説やエッセイに彼女が登場する。

1963年死去。享年90歳。

北野うしを演じた人物[編集]

脚注[編集]